17年前のサンマリノGP

今日,イタリアのイモラ・サーキットでF1サンマリノGPの決勝レースが行なわれますが,17年前の日付も同じ1989年4月23日のサンマリノGPで衝撃的な事故が起こりました。

決勝4周目の高速コーナータンブレロでゲルハルト・ベルガーのフェラーリがコースアウト,約270km/hで壁に激突して炎上しました。

しかし幸いなことに,その十数秒後にはレスキュー隊が現場に到着,素早い救出活動で,ベルガーは奇跡的に軽いやけどですみました。

σ(^^;)はパソコン通信(時代を感じるこのことば(笑))で結果を知ってからテレビを見ていましたが,それでも車が一気に燃え上がったのには目を疑ったものです。実況の大川アナと解説の今宮さんは声がふるえています。

それにしてもこのときの実況が古タチでなくてよかった。

ところで,このレースはベルガーの炎上のために2ヒート制になったことで大きな火種を残すことになります。

2回目のスタートについてプロストがセナを協定違反だと批判,それまでは表面的には友好関係を保っていたふたりの不仲が決定的になりました。

国分寺ザリン事件

1995年4月20日,「国分寺ザリン事件」が起こりました。地下鉄サリン事件のちょうど1か月後です。

こんな事件誰も知らないと思いますので,当時の朝日新聞より――

二十日夜,東京都国分寺市のJR中央線国分寺駅で不審物騒ぎがあり,列車二本の運転が打ち切られるなどして乗客約六千人に影響が出た。
午後十時半ごろ,東京発豊田行き下り普通列車(十両編成)の最後尾車両に不審物があるのを乗客がみつけ,車掌が警視庁小金井署に届けた。同署の調べでは,座席下に白い紙袋が置いてあり,「これはザリンです」と書かれていた。中にはビニールにくるんだ酒のビンが入っていた。同署はビンの中身について調べているが,においもしないことから悪質ないたずらとみている。
また,三十分後に同駅についた東京発立川行き下り普通列車(十両編成)の4号車内でも,不審な紙包みが見つかった。同署で調べたところ,ピーナッツとイチゴをわら半紙に包んだものだった。

ちなみに,σ(^^;)はあとに出てくるほうの事件のとなりの車両に乗っていました(笑) まわりは大騒ぎでしたが,σ(^^;)はどうせいたずらだと思って,車両から追い出されるまでずうっと瞑想にふけっていました。

皐月賞と早慶レガッタ

16日にはクラシック三冠ロードの一冠目,皐月賞が行なわれます。

皐月賞と早慶レガッタが同じ日に行なわれたのは次のとおりです。

優勝校 1着馬 馬番 人気
1939 4 29 早大 ロツクパーク 2 7
1947 5 11 慶大 トキツカゼ 2 1
1965 4 18 早大 チトセオー 6 14 8
1966 4 17 早大 ニホンピローエース 2 6 2
1969 4 20 慶大 ワイルドモア 1 1 1
1970 4 12 早大 タニノムーティエ 8 11 1
1973 4 15 早大 ハイセイコー 4 7 1
1977 4 17 早大 ハードバージ 2 3 8
1978 4 16 慶大 ファンタスト 3 3 3
1979 4 15 早大 ビンゴガルー 2 3 3
1983 4 17 慶大 ミスターシービー 5 12 1
1986 4 13 同着 ダイナコスモス 8 19 5
1990 4 15 早大 ハクタイセイ 7 15 3
1992 4 19 早大 ミホノブルボン 2 4 1
1994 4 17 慶大 ナリタブライアン 1 1 1
1995 4 16 慶大 ジェニュイン 3 6 3
1998 4 19 早大 セイウンスカイ 2 3 2
1999 4 18 慶大 テイエムオペラオー 6 12 5
2000 4 16 慶大 エアシャカール 8 16 2
2003 4 20 早大 ネオユニヴァース 2 3 1
2004 4 18 慶大 ダイワメジャー 7 14 10
2005 4 17 慶大 ディープインパクト 7 14 1

当然といえば当然ですが,傾向のようなものはないですね。

ここでは1992年を取り上げましょう。

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1992年4月19日,第52回皐月賞寒冷前線の通過により,船橋アメダスでは,気温が12時18.9℃から13時12.6℃と6.3℃も降下。風向が南南西から西北西に変わり,雨が降り出しました。しかし,馬場状態の発表は良のまま。今はなき大川慶次郎さんはテレビ中継の中で「ことばがあれば‘やや良’というとこ(ろ)なんでしょうけどね,(リャイアンッ!!)」といっています。

レースはミホノブルボンのひとり舞台でした。

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隅田川にもどった早慶レガッタ

春のうららといえば今は高知競馬場が有名ですが(というのは2年前までの話で,今では完全に忘れられた存在(笑)),大昔は隅田川でした。その隅田川の春の風物詩といえばやはり「早慶レガッタ」。

早慶レガッタは1905年に隅田川ではじまり,敗戦後,1947年に復活したときも隅田川でした。1957年の“あらしのボートレース”も隅田川。このように隅田川で多く行なわれていましたが,川の汚染や首都高の向島線の架設工事などによって,隅田川はボートレースのできる環境ではなくなり,1961年を最後に隅田川を離れました。江戸時代から続く夏の風物詩「両国花火大会」も1961年で廃止になっています。

時は過ぎ,1970年代の後半になると,汚染対策も若干進んで隅田川にも魚が戻るようになり,関係者の努力もあって早慶レガッタは隅田川に帰ってきました。

その隅田川復活の早慶レガッタは1978年4月16日に行なわれました。コース設定などの苦労話については公式ページhttp://www.the-regatta.com/ に詳しいです。

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この日は,関東の南東海上の高気圧と日本海の低気圧の間で気圧の傾きが急な領域が関東南部にかかっており,東京では朝から南~南南西の風が吹き荒れていました。大手町の最大風速は14.8m/s,最大瞬間風速は24.5m/sでしたが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

レースは予定より遅れて15時17分に永代橋をスタート。スタート直後こそ早稲田が出たものの,早稲田の「韋駄天号」にはスタート前から水がたまっており,スピードが乗らないばかりかコントロールを失っていました。その後も清洲橋(615m地点)で2艇身ほどリードした慶應艇の水しぶきを受け,ますます浸水が進むという悪循環。結局,なんとか沈めないようにゴールまでもたせるのが精一杯,レースは慶應が55ストローク,距離にして500mもの大差で圧勝しました。

勝った慶應クルーはコックスを水に“投げ込んだ”後,われ先にと隅田川に飛び込みましたが,水はとくに汚くはなかったそうです。

このレースを見に隅田川に集まった観衆は18000人。ただし,川岸のマンションやビルの屋上の見物人,通りすがりの通行人を含めると10万人になるとか。

早慶レガッタの隅田川復帰大成功も呼び水となり,7月29日,両国の花火大会が17年ぶりに開かれることになります。ただ,当初の予定は7月22日だったようですが,1週間のびたのはなぜなんでしょう……?

慶應艇2回目の沈没~早慶レガッタ~

早慶レガッタの歴史を見ると,1957年1の他にもう1回慶應艇が沈没したことがあります。

それは1980年4月20日の第49回大会でした。

当日09時の天気図を見ると,中国東北部に発達した低気圧があり,寒冷前線が日本海側の沿岸沿いにのびていて,日本の東海上にある高気圧との間で気圧の傾きが急になっています。このため,東京では朝から南南西~南西の強い風が吹いていました。次の表は,大手町で観測された1時間ごとの風速と風向です。この日の最大風速は11.4m/s(SSW),最大瞬間風速は24.8m/s(SSW)でした。データがないのでハッキリとはわかりませんが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

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|時刻   |  8|  9| 10| 11| 12| 13| 14| 15| 16| 17| 18|
|風速m/s|  6|  9| 10| 10|  8|  8|  8|  8|  8| 10|  8|
|風向   |SSW| SW| SW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW| SW|SSW|
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隅田川は,水神橋付近から早慶レガッタのスタート地点(当時)である両国橋付近までおよそ南南西に流れています。そのため南~南西の風が吹くと水の流れと風が逆向きになり,波が立ちやすくなります。

この日も30~40cmの波が立っていました。この悪コンディションのため,レースは4000mから3300mに短縮されて行なわれることになりました。

レースは14時55分にスタート。ところが,ふつうのレースのような競り合いが見られたのは100mまででした。慶應艇「サスケハンナ号」はスタート直後から浸水が激しく,漕ぎ手を6人にして残り2人はアルミ椀を使って水を汲み出していました。一方の早稲田艇「いだてん2世号」は波除け板を艇の先端につけたのが功を奏して浸水をかなり防ぐことができ,すいすい進んで行きます。

慶應は漕ぎ手を6人から4人にし,ついにはコックスも水の汲み出しに参加しますが,ゴール前100mでついに沈没しました。

早稲田艇も終盤は浸水がはじまったので漕ぎ手を6人にしましたが,14分36秒で余裕でゴールしました。

ちなみにこの日,強風の影響を受けたのは早慶レガッタばかりではありません。横須賀沖では学生のヨット3隻が転覆する事故が起こり,鉄道関係では強風で飛ばされたビニールが架線に引っかかって東海道新幹線15本に遅れが出ました。また,前日の19日にはフェーン下の出雲市で23戸を焼く火災が発生しています。

ところで,この早稲田の勝利には,実は2年前の苦い経験がありました。それについては次回で2

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  1. あらしのボートレースとよばれる早慶レガッタ史上最も有名なレース。あらしのボートレース | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 
  2. 隅田川にもどった早慶レガッタ (1978年) | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 

あらしのボートレース

隅田川で16日,今年で第75回目を迎える「早慶レガッタ」が行なわれます。隅田川ではじまり,敗戦後隅田川で復活し,汚染などの影響で荒川や相模湖で行なわれた時期もありましたが,1978年に戻ってきてからはすっかり隅田川の春の風物詩として定着しています。

午前中からいろいろなレースが行なわれる中で,メインは対校エイト。今年は14時50分両国橋スタート予定です。

過去,いろいろなドラマが展開されてきました。第55回(1986年)では4000mを漕いで同着!!ということもありました。

その中で最も有名なのは,教科書にも載った1957年のレースでしょう。

昭和三十二年五月十二日,伝統の第二十六回早慶ボートレースが行われました。前夜からの雨は,まだやまず,さらに,春特有の強風に加えて,隅田川の水面には,かなり大きな波が立っていました。……

1961年から1970年まで使われた学校図書発行の教科書「小学校国語六年上」の中の「あらしのボートレース」の書き出しです。比較的マイナーな教科書ですが(小学校用の国語のメジャーな教科書はやっぱり光○とかT書とかでしょう),約300万人が読んだといわれています。

この日,二ツ玉低気圧が日本列島を通過していました。その影響で,東京でも前日の夜から雨が降りはじめ,風が出ていました。レースの当日も雨が断続的に降り続き,昼過ぎから風が南西に変わって強まりました。13時15分に大手町で最大瞬間風速15.8m/sを観測しています。さらにレース前には北西~北北西に変わり,ボートの進行方向に対して逆風になりました。

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当時,対校エイトは6000mで行なわれていました(現在は菊花賞と同じ?!3000m)。スタート地点は永代橋。スタートと相前後して降り出した激しい雨の中,慶應がダッシュを決め,リードして行きます。早稲田は艇を安定させるためにスタート時点から6人で漕いでいた(シックスワーク)こともあり,置かれていきます。

土手評では,前年のメルボルン五輪に出場した選手が5人残っている慶應が有利という見かたでおおかた一致していました。その土手評どおり,清洲橋で1艇身,中洲カーブで2艇身,新大橋で3艇身と慶應は順調に差を広げていきました。

このあたりから雨足がさらに強くなり,早稲田はエイトサイドの2人があらかじめ積んでおいたアルミ製の食器を使って水の汲み出しをはじめました。そのせいもあり,両国橋にかかるころには両艇の差は5艇身に広がっていました。

厩橋を通過するころにはさらに6艇身差まで広がり,一見快調のように見えた慶應でしたが,当初使うつもりであった「ケンブリッジ号」のかわりに荒れたコンディションを考慮して使用した「フィレンツェ号」にも水が溜まってきて,2人が水を汲み出しはじめました。しかし,早稲田と違ってあらかじめ排水用具を準備していなかったため,シャツをぞうきんがわりにして,汲み出すというより絞り出さざるを得ませんでした。

早稲田があらかじめ排水用のアルミ食器を積んでおいたのに対し,慶應は排水用具の準備をしていなかった……ここのところは,ボートを沈めてはならないという考えの早稲田に対し,8人で漕ぐからエイトだという考えの慶應という,両校の違いがハッキリと現われたところといわれています。しかし,この考えからすると,慶應は2人が一時的にせよ水を汲み出すために手からオールを離した時点でレースを放棄したことになるとシロウトには思えるんですが,どうなんでしょう。一時的ならいいのでしょうか。もっとも,当時の新聞によると,慶應OBの水ノ江審判長は慶應クルーにカン詰めの空きカンでもいいから持って乗るように勧めていたということなので,何が何でもオールから手を離してはいけないというわけではなさそうです。

さて,慶應のシックスワークを見た早稲田は,チャンスとばかり漕ぎ手を8人に戻して追撃を開始,あわてた慶應も8人に戻しますが,排水が不十分で艇は水面すれすれの状態,なかなかスピードが上がりません。差はたちまち2艇身,1艇身と縮まり,その上浸水はますます激しくなり,駒形橋付近でついに沈没しました。スタート地点から3800mでのできごとでした。

ひとり残った早稲田は,その後も悪戦苦闘しながら,24分02秒0でゴールしました。このタイムは6000mで行なわれた歴代の対校エイトの中で最も遅く,1艇になったせいもあるでしょうが,いずれにしてもこの日のレースがいかに苦しいものであったのかを物語っています。

「あらしのボートレース」は,次のように結んでいます。

岸に上がった早稲田の選手は,しんぱん長に,試合のやり直しを申し出ました。「これは真の勝利ではない。この悪天候では,ほんとうの力は出せない」というのです。しかし,しんぱん員の相談の結果,申し出は採用されず,早稲田の勝利と認められました。
慶応の選手たちは,「試合に対する準備が足りなかったのだから,早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って,早稲田の勝利に,心からの拍手を送りました。

青の洞門とたつまき博士

青の洞門」は大分県の山国川,耶馬溪にあるトンネルです。

今から約250年前,ここは「鎖渡し」と呼ばれる難所で,深い谷底に転落して命を落とす人馬が跡を絶ちませんでした。たまたま諸国遍歴の旅の途中,ここを通りかかった僧,禅海が一念発起してトンネルを掘って安全な道をつくることを決意,苦節30年,宝暦十三年四月十日にやっと完成させたと伝えられています。

菊池寛の『恩讐の彼方に』のモデルにもなっています。こちらの了海,俗名市九郎[*1]は不義密通の果てに主人を殺害,その上追いはぎに強盗とどうしようもない悪人ですが,禅海上人は悪人ではなかったようです。

禅海上人にしても了海にしても,真の協力者もなく,たったひとりで(了海には中川実之助という“協力者”が現われますが)信念を貫いて青の洞門を完成させた……と考えられることが多いようです。

さて,昭和のはじめのころのことです。青の洞門を福岡の中学校の修学旅行御一行様が訪れました。引率の教師は禅海上人の聞くも涙語るも涙の見てきたようなお話を聞かせ,忍耐の大切さを切々と説いたことでしょう。するとそのとき,ひとりの生徒が次のようなことをいいました。

「ぼくならはじめの15年間はトンネルを掘らずにトンネルを掘るための機械を開発し,次の15年でその機械を使ってトンネルを掘ります。そうすればトンネルはでき,機械は残り,一石二鳥です」

いうまでもなく,教師は激怒らしいです。

この生意気そうな?!生徒は,現在では気象関係者なら知らない者はないという人物……1998年に亡くなった藤田哲也博士でした [*2]。ちなみに,この人を知らない気象関係者はモグリです(笑)

藤田博士は日本では気象関係者を除くと一般にはあまり知られていませんが,竜巻やダウンバーストといった現象の世界的な権威でした。1971年に博士が考案した竜巻の強さを表わす尺度「藤田のスケール」あるいは「Fスケール」は,今でも使われています。

藤田博士の業績などについては次のサイトがあるので,興味があるかたは見てみてください。

たつまき博士の研究室 http://www.fujita-scale.com/

どうでもいいですが,σ(^^;)は“たつまき博士”から「少年ジエット」に出てきたハリケーン博士を連想してしまいますが(^^;)

禅海上人についていえば,青の洞門の開通後は通行料を徴収して財をなし(てお寺に寄付し)たらしいですし,トンネルを最後までひとりで掘ったのではなく,村人も途中からかなり協力的になったようです。年齢もあって体力的に劣る禅海上人は,トンネルを掘る職人を雇うために托鉢にまわることが多かったという話もあります。

[1] こいつの姓は何なんでしょう?
[
2] このエピソードは倉嶋厚『季節つれづれ事典』を参考にしました。

花魂を驚かして柳楊を壓す 交通機關を奪て勤人を泣す

この『南総里見八犬伝』あるいは『水滸伝』風のタイトルは,1908年4月10日付の東京日日新聞に使われていた見出しです。

一昨八日夜十時頃より満都花なる今日この頃奇しくも降り出せる妖雪《ゆき》は終夜《よもすが》ら花魂を驚かして降りしきり明けて昨朝となるも尚降り歇《や》まず春の泡雪と思ひしは違ひて世は白妙の目の行く限り白皚々たるのみか量《かさ》さへ尺と積もりて寒中にも都には容易《たやす》く見られぬ大雪,されば其が爲めの被害も少なからず……

そして,

各所の櫻花は枝もたわゝの雪に壓せられて紅褪せ白散じて見るも無殘の姿痛々しく……

とあり,桜の被害もかなり大きかったようです。

東京の積雪は20cmで,今でも4月の最深積雪となっています。

この日の雪は晩雪という点では過去数十年なかった大雪だったらしく,東京日日新聞でも東京朝日新聞でも桜田門外の変を引き合いに出しています。当時はまだ江戸末期の動乱の記憶が残っていたんですね。

桜の枝に雪が満開

1988年4月7日,太平洋岸を通過中の低気圧に北東から冷たい空気がはいるという毎度おなじみのパターンで,東京では夜から雨が雪に変わり,翌8日朝までに9cm積もりました。ソメイヨシノは4月2日に開花していたのでさあたいへん,桜が満開にならずに雪が満開になりました。

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交通機関が大混乱,あちこちで転倒者が続出するといういつもの光景に加え,桜の枝折れも各地で発生しました。

東京でソメイヨシノが満開になったのは,雪の満開から3日後のことでした。当時の新聞記事を見ると,この年の花見はさんざんだったようです。

ただ,桜の花と雪の華が両方咲いた姿というのは,とくに夜は幻想的でした。

哀歌流れる湖(琵琶湖哀歌)

滋賀県高島町に「四高桜」と名づけられた桜があります。この桜はもともとは1941年に琵琶湖の萩ノ浜沖で遭難した(旧制)四高のボート部員を悼んで植えられたものだそうです(などと書いているσ(^^;)は見たことがありません……あしからず)。詳しくは四高桜の歴史などをご覧ください。

この事故が起こったのは1941年4月6日のことでした。

当時,琵琶湖から流れる瀬田川はボート練習のメッカでした(今は知りません)。第四高等学校(今の金沢大学)のボート部員たちも,春休みには瀬田川を合宿の地に選んでいました。そして北岸まで往復の琵琶湖縦漕を行なって合宿の総仕上げとしていました。

この年も3月23日から合宿にはいっていました。3月23日から4月3日までは通常の練習に励み,4日が縦漕第1日目で石山から湖北の今津まで行き(♪瀬田の唐橋 漕ぎぬけて 夕陽の湖に 出で行きし……),5日を丸一日休養にあて, 6日に今津を出発して石山に帰ってくる予定でした。今津を出発したのが午前7時45分,そして約2時間後の9時50分ごろ,萩ノ浜沖で遭難したようです。

  新聞

この事故の気象的な原因は,「比良八荒」とよばれる地形的な強風によるものとされています。

平安時代のころから,旧暦の二月二十四日に琵琶湖西岸の比良山中で比叡山延暦寺の僧が法華経八巻を修する「比良八講」とよばれる修行が行なわれていました(現在は3月26日に形を変えて行なわれているそうです)。このころ強い北西風が吹くことがあり,「比良八荒」とよばれました。一方で,「比良八荒の荒れじまい」という諺もあり,このころが北西風(冬の風)の吹きおわりだともいわれています。

この比良八荒が吹くとき,比良山脈と野坂山地の間から琵琶湖に向かって強烈なジェット流となって吹き下りることがあります。四高のボートの11人はこのジェット流に遭遇したか,このジェット流が吹きつけて三角波が立つ湖面に翻弄されたかして,波間に飲み込まれたのでしょう。

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それから間もなく,この事故を悼んで「琵琶湖哀歌」がつくられました。東海林太郎と小笠原美都子の歌でレコードにもなりました。 2,3回聞いたことがありますが,「琵琶湖周航の歌」と「七里ヶ浜の哀歌」を足して2で割ったような古典的なメロディーです。次でMIDIが聞けます。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/biwakoaika.html

ところで,内田康夫センセの作品に『琵琶湖周航殺人歌』があります。『隅田川殺人事件』『紫の女殺人事件』などと並んでσ(^^;)の好きな作品のひとつだったりするのですが,それはともかくとして,はるか昔の四高ボート転覆事故がこの作品の中で起こる事件のそもそもの発端になっています。σ(^^;)がこの事故についてはじめて知ったのはこの作品によってでした。ついでながら,「琵琶湖哀歌」を知ったのもこの作品で,はじめて聞いたのも「火曜サスペンス劇場」で1990年7月3日に放送された「琵琶湖周航殺人歌~初夏の近江路に男たちへの鎮魂歌が流れる~」の中でした。好きなドラマのひとつですが,ヒロインのはずの森史絵さんが登場しなかったのはきわめて残念でした。このドラマはいわゆる“水谷光彦” シリーズの最後の作品です。

ほかのボート転覆事故としては,「七里ヶ浜の哀歌」で知られる逗子開成中のボート転覆事故が有名です。 1910年1月23日に七里ヶ浜沖で起こった事故で,12人全員が死亡しました。また,1934年12月28日に松島湾で(旧制)二高のボートが転覆して10人全員が死亡する事故が起こりましたが,『暴風・台風びっくり小事典』以外では見たことがありません。このあたり,時代背景もあるのでしょう。