あなたの夢は今こそかなう

1951年4月22日,阪神競馬場での第11回桜花賞クモワカは向正面で馬群に包まれる不利もあり,ツキカワの逃げ切りを許して2着に敗れました。このレースについては天候が曇,馬場状態が良ということと全着順,簡単な展開がわかるだけで,それ以上はわかりません。当時の「優駿」にも掲載されていないですし。

クモワカは翌年の夏までに通算11勝をあげ,秋に備えて休養中のところに,突然“伝染性貧血症”と診断されます。この病気についての説明が次の動物衛生研究所のサイトにあります。現在も治療法はないそうです。http://niah.naro.affrc.go.jp/disease/fact/eia.html

伝染性貧血症(正確には“馬伝染性貧血”)は家畜伝染病予防法第17条で“都道府県知事は、家畜伝染病のまん延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を命ずることができる”病気のひとつで,これに基づいてクモワカの薬殺命令が下されます。ちなみに,“高病原性鳥インフルエンザ”もこの条項に名前が見えます。当時から改正されたかどうかはわかりません。

ところが,クモワカはなぜか回復してしまい,経緯は文献によって違うのですが,いずれにしても北海道にひそかに渡り,「丘高」という名前で繁殖牝馬となって何頭かの仔を産みました。しかし,死んだはずの馬が産んだ仔の血統登録は認められず,ここに血統登録を求める裁判が起こされます。一審ではクモワカ側の負けとなりましたが,控訴審で和解が成立し,1963年9月から登録が認められるようになります。この年に生まれた“玲祐”が後のワカクモです。

1966年4月10日,第26回桜花賞――。

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前日からの雨は朝には上がり,青空が広がりましたが,馬場状態は稍重,4角の内側はかなり悪くなっています。

レースはキヨズキが逃げ,ワカクモは中団の位置。3角から内目を通って徐々に追い上げ,4角では他馬が馬場の悪い内を嫌って外をまわる中,1頭だけ最内をついて先頭に躍り出ます。一時は後続に3馬身ほど差をつけたものの,さすがに最後は脚いろが鈍り,外からヒロヨシ,さらに大外からメジロボサツがきわどく迫ったところがゴールでした。

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1966年 4月10日(日) 1回阪神8日  天候: 晴   馬場状態: 稍重
10R  第26回桜花賞
4歳・オープン(牝)  芝 1600m   24頭立
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着 枠 馬  馬名               性齢 騎手     斤量 タイム 人  廐舎
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1 4 10  ワカクモ            牝4  杉村一馬  55  1.39.5  4  杉村
2 2  4  ヒロヨシ            牝4  古山良司  55  クビ    7  久保
3 3  7  メジロボサツ        牝4  矢野一博  55  ハナ    1  大久
4 3  8  キヨズキ            牝4  武邦彦    55  1 1/4  3  内田
5 3  9  キヨシゲル          牝4  加賀武見  55  クビ    2  川上
6 2  5  タカノハホマレ      牝4  内藤繁春  55  2     13  鈴木
7 8 22  ハードイツト        牝4  簗田善則  55  クビ    8  坪重
8 7 19  ニホンピロールビー  牝4  須貝彦三  55  3     17  田所
9 4 11  アランバード        牝4  瀬戸口勉  55  1/2    10  上田
10 1  3  ミスハヤシヤ        牝4  郷原洋行  55  ハナ    9  鴨田
11 5 15  ウインジエスト      牝4  大根田裕  55  3/4    11  松田
12 6 16  リユウラツクス      牝4  野村彰彦  55  クビ   23  中村
13 6 17  タニノジヨウイナ    牝4  新川恵    55  クビ   22  吉田
14 2  6  モンタフオード      牝4  松永高徳  55  アタマ 15  梶与
15 7 20  セルフリツジ        牝4  高橋成忠  55  ハナ   20  佐藤
16 4 12  アカツキノボル      牝4  山本正司  55  クビ   14  松山
17 1  2  ヨシヒサ            牝4  松永善晴  55  1      6  夏村
18 5 14  セカイイチ          牝4  栗田勝    55  クビ    5  日迫
19 7 21  アサヤング          牝4  田島日出  55  1 1/2 24  柳田
20 8 23  マンジユ            牝4  諏訪真    55  3     16  諏訪
21 5 13  ゴルトホース        牝4  古賀一隆  55  1/2    12  西塚
22 1  1  メイシー            牝4  鹿戸幸治  55  3/4    18  田所
23 6 18  ホツカイフジ        牝4  松田博資  55  3     19  木村
24 8 24  ダテスガタ          牝4  清水出美  55  8     21  黒川
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LAP :12.9-11.5-12.1-12.2-11.9-12.4-13.1-13.4
通過:36.5-48.7  上り:50.8-38.9
単勝 10 \610    複勝 10 \240 / 4 \330 / 7 \170
枠連   2-4 \2330
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ワカクモのその後とその仔テンポイントキングスポイントについては改めて書くまでもないでしょう。ちなみに,キングスポイントの最後のレースとなった第92回中山大障害は1984年4月8日,この年は桜の開花が遅く,まだつぼみでした。

なお,この桜花賞で3着と敗れた馬体重わずか376kgのメジロボサツは,メジロドーベルの3代母に当たります。

桜花賞というと思い出す物語です。

咲いた花なら散るのは覚悟

桜の歌といえば,やはり「同期の桜」でしょう(^^;) 父が予科練だったということもあるかもしれませんが(ただし,父から戦争中の話を直接聞いたことはほとんどありません。話したくなかったのか,話そうとしても私が聞く耳を持たなかったのか,今となってはわかりませんが),好き嫌いはともかくとして,いちばんインパクトの強い歌です。

この歌は,1943年ごろ,戦況の悪化とともに歌われはじめたようですが,原形は西条八十が雑誌「少女倶楽部」の1938年2月号に発表した短編小説「二輪の櫻」の冒頭にある同名の詩です。翌1939年に大村能章によって曲が作られ,「二輪の櫻」(または戦友の唄)としてレコードが発売されました。

「二輪の櫻」は「同期の桜」とメロディーは同じですが,歌い出しが「♪君と僕とは二輪の桜……」で「♪貴様と俺とは……」ではありません。これ以外の歌詞もかなり違っており,1番だけ違いを挙げると,

s/貴様と俺/君と僕/g;
s/同期の桜/二輪の桜/g;
s/兵学校の庭/部隊の枝/g;

のような感じです。また,「咲いた花なら……」が2番,「血肉分けたる……」が1番と,入れ替わっています。

実際に曲を聞いても軍歌という感じはなく,「同期の桜」のもつ独特の末期的な悲壮感もありません。もちろんクライマックス部分の「仰いだ夕焼け 南の空に 未だ還らぬ 一番機」はありません。

去年,ついでもあったので,図書館で「少女倶楽部」1938年2月号を調べてみました。もともとプチブルのお嬢さま向けの雑誌だったようですが,かなり戦時色が強くなっており,この号には皇軍萬歳銃後の護號という副題がついています。意外なことに381ページもあります(σ(^^;)は薄い雑誌だと思っていました)。値段は3銭5厘。

特別口絵には「銃後の少女を讃ふ」というサトウハチローの詩が載っています。「支那亊變感動美談集」という特集記事もあります。

「二輪の櫻」はこの号のメインアイテムといった感じです。冒頭に件の詩が載っています。(下図参照。ただし,現物は2色刷)

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レコード版「二輪の櫻」とはかなり違います。レコード版は3番までしかありませんが,4番まであります(著作権上の問題があるかも……というより面倒なので(^^;)引用はしません。「二輪の櫻」でググればヒットするかもしれません)。しかも3番が……ヲイヲイって感じで,この時代にもやおい的世界に興味を持ついわゆる“腐女子”がいたのか……なんてツッコみたくなります。そういう意図で書かれたのかどうかは知りませんが。

やおいではありませんが,「支那亊變感動美談集」にある「前線勇士へ「光」」という話など今の感覚ではかなりアブナイ話で,笑ってしまいます。

さて,小説のほうの「二輪の櫻」ですが,海軍陸戦隊で中国に出征している兄と,母親とふたりで家を守っている妹の話です。兄は名誉の戦死,妹はその兄が生前上海の共同租界で知り合った少女(妹よりは少し年上という設定。明らかに恋仲だったと思われます)と劇的に出会い,ともに篤志看護婦として出帆していく ――という内容です。

詩の内容とはほとんど関係がなく,こういう軍歌があるという前提で話が展開しています。むしろ「二輪の櫻」とはこのふたりの少女なのではないかと思われます。

ちなみに,他の話を見ても,兄と妹の話が多いです。時代からいって恋人の話にはできないからしかたがないのでしょうけれど,あまりにも多すぎって感じです。

競馬初の三連複・三連単

2002年4月2日,浦和競馬で日本競馬初の三連複三連単馬券が発売されました。(競艇では2000年秋にすでに導入されていた)

三連複はさっそく第1レースから発売され2370円の配当,三連単は第8レースではじめて発売され,20230円と万馬券になりました。まあ,今の目で見れば,どちらも落ち着いた配当といえるでしょう。

三連複はすべてのレースで発売されていましたが,三連単ははじめのうちは1日2レース,しかも9頭以下のレースに限られていました。しかし,この制限が撤廃されるまでにはあまり時間はかかりませんでした。そしてこの年の7月には川崎競馬で三連単883万3250円,三連複165万4820円の配当が出ました。さらに8月,大井競馬で三連単975万2820円の配当が出て,しばらく破られませんでした。ちなみにこのときの的中は2枚で,30代の女性がひとりで2枚買っていたらしく,もし1枚しか買っていなければ今でも最高記録に間違いありません。

JRAでは三連複は2002年夏から(馬単と同時),三連単はかなり遅れて2004年夏からの発売になりました。しかも今に至るも後半4レースのみの発売です。もっとも,σ(^^;)は三連単は買いませんが(笑)

三連単の最高配当は,JRAでは18,469,120円(2005年10月22日東京),地方競馬では13,000,390円(2005年5月13日大井),三連複の最高配当は5,470,730円(2003年1月7日川崎)となっています。

島原大変肥後迷惑

寛政四年四月一日グレゴリオ暦で1792年5月21日),雲仙普賢岳の活動に伴う地震により前山(天狗岳)の有明海に面した側が崩壊,土砂が海に流入して津波が発生しました。津波は島原の町ばかりでなく対岸の肥後も襲い,死者は全体で1万5000人という有史以来国内で最大の火山災害となりました。島原大変肥後迷惑とよばれます。