1907年12月7日,目黒競馬場がオープンしました。今の東京競馬場の前身に当たる競馬場です。
ところがオープン初日のこの日,さっそくその後のドス黒い日本競馬を暗示するような事件が起こっています。
12月8日付の東京朝日新聞にかなりショッキングな見出しがあります。もっとも,当時の東京朝日新聞は馬券競馬反対に論調が傾いており(宣言するのは翌年1月),多少割り引いて読まなければならないですが。
非道残忍
(衆人の前に傷馬を銃殺す)
第5競走「外国産馬競走」(距離4分の3哩)のゴール直後,ベンテンという馬が前脚を骨折,転倒するという事故が起こりました。今の中央競馬なら外から見えないようにして薬殺の処置がとられるのでしょうが1,なんと「一外人は馬場の中央衆人の面前にて四肢を縛せしめ置き眉間にピストルを当て之を銃殺したり」(同紙)
“銃殺犯”について,時事新報では「發馬係のスチーブンソン氏」東京日日新聞では「委員たるエーエルモツチユ氏」となってますが,報知新聞には「同馬の持主田中氏は血走る目にツカツカと進み寄るやキと取出す短銃の筒口を差向け……」とあって馬主が銃殺したように書かれています。これらの記事を書いた記者たち,実際には見ていなかったんでしょう。
翌8日には暴動と暴力事件(こちらは比較的有名)が起こり,9日付の東京朝日新聞には
血染の競馬場
馬札売場の大騒動
という見出しがあります。目黒競馬場っていったいどういうところだったのでしょう。これについてはまた明日ということで。
- ただし,ハマノパレードがそうでなかったことは比較的よく知られています。地方競馬によってはハマノパレードになされた処分と同じようなことが今でも行なわれているという話を聞きます。 ↩