観測史上最強(?!)の台湾坊主(1970年)

気象庁では顕著な災害を起こした自然現象については固有の名称をつけることになっており,2009年1月現在,22の気象現象について名称がつけられています。その中で唯一の温帯低気圧が「昭和45年1月低気圧」です。

1970年1月29日午後沖縄西方海上に発生した1010mbの低気圧は発達しながら60km/hで北東に進み,30日15時には足摺岬付近で996mbとなり,紀伊半島に上陸,31日03時には静岡付近で976mbに発達しました。その後,進路を変えて関東北部から東北地方を60km/hで通り岩手県から太平洋に抜けました。

この低気圧が引き起こした暴風雨雪による被害はほぼ全国に及び,死者・不明25人,住家全壊45棟,同半壊126棟,同破損736棟,同流失9棟,床上浸水925棟,床下浸水3497棟,船舶流出・沈没293隻などとなっています。

被害が大きかった原因は,低気圧が強かったこともさることながら,気象庁の予報ハズレ,警報の出し遅れでした。31日付読売新聞夕刊より。“日本語でおk”って感じの記事です(笑)

 台湾坊主があばれて各地に被害が続出した。なぜ予報がおくれたのか。
 「東京サバクにおしめり」「雨量は五,六ミリ」というのが,三十日昼ごろの気象庁の予報だっが一夜あけてみたら,東京地方の雨量は五十八ミリ。平年の一月分(四十八ミリ)を一日で軽くオーバー。
 ところが,気象庁が「これはおかしい」と,低気圧の異常な発達に気づいたのは三十日の夕方になってから。午後三時に,四国付近にあった“旋風”の目は九九六ミリバールで,ぐんぐん発達する勢い。ここで,午後四時,東京地方に初めて「風雨波浪注意報」が出た。やがて三十一日午前三時二十五分に「大雨強風波浪注意報」に切り替えられたが“赤信号”の「暴風雨波浪警報」が出たのは朝の五時十分という遅れ方。小名浜港で「空光丸」が遭難したあと。
 低気圧は二つの目を持ち太平洋岸と日本海側とを併進し,東京地方が九七四ミリバールという最低気圧となったのは午前七時過ぎだが,低気圧の前面に回り込んだ南風による被害は明け方がピーク。警報はすべて後手,後手と回ったわけだ。
 しかし,三十日午後八時には富士山頂の測候所では五十メートルの強風を記録したあと,風速計がふっとんでしまった。大荒れの“前兆”はあったのだ。
「まさか夜中にコースがずれ,発達するとは考えなかった」と予報官たちはいうが,そうした動きをつかむのが役目のはず。

ついでに,31日の夕刊から見出しをいくつか拾ってみましょう。例外なく“台湾坊主”が使われています。

“台湾坊主”各地で大暴れ
大雨・強風・ヒョウ・落雷 不意打ち“台風”
各地で火事や浸水騒ぎ
(朝日)

抜打ち“冬台風” 強烈パンチ
絶叫,大波に消える 空光丸巡視船も手が出せず

東京で二百戸浸水
八重洲通りにはポッカリ大穴
(毎日)

“いたずら台湾坊主”大荒れ
豪雨・強風・バカ陽気
(読売)

このようにすっかり定着していた“台湾坊主”ですが,前にも書いたように,1975年3月に気象庁が「台湾低気圧」にいいかえるように部内に指示したことがきっかけで,新聞でも使われなくなりました。