この下に村あり(1927年)

1927年2月10日付の東京朝日新聞より――:

雪は二十二日間連日連夜降りしきり高田地方は山の如き積雪に危険を感じ全市民はびくびくものである,高田市内の積雪は九日夜に至り一丈一尺を突破し屋根の雪を下ろしたため街路は三丈余に達し二階屋上よりも高く,危険なので「この下に高壓電線あり」の建札が随所にある,高田測候所調査によると寛文二年正月(一丈六尺)以来の大雪である

同じ日付の東京日日新聞には次のようにあります。

新潟県刈羽郡地方は六日から雪降り出し九日朝に至つては近年稀なる大雪となり海岸の柏崎町は積雪四尺餘り山間部の岡野地方は一丈又石黒地方は一丈八寸の積雪となり『この下に村あり』の建札が至るところに立てられてゐる

このように,高田地方はこの下に高田ありの立て札で伝えられる寛文五~六年(1666年)以来の豪雪に見舞われました。(上の記事では寛文二年となっていますが,寛文五年または六年の誤りと思われます)

ちょうど同じ時期の1927年2月7日~8日,大正天皇の大喪(早い話がお葬式)が行なわれました。

高田,松本,富山,金沢の各連隊も連隊旗を掲げて参列していましたが,雪に阻まれて東海道線経由で帰任する羽目になりました。

大喪を見物するために上京した人も帰るのに苦労しました。11日付東京朝日より。どこまでホントの話かは知りませんが。

昨夜午後十時五分上野發長野行きに乘り込んだ勤め人風の二人連れの青年は語つた
『私共は高田市の會社員です,大喪儀で三日休みが續きましたので拝觀に上京しましたが,汽車が不通で歸宅することも出來ず宿屋へ泊る金もなくなつたので,相談の上二本木からスキーにでも乘つて歸ることに決心して出發するのですが。雪崩や吹雪が心配です』

この豪雪について,「気象要覧」には次のようにあります。

北陸地方にては六,七日より十二日頃に亘り,近古稀れなる大雪あり,鉄道事故各所に起り,列車雪中に没して交通全く途絶し,学校潰れ,人家倒れ,死傷者少からず,人畜の被害多く甚大なる雪害なり,軍隊出動し除雪作業に努む,被害は新潟県西部,高田,直江津を中心とし,西頚城,中頚城,東頸城,刈羽の四郡最も甚しく,山間地方殊に著し,雪崩到る所に起り,西頚城郡磯部村には,地滑りありて,家屋倒壊し,一村殆ど全滅したる所ありと云ふ,高田測候所の報告に依れば,同市中の平屋建物は,大抵雪下に没し,道路は両側の屋根より排雪せる為,三丈乃至四丈の塁雪となり,二階建物にても,窓の中部以下は雪中に埋れたりと云ふ,今回同測候所管内の積雪を挙ぐれば左の如し。

その積雪は次のとおりです。

地名 積雪最深(寸)
高田 120.3 11日
関川 75.0 9,10,11,12日
能生 118.5 13日
安塚 130.0 12日
天水越 150.0 10日
赤倉 135.0 11,12,13日
新井 126.0 11日
直江津 113.0 12日
小瀧 128.0 12日
165.0 10,11日
青柳 165.7 11日

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