東京で3日連続の降雪(1967年)

1967年2月8日ごろから12日ごろまで,日本列島は太平洋高気圧と大陸から北偏して張り出してきた高気圧との間の気圧の谷にすっぽりとはいって南岸には前線が停滞,その前線上を小さな低気圧が通過していくという,絵に描いたような南関東降雪パターンの天気が続きました。

東京では10日未明から降りはじめた雪が12日まで降り続きました。降雪の深さは10日2cm,11日16cm,12日6cm,最深積雪は10日1cm,11日17cm,12日21cmとなっています。

典型的な北高型の気圧配置のために冷たい空気が下層に流れ込んできて気温が上がらず,11,12日の最高気温はそれぞれ0.0℃,-0.2℃で,これは1956年以降,東京の低い最高気温の2位と1位の記録です。また,2日連続で最高気温が0℃以下というのは新記録で,これ以降もありません。ちなみに,真冬日は“最高気温が0℃未満の日”なので,2日連続真冬日ではありません。

この雪のため,羽田空港は一時全面閉鎖,“空港雪原”の上を除雪車が雪煙を上げながら走り回っていました。また,例によって東海道新幹線は遅れが相次ぎ,国電も運休が続出しました。

熱海では,交通止めで立往生したドライバーが通常1泊2000円程度の中級旅館に泣く泣く6000~8000円も払って宿泊する姿も見られました。

12日の東京競馬は中止となり,重賞の東京新聞盃(当時の表記)のみ19日に順延されました。東京競馬が中止になったのは中央競馬会発足以来これがはじめてです。東京競馬以外では中京競馬が1965年12月に雪のために中止になったことがあります。

その東京新聞(当時は2400m),勝ったのはセフトウエー,ブツシヤンが2着で,あのカブトシローが3着にはいっています。

ちなみに,東京新聞盃(杯)は翌1968年は東京競馬場改修のため中山競馬場で施行,1969年と1970年は積雪のためダート変更と(1969年の勝ち馬はタケシバオー,この年から4年連続で本来の条件では行なわれていません。

明けて13日は朝から久々の青空が広がりましたが,上空に強い寒気がはいってきて強い冬型の気圧配置となり,最低気温は-4.0℃まで下がりました。国電各線は冷え込みと積雪のためにポイント故障やドア故障が相次ぎ,連休明けの通勤の足が大混乱しました。

この寒波は19日ごろまで続き,とくに15日朝の冷え込みは東北地方南部を中心に厳しく,福島では1945年以来の-11.5℃,白河では測候所開設以来の-13.6℃を記録し,福島では1955年以来となる霧氷が観測されました。

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東京で3日連続の降雪(1967年)

1967年2月8日ごろから12日ごろまで,日本列島は太平洋高気圧と大陸から北偏して張り出してきた高気圧との間の気圧の谷にすっぽりとはいって南岸には前線が停滞,その前線上を小さな低気圧が通過していくという,絵に描いたような南関東降雪パターンの天気が続きました。

東京では10日未明から降りはじめた雪が12日まで降り続きました。降雪の深さは10日2cm,11日16cm,12日6cm,最深積雪は10日1cm,11日17cm,12日21cmとなっています。

典型的な北高型の気圧配置のために冷たい空気が下層に流れ込んできて気温が上がらず,11,12日の最高気温はそれぞれ0.0℃,-0.2℃で,これは1956年以降,東京の低い最高気温の2位と1位の記録です。また,2日連続で最高気温が0℃以下というのは新記録で,これ以降もありません。ちなみに,真冬日は“最高気温が0℃未満の日”なので,2日連続真冬日ではありません。

この雪のため,羽田空港は一時全面閉鎖,“空港雪原”の上を除雪車が雪煙を上げながら走り回っていました。また,例によって東海道新幹線は遅れが相次ぎ,国電も運休が続出しました。

熱海では,交通止めで立往生したドライバーが通常1泊2000円程度の中級旅館に泣く泣く6000〜8000円も払って宿泊する姿も見られました。

12日の東京競馬は中止となり,重賞の東京新聞盃(当時の表記)のみ19日に順延されました。東京競馬が中止になったのは中央競馬会発足以来これがはじめてです。東京競馬以外では中京競馬が1965年12月に雪のために中止になったことがあります。

その東京新聞(当時は2400m),勝ったのはセフトウエー,ブツシヤンが2着で,あのカブトシローが3着にはいっています。

ちなみに,東京新聞盃(杯)は翌1968年は東京競馬場改修のため中山競馬場で施行,1969年と1970年は積雪のためダート変更と(1969年の勝ち馬はタケシバオー,この年から4年連続で本来の条件では行なわれていません。

明けて13日は朝から久々の青空が広がりましたが,上空に強い寒気がはいってきて強い冬型の気圧配置となり,最低気温は-4.0℃まで下がりました。国電各線は冷え込みと積雪のためにポイント故障やドア故障が相次ぎ,連休明けの通勤の足が大混乱しました。

この寒波は19日ごろまで続き,とくに15日朝の冷え込みは東北地方南部を中心に厳しく,福島では1945年以来の-11.5℃,白河では測候所開設以来の-13.6℃を記録し,福島では1955年以来となる霧氷が観測されました。

この下に村あり(1927年)

1927年2月10日付の東京朝日新聞より――:

雪は二十二日間連日連夜降りしきり高田地方は山の如き積雪に危険を感じ全市民はびくびくものである,高田市内の積雪は九日夜に至り一丈一尺を突破し屋根の雪を下ろしたため街路は三丈余に達し二階屋上よりも高く,危険なので「この下に高壓電線あり」の建札が随所にある,高田測候所調査によると寛文二年正月(一丈六尺)以来の大雪である

同じ日付の東京日日新聞には次のようにあります。

新潟県刈羽郡地方は六日から雪降り出し九日朝に至つては近年稀なる大雪となり海岸の柏崎町は積雪四尺餘り山間部の岡野地方は一丈又石黒地方は一丈八寸の積雪となり『この下に村あり』の建札が至るところに立てられてゐる

このように,高田地方はこの下に高田ありの立て札で伝えられる寛文五~六年(1666年)以来の豪雪に見舞われました。(上の記事では寛文二年となっていますが,寛文五年または六年の誤りと思われます)

ちょうど同じ時期の1927年2月7日~8日,大正天皇の大喪(早い話がお葬式)が行なわれました。

高田,松本,富山,金沢の各連隊も連隊旗を掲げて参列していましたが,雪に阻まれて東海道線経由で帰任する羽目になりました。

大喪を見物するために上京した人も帰るのに苦労しました。11日付東京朝日より。どこまでホントの話かは知りませんが。

昨夜午後十時五分上野發長野行きに乘り込んだ勤め人風の二人連れの青年は語つた
『私共は高田市の會社員です,大喪儀で三日休みが續きましたので拝觀に上京しましたが,汽車が不通で歸宅することも出來ず宿屋へ泊る金もなくなつたので,相談の上二本木からスキーにでも乘つて歸ることに決心して出發するのですが。雪崩や吹雪が心配です』

この豪雪について,「気象要覧」には次のようにあります。

北陸地方にては六,七日より十二日頃に亘り,近古稀れなる大雪あり,鉄道事故各所に起り,列車雪中に没して交通全く途絶し,学校潰れ,人家倒れ,死傷者少からず,人畜の被害多く甚大なる雪害なり,軍隊出動し除雪作業に努む,被害は新潟県西部,高田,直江津を中心とし,西頚城,中頚城,東頸城,刈羽の四郡最も甚しく,山間地方殊に著し,雪崩到る所に起り,西頚城郡磯部村には,地滑りありて,家屋倒壊し,一村殆ど全滅したる所ありと云ふ,高田測候所の報告に依れば,同市中の平屋建物は,大抵雪下に没し,道路は両側の屋根より排雪せる為,三丈乃至四丈の塁雪となり,二階建物にても,窓の中部以下は雪中に埋れたりと云ふ,今回同測候所管内の積雪を挙ぐれば左の如し。

その積雪は次のとおりです。

地名 積雪最深(寸)
高田 120.3 11日
関川 75.0 9,10,11,12日
能生 118.5 13日
安塚 130.0 12日
天水越 150.0 10日
赤倉 135.0 11,12,13日
新井 126.0 11日
直江津 113.0 12日
小瀧 128.0 12日
165.0 10,11日
青柳 165.7 11日

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白木屋,来客0人(1883年)

1883年2月8日,前日未明から降り出した雪はますます激しくなり,午前中には積雪が46cmに達しました。これが東京の積雪の最深記録となっています。

午後には雪も止み,「二時前には遠く房総の山を現ハし三時に至りて一天復寸雲なく……」(9日付時事新報)という天気に回復しました。

しかし,積雪が残って交通の障害となり,翌9日には白木屋呉服店の来客が0人という椿事が発生しました。

自衛隊機,国民を空爆(1969年)

1969年2月8日,百里基地から小松基地に戻る途中の航空自衛隊小松基地205飛行隊所属のF104Jジェット戦闘機が金沢市上空を飛行中,12時08分ごろ,機首に落雷を受け,同市泉2丁目に墜落,爆発炎上しました。民家3棟が吹っ飛び,全焼13棟,半焼2棟,破損家屋100余棟,死者4人,重傷6人,軽傷13人の惨事となりました。

操縦していた二空尉の経三輝《たてみてる》はパラシュートでずらかりました。

国民を守るはずの自衛隊が国民を殺してはいけません。

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二ツ玉低気圧と磐光ホテル火災(1969年)

1969年2月3日に台湾沖に発生した低気圧は,本州南岸沿いに北東に進み,5日午後には三陸沖に達しました。一方,4日朝,日本海西部に別の低気圧が発生し,急速に発達しながら5日朝には津軽海峡を通過しました。2つの低気圧はオホーツク海南部でひとつになり,カムチャッカ方面に去っていきました。

この2つの低気圧の影響で,5~6日にかけて中部・関東地方以北で強い風が吹き,北海道では暴風雪となりました。全体で死・不明62,負傷82,家屋損壊117,船舶沈没・損傷1085などの被害が出ています。

もちろん,当時の新聞には台湾坊主が使われています。例えば,

“台湾坊主”陸にも被害
(6日付朝日新聞朝刊)

記事の中に

“春一番”を思わせる強い風が吹き荒れた。

とあります。東京の最大瞬間風速は23.1m/sで基準を十分に満たしているのですが,風向が北西だったため,これでは春一番ではありません。もっとも,当時は春一番の基準が必ずしも明確ではなかったので,今さらどうでもいい話です。ちなみに気象庁天気相談所のまとめによると,この年は春一番が観測されていません。

同じ記事には,蒲郡市で5日15時50分ごろ,突風でコンクリートブロックが倒れ,ちょうど塀沿いの道を歩いていた女子中学生3人が下敷きになり,2人死亡,1人重体という事故も載っています。このコンクリートブロックを所有していた山本織布会社の管理責任はどうなったのでしょうか。

さて,この低気圧による強風が吹いていた5日21時10分ごろ,福島県郡山市熱海町の磐光パラダイス1階の大広間で,客寄せの目玉だった金粉ショーの小道具として用意されたベンジンにストーブの火が引火しました。初期消火に失敗したため,折からの強風と乾燥も手伝って火はみるみるうちに広がり,磐光パラダイスとそれに隣接する磐光ホテル,レストハウスが全焼し,死者30人,重軽傷者28人,焼損面積15511m^2という大惨事となりました。

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※2015/02/05(Thu) 若干加筆訂正

東京に53年ぶりの大雪(1936年)

1936年2月4日,昼すぎから降りはじめた雪はずんずん積もり,最深積雪31.5cmを記録しました。これは当時としては1883年2月8日の46cmに次ぐ歴代2位の記録です(現在では歴代5位)。

もちろん当時から雪に弱い東京のこと,夕方までなんとか運転していた省線は,20時過ぎに変電所で故障が起こり,山手線,中央線,京浜線が22時すぎに全線不通となる空前の事態になりました。市電はすでに17時半ごろには運転不能となっており,バスも円タクもほとんど停止していたため,各駅には夜半過ぎても黒山の人だかり。

こうした帰宅難民の一部は映画館に流れ込み,映画館は難民収容所と化しました。

ちなみにこの積雪記録は19日後に塗り替えられることになります。そしてあの事件が起こります。詳しくは雪が降る前の二・ニ六事件 | 能天気Express 2013をご覧下さい。

北陸線の大雪崩 人夫百餘名壓殺さる(1922年)

1922年2月3日13時ごろ,北陸本線の親不知-市振間で大雪崩があり列車運転不能となったため,糸魚川付近の農家から200人の除雪人夫を募集して除雪作業を行ないました。夜になって作業を中止し親不知から糸魚川方面に向けて列車に乗って帰る途中,20時17分ごろ,親不知-青海駅間の勝山隧道にさしかかったところで大雪崩が発生,その列車の客車2両が押しつぶされ,死者87?90人,負傷40?42人の惨事となりました。(資料によって死傷者の数が違います)

詳しくは次のとおりです。

(鉄道省着電)三日北陸線市振親不知間一九二哩五十鎖附近に長さ五鎖高さ三十尺の大雪崩あり第七七一列車(上野発京都行)は之がため親不知から第六五列車として折返し運転する事となり前位より郵便小荷物車,ボギー三等客車,小型三等客車三両計六両連結排雪人夫約二百名(糸魚川,梶屋敷附近から募集した者及逓信局電信工夫二名)乗車し午後八時七分頃親不知青海間一九五哩四五鎖五十節(米原起点)勝山隧道西口に差<U+83AC>《かか》つた際長さ四十呎高さ十五呎(約百八十坪)の雪崩来りてボギー客車三分の一小型三等客車全部(三両)下敷となり人夫約八十名の死傷者を出した,内負傷者二十九名は糸魚川に三名は親不知に収容し他の埋没者に対しては直に附近消防隊の応援を得て救護中死傷者今迄に判明の数左の如し
 親不知に収容即死者十八名
 糸魚川収容即死者十四名,重傷者八名,軽傷者二十四名計即死者三十二名重軽傷者三十二名
(2月5日付東京朝日夕刊)

この事故の後日談。2月28日付読売朝刊より――:

尚惨劇のあった勝山隧道附近には昨今多數の人魂が彷徨するとの噂ありて現地附近の各部落では戰戰兢兢の有樣である

さらに1927年のいわゆる昭和2年豪雪の際,この事故の恐怖から除雪作業が遅れ,北陸本線の復旧が遅れるひとつの原因になったようです。

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湾岸道路を走る馬

1987年2月2日の昼すぎ,船橋競馬場から6歳牝馬のモーガンセイコーが逃げ出しました。

真しぐらに通称湾岸道路に入り,ギョッとするドライバーをしり目に得意のコーナリングで交差点を右折。市道を全力疾走したあと2キロ先の国道14号わきで足が止まり,約15分間の「場外レース」は幕を閉じた。(3日付朝日)

翌1988年に川崎競馬場から逃げ出してソープ街を爆走したイナズマライデンや,1996年に大井競馬場を逃げ出して首都高を暴走したスーパーオトメほど話題になりませんでした。

ちなみに,ググるセイコーモーガンという馬がヒットしますが,明らかに別馬です。