1933年10月20日04時ごろ,台風が中心気圧725mmHg以下の勢力で鹿児島県枕崎の東に上陸,07時に宮崎の西方,08時に愛媛県を通過,12時には瀬戸内海を横断し神戸と岡山の間に達しました。その後,14時ごろ若狭湾付近,16時ごろ金沢付近を通過して,18時には能登半島と佐渡の間に抜けました。
かなり粗い経路図なので,上の文章で脳内補正してください。
20日07時50分,定刻よりやや遅れて高松を出港して神戸に向かった大阪商船別府航路の旅客船屋島丸(946トン)がこの台風に遭遇,13時05分に須磨沖で沈没,旅客41人及び船員26人計67人が死亡し,旅客2人が行方不明になりました。
海難審判所のサイトには次のようにあります。
定期旅客船屋島丸 (946総トン) が昭和8年10月20日和田岬沖合で台風のため沈没して旅客41名及び船員26名計67名が死亡し、 旅客2名が行方不明となった。
本船は、 大正4年英国で建造された鋼鉄船で船体は細長く、 英国の砲艦として使用されていたが、 上海で購入のうえ改造された船舶であった。
本件は、 海員審判に付され、 昭和9年2月10日大阪地方海員審判所で裁決があった。
なお、 本件は、 業務上過失船舶覆没並びに業務上過失致死被告事件として、 大審院まで争われた事件であった。
1933年10月25日付讀賣新聞によると,この沈没で,名工春日の作になる嫁威し肉付の面《よめおどしにくづきのめん》も海の藻屑と消えました。
「嫁威し肉付の面」には次のような伝説があるそうです。あそびーのマガジン(2008年)特集1|あそびーのフクイより(=リンク切れ)より:
信心深い十楽(じゅうらく)村の「お清」は夫に先立たれ、毎夜毎夜、吉崎御坊に弔(とむら)いのため通っていました。
村人の評判も良く、それを苦々しく思っていた姑の「おもと」は、お清を懲らしめようと家に伝わる鬼の面を被り、お清を夜道で待ち伏せします。しかし、お清は動じることなく、「南無阿弥陀仏」を唱えながら立ち去っていきました。慌てて家に帰った姑は面を取ろうとしますが、面は顔に張り付いてどうしても取れません。
家に帰ったお清は驚き、姑に念仏を唱えるよう勧めます。おもとが「南無阿弥陀仏」を唱えると面が落ち、その後は「おもと」も熱心な門徒になりました。
ところが,屋島丸とともに海に沈んだはずの嫁威し肉付の面が,なぜか今もあるみたいです。どちらかがマガイモノなのか,もともと複数あったのか,新聞が間違っていたのか,どうなのでしょう?
ついでですが,ある英国人女性を救助した功績により,のちに2人の日本人が英国皇帝ジョージ5世から銀牌を贈られたそうです。
※この記事は屋島丸台風と嫁威し肉付の面 | 能天気Express Hyperに若干加筆したものです。