カエルとイモリの天気予報水槽が、鳥羽市の鳥羽水族館にお目見えした。梅雨入り後の3日の天気は雨。カエルとイモリの予報はぴったりだったが、昔ながらの下駄(げた)による予報は晴れと出て、大はずれだった。
まあ,下駄は知りませんが,気象庁の職員と違って,カエルやイモリには命,ひいては種の存亡がかかっていますからねえ(笑)
台風5号が接近中です。上陸はしない見込みのようですが,梅雨前線が刺激されるのと東よりの風が強まるのとで,南西諸島,伊豆諸島,西日本から東日本にかけての太平洋側で大雨のおそれがあるもようです。
というわけで,能天気Expressで忘れたころに登場する台風××号列伝(ただし,オリジナル2014版では今回がはじめてかな),もちろん敬意を表して(?)5号を取り上げます。数ある5号の中から今回は1982年の5号に登場してもらいましょう。
台風の進路予想を予報円を使って表わす今のスタイルの原型がはじまったのは1982年6月(それまでは扇形で表わしていた),その最初のケースとなったのが5号でした。
5号そのものは温帯低気圧に変わってから北海道に上陸はしたものの,日本列島に“接近”した台風ではなく,しかも最盛期でも中心気圧975mb,中心付近の最大風速35m/sという,当時のよびかたでは“中型で並”の台風でした(ちなみに,現在の分類では“強い”に当てはまる)。しかし,気象庁の予報が「進路・速度とも大違い」したのがもとで,金華山沖を航行中のカツオマグロ巻き網漁船2隻が遭難,乗組員1人が死亡,1人が行方不明になるという惨事を招きました。惨憺たる予報円のデビューでした。
なお,気象庁の台風予報が外れたことが引き起こした惨事では,1965年10月に起こったアグリガン島海難事件が最も有名でしょう。
本日13時30分,駆け込みのように近畿,東海,関東甲信地方の梅雨入り発表がありました。
例えば,関東甲信地方の梅雨入り発表は,次のとおり。
梅雨の時期に関する関東甲信地方気象情報 第1号 平成20年6月2日13時30分 気象庁発表 (見出し) 関東甲信地方は、梅雨入りしたと見られます。 (本文) 関東甲信地方は、梅雨前線の影響で、雨の降っている所があります。 向こう一週間も、梅雨前線や気圧の谷の影響で、曇りや雨の日が多い見込 みです。 このため、関東甲信地方は6月2日ごろに梅雨入りしたと見られます。 (参考事項) 1.平年の梅雨入り:6月 8日ごろ 2.昨年の梅雨入り:6月22日ごろ (注意事項) ・梅雨は季節現象であり、その入りと明けには平均的に5日程度の「移り変 わり」の期間があります。 ・梅雨の時期に関する気象情報は、現在までの天候経過と1週間先までの見 通しをもとに発表する情報です。後日、春から夏にかけての実際の天候経過 を考慮した検討を行い、その結果、本情報で発表した期日が変更となる場合 があります。
いまだに梅雨入り宣言などといっている人がいますが,梅雨入りや梅雨明けの発表なんて,しょせんこの程度のものです(笑)
「昼過ぎから雨」って,午前8時過ぎから雨が降り出すことに予報用語の意味が変わったんですかねえ……?
「昼過ぎから雨」という予報でこんな時間から降り出されると,困る人はたくさんいるだろう。とくに会社などに置き傘をキープしている人。「昼過ぎから雨」なら,朝傘を持っていく必要はないもんね。そこにいきなり雨だもんねえ。土下座ものだわ>東京管区気象台
ところで,NHKラジオの「ラジオ朝いちばん」,今週は坂本京子とかいう気象予報士が出ているが,この人かなりの無責任。さんざん「昼過ぎから雨」とかいっておきながら,遠田さんに「渋谷では傘をさしている人が……」と振られて,なんとノーコメント……。もしかするとなんかしゃべったかもしれないが,答えにも弁解にもなっていないことしかいってないはず。この点,週ごとに交代で担当している伊藤みゆきオバはんだったら多少アドリブは利いたかも。いかにも民放的な話しかたはきらいだけど。なんといってもくだらないお天気五七五はやめてほしい。しゃべっていて恥ずかしくないのか。
そういえば,09時の時点で,気象庁発表の東京の今日の予報はヒッソリ「雨」に変わっていました。セコいというか……(-_-;)
1950~60年代の新聞を見ると,ちょっとした低気圧が通過したあと,必ずといっていいほど山での遭難の記事が載っています。
AD1954/11/28 富士山で東大,慶大,日大生が雪崩で集団遭難,死者15人
これは富士山で起こった遭難としては最大のもので(当時),毎日新聞ではなんと八甲田山での陸軍第五連隊の遭難(映画「八甲田山」で有名なあの遭難。「天は我々を見放した……」)を引き合いに出し,見出しに八甲田山以来の規模とあります。1ケタ違いますけどね。
「八甲田山」については↓をどうぞ。
ちなみに,富士山では1972年3月20日,春一番をもたらした低気圧によって死亡・不明24人の遭難が起こり,記録が塗り替えられています。その後この記録が更新されたかどうかは,登山にはなんの興味もないので,わかりません。
その年の秋から冬にかけてはじめて吹く北風を「木枯らし1号」とよぶことがあります。
「木枯らし1号」を公式に発表しているのは東京(関東)と大阪(近畿)だけですが,基準が微妙に違います。“冬型の気圧配置のときにその年はじめて吹く(瞬間)風速8m/s以上の北~西北西の風”というのは共通なんですが,期間は関東では“10月半ばから11月末まで”,近畿では“おおむね二十四節気の霜降から冬至まで”となっています。今日は10月19日ですから,関東の基準では期間内ですが,近畿の基準では期間にはいっていません。ここ2,3日のうちに大阪でこのような風が吹いたとしても“フライング”となり,木枯らし1号とは認められません。
「木枯らし1号」の平年日は現在は発表されていません。要するに,発現しない年もあるし,平年日に科学的な根拠がないから,ということらしいです。春一番も同様です。
ただ,科学的な根拠云々を別にして平均をとると,だいたい二十四節気の立冬前後,11月7日ごろになるようです(私が計算したわけではありません)。
1号があれば当然2号,3号,……もあると考えるのがふつうの感覚でしょう(ヤッターマンには1号と2号しかいませんが)。ところが,木枯らしに関するかぎり,2号,3号,……は聞いたことがありません(ただし,あとに書くように“2号”については1回だけ何かの間違いで使われたと思われる例を見たことがあります)。かなり不自然です。考えるまでもなく,「木枯らし1号」なんてそもそもからしてセンスのかけらもないネーミングですよねえ。
「木枯らし1号」がいつごろから使われたのかわかりませんが,新聞記事の見出しとしての初登場は,σ(^^;)が調べた範囲では1975年11月11日付朝日新聞夕刊です。ただ,1973年11月2日付朝日新聞夕刊掲載の倉嶋厚さんのコラム「お天気衛星」のタイトルが「木枯らし1号」なので,このころにはすでにぼちぼち使われていたのでしょう。
今はなき月刊誌「気象」に掲載されていた「天気図日記」では意外に早く,1957年10月17日に登場しているように見えますが,「天気図集成」に収録する際に編集でつけ加えられたものかも知れません(未確認)。前年の1956年11月16日には「木枯らしNo.1」ということばも見えます。
「木枯らし第1号」の登場はもっと早いです。
1955年10月9日付朝日新聞に次のようにあります。
……この寒さは全国的なもので,八日は九州で三,四度,北海道で五度,中部山岳地帯で五度,中国近畿地方では六,七度も平年より低かった。西高東低という冬型の気圧配置だそうで,七日晩から全国各地に吹き出した北風は冷たい季節風のはしり。つまりは〝木枯らし第一号〟だったわけで,この吹きはじめも平年より一月近く早いと中央気象台ではいっている。
同じ日の天気について,「天文と気象」の「10月の天気図」では8日の日記に次のようにあります。
北日本に低気圧が発達,大陸高気圧が押し出してきて冬の季節風型があらわれはじめた. 武蔵野にも〝木枯らし〟第1号がふき初めたが,これは平年より1ヶ月も早い. 各地に初霜,初雪しきり.
ただし,10月8日は現在の基準では“フライング”であるため,木枯らし1号とは認定されていません。この年の木枯らし1号の発現日は10月30日となっています。
「天気図日記」で「木枯らし2号」が使われた例がひとつだけあります。1966年10月29日に「きょうは関東にも木枯らし2号が吹くとみられたが云々」とあります。ただ,まだ木枯らし1号も吹いていない時期だけに(この年の発現日は11月15日),意味不明です。
東京の木枯らし1号の最早日は10月13日(1988年),2番目は10月17日(1957年),3番目は10月18日で,1986年と2000年に観測されています。(気象庁天気相談所調べ)
今日10月10日は1964年に東京五輪の開会式が行なわれた日です。どういう経緯で開会式が10月10日に決定したのかは10月10日は晴れの特異日ではなかったを参照してください。
東京五輪の期間中の天気について,気象庁の公式文書である「気象要覧」の「気候状態」に次のようにあります。
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この月は前月からの聖火リレーに続き,本格的東京オリンピック開幕に国民の眼が向けられ,期間中の天気にも関心がもたれた。さいわい秋の長雨も,台風による暴風雨もなくやや低温気味に経過したが,全国的には平年並の気候であった。
・・・・・・7日も北海道を除いてぐずついた空模様が続き,日中も気温は上がらず,オリンピックの聖火が東京入りしたこの日の天気は,朝は小雨,日中は曇りで夕方からまた雨が降りだし,8日は全国的に雨模様のぐずついた天気となった。
10日から12日にかけては大きな移動性高気圧がゆっくり日本全体をおおいながら東進したため全国的に良い天気に恵まれた。特に10日のオリンピック開会式当日は,前日までぐずついていた天気も一挙に快晴に逆転し,奇跡的ともいわれるほどの最上の五輪日和になった。しかし移動性高気圧は北偏していたため日中でも気温は上がらず,平年より1.2℃も低かった。
・・・・・・……しかし21日には日本海に弱い低気圧が発生したが,大陸と太平洋側の高気圧の勢力がたがいに強く,低気圧の移動がおそかったため,日本は気圧の谷の中に23日までの3日間入っていた。このため全国的に天気はぐずつき,オリンピックの華といわれるマラソンが行なわれた21日の東京の天気は,朝のうちは雨がパラついていたが,昼ころ温暖前線が北上し,マラソンが始まった午後の天気は曇りで,平均風速1.0m/s,気温18.7℃,湿度81%と湿度はやや多かったが,マラソンには絶好のレース日和であった。
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なにもここまで書かなくても……って気がしますが(とくにマラソンの日の天気など),それだけ東京五輪はいろんな意味で大きなイベントだったということなのでしょう。
ただ,わざわざ聖火リレーにまで言及しておきながら,閉会式にひとことも触れていないのは不思議です。
今日は8月に行なわれた第28回気象予報士試験の合格発表の日です。番号がWeb上に発表されるほか,配達日指定の圧着式ハガキで受験者に通知されます。
σ(^^;)が受けたころは合格者には大きな封筒が,不合格者には小さな封筒が届いたそうですが,σ(^^;)には大きな封筒しか届いたことがないので,詳細は知りません。
ところで,去年の合格発表では次のようなできごとが。
気象予報士試験を実施している気象業務支援センターは5日、試験結果の通知はがきが、郵政公社のミスによって発表日の6日より早く受験者に届いていたと発表した。
同センターによると、8月27日に行われた気象予報士試験の受験者5074人に対し、配達日を10月6日に指定した合否の通知はがきを2日夜、委託していた印刷業者が羽村郵便局(東京都羽村市)に持ち込んだが、郵便局側が誤って一般郵便物として扱い、各地の郵便局に発送したことが原因とみられる。
通知はがきを4日に受け取った受験者からの抗議や問い合わせが同センターにあり、発覚した。
(毎日新聞) – 10月5日12時29分更新
問い合わせはともかく,早くわかったのに抗議するというのはねえ……? 心の準備ができてなかった?
台風15号Krosaが発生しました。Krosaはカンボジアの命名で“鶴”だそうです。
というわけで歴代の台風15号を見ていきましょう。題して台風15号列伝。台風14号列伝とは違って,1回につき1個の台風を扱っていきます。まがりなりにでも“完結”するまでに何年かかるんでしょうねえ……?(笑)
ちなみに,台風15号といえばなんといっても洞爺丸台風(1954年)と伊勢湾台風(1959年)ですが,別に「本紀」として扱います。いつになるかわかりませんが。
そういうことで,列伝のトップバッターは1956年の15号。沖縄方面から日本列島の太平洋岸をなぞるように北上してきました。
高知・和歌山などに大雨を降らせたほかは,見かけの割には被害は少なかったのですが,9月27日07時20分ごろ,関西線の下り亀山発湊町行きの旅客列車が三重県鈴鹿郡関町付近を進行中,土砂崩れに巻き込まれて1両が10メートル下の加太川に転落,多く(10数人?)の死者を出しました。
この転落事故についてはざっと調べた程度では確かな資料が見つからず,死者の正確な数がわかりません。当時の新聞には「十数人が絶望」「助かったのは三人」とあります。直後(10月15日)に起こった参宮線六軒駅列車衝突事故のほうが大きかったこともあり,この転落事故は忘れられているようです。なお,参宮線六軒駅列車衝突事故については,Wikipediaをご覧ください。
台風15号は9月27日15時ごろ中心が東京付近を通過しましたが,風速は14m/s,最大瞬間風速も25.5m/s程度でした。