日テレ,早慶戦の中継を拒否される

1956年11月4日の東京六大学野球早慶第2回戦,この日予定されていた日本テレビ(NTV)の実況中継は連盟の拒否によって中止になりました。

  四日の早慶第二回戦のNTVの実況中継は連盟側の拒否で中止となった。これは第一戦の三日同テレビの人気番組「何でもやりましょう」に出演した若い男が早稲田側スタンドでいきなり慶応の三色旗を打ち振り早大応援団員に制止される事件があったからで,連盟側では四日朝,緊急理事会を開き「早慶戦を冒とくする行為」と認め,NTVの第二戦実況中継を拒否したもの。(毎日 1956年11月4日夕刊)

ちなみにこの試合は,NHKとKRテレビ(今のTBS)も中継を予定していました。当時,東京六大学野球のとくに早慶戦は人気のイベントでした。

日テレのスポーツ中継といえば,盗撮アナ炭谷宗佑やセクハラアナ船越雅史が登場したり,シドニー五輪サッカーの日本-南アフリカ戦で「ゴール!」を28回連呼するなど,体質に大きな問題がありますが,こういう腐った体質は50年も昔からあったということですね。

雪が招いた痛ましい日曜日

1964年10月24日は東京五輪閉会式の日。
世紀の祭典が終わりを告げているその陰で,北海道には白魔の手先が……。

札幌に“白い季節”がやってきた。二十三日からぐんと冷え,二十四日朝から全市に降った雪はいったん消えたが夕刻からまた降り出し,自動車が行きかう車道や舗道の道はすぐとけて春先のよう。ぬかって足をとられたり,すべったりで,市民にとって“ユキ悩み”の悪路。(1964年10月25日付北海道新聞朝刊)

そして翌25日の朝,雪が降りしきる定山渓鉄道(定鉄)の豊平の公園下の踏切で,ほぼ満員の乗客を乗せたバスと電車が衝突,39人が重軽傷を負うという事故が起こりました。

ちなみに,この日の積雪17cmは札幌における10月の最深積雪第1位の記録となっています。

炎のゴブレット

2002年10月23日,『ハリー・ポッター』シリーズの第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」が発売されました。

 世界で1億6000万部を超える大ベストセラーのファンタジー小説ハリー・ポッター」シリーズの第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング著、静山社、上下セットで3800円)が23日、全国の書店で発売された。シリーズはこれまで3巻の累計で国内1234万部を記録しているが、第4巻の初版部数は史上最高の230万セット。各地の書店が異例の早朝販売を実施し、「ハリポタ」ファンが待望の最新刊に列をつくった。

 東京都八王子市の「くまざわ書店八王子店」は解禁となる午前5時から販売開始。開店前に、親子連れや出勤前の会社員ら100人以上が並び、物語と同じように魔法使いの格好をした子供の姿も。出版元の静山社社長で翻訳者の松岡佑子さんが魔法使い姿で駆けつけ、購入した一人一人に直接本を手渡した。(毎日新聞)

ハリポタ発売というと毎回話題になる「くまざわ書店八王子店」ですが,今年5月の第6巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」発売の当日には,松岡佑子さんは登場しなかったようですね。

その他の今日のおもな事件――:

AD0200/10/23 官渡の戦い

AD1977/10/23 F1日本GP(富士),G.ビルヌーブのフェラーリが宙を舞ってコースアウト。立ち入り禁止区域にいた会場整理のアルバイトとカメラマンを直撃し2人死亡。優勝はJ.ハント

AD1986/10/23 札幌,10月としては第2位の12cmの積雪

AD1994/10/23 台風33号が発生し,日本の南海上に台風が4つ並ぶ

文永の役と“台風”

対馬壱岐を蹂躙した元軍が博多に上陸したのは文永11年10月20日のことでした(先遣部隊は前日に上陸していたらしい)。この日は現行のグレゴリオ暦では1274年11月26日になります(ユリウス暦では11月19日)。そして次の日の朝,元軍は博多湾からいなくなるわけですが,これについて弘安の役同様に“台風”によるものといわれてきました。しかし,そうではなかったと考えるほうが自然です。

まず,この時期にお誂え向きに台風がやってくる可能性ははなはだ低いです。確かに11月30日に上陸した1990年の台風28号のようなケースもありますが,これはきわめてまれな例です。というわけで“台風”といわれるのは実は“温帯低気圧”なのでしょうが,以下,温帯低気圧である可能性を含めて“台風”と書くことにします。

“台風”が来たと記載した信頼できる日本側の記録は,実はないそうです。“台風”説の根拠とされる『勘仲記』には

或人云去比凶賊船数万艘浮海上而俄逆風吹来

とあるだけですし,『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』には

夜明ケレハ廿一日之朝海之面ヲ見ニ蒙古之舟共皆馳テ帰ケリ是ヲ見テコハ如何ニ此方ハコナタヘ彼方ハカナタヘ後合ニ落ル事コハ何事ゾ今日ハ九国ニ充満シテ人胤モ無ク滅ビナント終夜歎合シニ如何ニシテ角ク帰ラン是者只事ナラヌ消息泣笑シテ色メキテ人心付キニケリ

とあるだけで,“台風”の影響についてはひとことも触れていません。

大船団が“台風”によって沈んだのならば大量に漂流物が残るはずですが,そのような記述もありません。

一方の『高麗史』には13500人あまりが還らなかったという記述がありますが,前後から考えて,兵を撤退した後に暴風雨に遭い,多くの損害を出したと見るのが自然です。

元軍の事情はどうあれ(意図的か,支えられなくなってか),自ら撤退したというのが真相で,“台風”(実体は急速に発達する温帯低気圧。いわゆる“爆弾低気圧”)に遭ったのはその帰路のことでしょう。

というわけで今では“神風説”はほとんど影を潜めているようです。エリック・ドウルシュミート『ウェザー・ファクター―気象は歴史をどう変えたか』でほとんど無批判に“神風説”が採用されているのは,筆者の調査不足か偏見によるものでしょう。

ところで,5年前,NHKの大河ドラマで「北条時宗」が放映されていました。かなりメメしくてオープニングもダサくて,合戦シーンもショボくて,視聴率が↓↓だったのも納得です。ただ,文永の役での元軍の“消滅”は なるほど!! でした。

超大型Tokage来襲

記憶も新しい2004年10月20日の13時ごろ,台風23号が955hPaの勢力で高知県土佐清水市付近に上陸,18時前に大阪府泉佐野市付近に再上陸して本州をほぼ中央本線沿いに通過,そのあと武蔵野線→常磐線と乗り継いで(?!),茨城県から太平洋に抜け,21日09時に温帯低気圧に変わりました。

1990年以降では最悪の台風被害となり,消防庁のまとめによる被害状況は死亡95人,行方不明3人,重軽傷555人,住家全半壊8685棟,床上浸水14323棟,床下浸水41132棟などとなっています。また日本損害保険協会によると,支払保険金が過去5番目の多さになっています。

超大型というのは風速15m/s以上の強風域の半径が800km以上の台風です。超大型台風の出現は2001年の11号以来です。なお,23号が土佐清水市付近に上陸するときには“大型”にランクダウンしていました。

また,Tokageというのは23号のアジア名。日本が提出した星座シリーズのひとつで,とかげ座のとかげです。

10月の台風上陸は珍しいというほどではありませんが,この台風の上陸は戦後(もちろんイラク戦争後ではなく太平洋戦争後)の台風の中では3位タイ,戦後の10月の台風としては2位タイの遅さでした。

10月の上陸台風でもっとも遅かったのは,1967年の34号です。ちなみに34というのは上陸した台風でもっとも大きな番号です。

1967年の秋は,台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。

34号は10月28日に伊良湖岬付近に上陸,中部地方から関東北部を通過して太平洋に抜けました。

しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよびました。

1955年の26号は2004年の23号と同じ10月20日に上陸しました。この台風も不意打ち台風で,17日に台湾付近で発生したと思ったら,40~70km/hで北上し,まさかまさかと思う暇もあらばこそ,20日正午ごろ和歌山県田辺市付近に上陸,さらにスピードを増して70~90km/hで紀伊半島,名古屋,中部山岳地帯,関東北部を通過して福島県原ノ町付近から太平洋に抜けました。

上陸時の中心気圧は985mb程度で,それほど強くはなかったのですが,猛スピードで通過したためとくに進行方向の右側で暴風が吹き荒れ,富士山では20日15時55分ごろに瞬間風速72.5m/sを観測,16時過ぎには風速計が吹っ飛びました。

この年はこの26号が現われるまでは上陸した台風は1個だけで,

廿五個のうち日本に近づいた台風はざっと数えて七個。今年もどれ一つとして“予報官泣かせ”でない台風はなかったが,予報官たちの一致した意見は「米は豊作,台風は不作」だった。(10月12日付朝日新聞)

と書かれたりしていました。

なお,26号とは直接の関係はないようですが,18日23時40分ごろ銚子で竜巻が発生し,住家19戸が全半壊,7歳の女の子が下敷きになって死亡しました。

10月20日に続くのは10月19日上陸の観測史上最強台風TIPです。

鳴くよウグイスの放火殺人

『三代実録』の貞観十六年(874)十月十九日の条に次のような記述があります。

甲戌十九日。太政官奏。沙弥教豊。俗名上毛野豊麻呂沙弥善福。俗名水取貞江。於丹波國船井郡。濫僧册餘人。殺勸學院使日奉全吉。支解其體。行火燒民屋二家。并燒殺一女。下刑部省令覆案。並當斬刑。石見國人若枝部豊見。鬪駆殺人。當絞刑。勅。宜減死一等並處遠流。

もちろん『三代実録』なんてσ(^^;)の愛読書でも何でもなく,この凶悪事件は長山泰孝『世相の古代史』で見つけたものです。同書によると,次のような事件です。

沙弥の教豊と善福の二人は,丹波国船井郡で悪僧四〇人あまりを率いて,勧学院の使の日奉全吉を殺して死体をばらばらにした。そのうえ民家に放火して二戸を焼き,女性一人を焼き殺した。刑部省の判決によると,二人の罪は死罪にあたるが,罪一等を減じて遠流にするということである。

ここで勧学院というのは藤原氏が子弟の教育のために設けた機関で,このような事件の背景には荘園をめぐる争いがあったようです。また,罪一等が減じられているのは,818年以降,死刑の執行を避けるようになったためということです(すべて同書より)。

ちなみに,死刑の執行を避けるようになったのは,今の死刑廃止論者がバカのひとつおぼえのように唱える“人道”上や“人権”上の理由などではなく,怨霊を恐れてのことでしょう。

その他のおもな事件――

AD0773/10/19 呪詛の罪で皇后を廃された井上内親王不破内親王をも呪詛したということで,子の他戸王とともに大和国宇智(今の奈良県五条市付近)の邸宅に幽閉される (宝亀4)

井上内親王の呪詛事件」は奈良時代の重要な事件ですね。ただし教科書には載っていません(たぶん)。幽閉後,宝亀六年(775)に子の他戸王とともに死亡していますが,明らかに暗殺か自害を迫られてのものでしょう。その後天変地異や飢饉が続けざまに起こり,井上内親王のたたりと恐れられますが,いずれ別の機会に。

AD1979/10/19 台風20号,白浜付近に上陸。猛スピードで本州縦断

この台風については→観測史上最強台風 TIP

AD1997/10/19 イスラエルとヨルダン川西岸でひょうを伴った暴風雨。11人以上死亡

AD1997/10/19 第2回秋華賞,1番人気のオークスメジロドーベルが直線伸びて2.00.1のタイムで優勝。2着は桜花賞キョウエイマーチ

AD2003/10/19 第8回秋華賞(G1),スティルインラブ幸英明騎乗)が1分59秒1で勝ち,1986年のメジロラモーヌ以来17年ぶりの牝馬三冠を達成

カーネル・サンターズの呪いはじまる

1985年10月16日,大阪ミナミに突如として(?)現われた群衆がKFC道頓堀店に置いてあったカーネル・サンダース人形を「バースや! バースや!」というわけのわからない叫び声とともに拉致,そのまま道頓堀川に投げ込むという暴挙を行ないました。

「カーネル・サンターズの呪い」のはじまりです。

某プロ野球球団がその後しばらく優勝できなかったのはこの呪いのせいだという話もありましたが,σ(^^;)にとってはどうでもいい話で。

ちなみに,1991年か1992年の日米通商会議(?)で,アメリカ側から「カーネル・サンダースさまを川へ突き落としたやつを死刑にしろ」という要求があったというのは,一部には有名な話です(爆)

殉難動物慰霊碑

動物衛生研究所九州支所に殉難動物慰霊碑があります。1951年のルース台風で殉難した動物たちの慰霊碑だそうです。碑銘には一樹の蔭と刻まれています。http://niah.naro.affrc.go.jp/sat/tanken/monument.htm

動物慰霊碑はときどき目にすることがありますが(競馬場内外でとくに。名前は違うことが多いですけど(笑)),自然災害による動物慰霊碑は珍しいと思います。

ルース台風

1951年10月9日グアム島の西海上で発生,発達しながら西北西~北西に進み,12日15時には925mb,最大風速60m/sに発達。12日15時に北緯20度線を超えるあたりから進路を北に変え,14日19時ごろ鹿児島・串木野付近に上陸。約80km/hで九州を縦断し,22時には国東半島付近を通って周防灘に抜け,そのご山口県防府市付近に再上陸,米子の東から山陰沖に抜けました。

台風が衰える間もなく高速で進んだため,九州南部を中心に全国的に暴風が吹き荒れました。宮崎県の細島では日本歴代第2位の最大風速69.3m/s,愛媛県佐田岬では同じく第3位の67.1m/sを記録しています。

また,台風の接近とともに前線(ちなみに,当時は秋雨前線ということばはまだなかった)活動が活発になり,九州東部,中国,四国地方で大雨になりました。もっとも大きな被害を受けた山口県では,錦川上流で土砂崩れが多発,前年のキジア台風で流された錦帯橋がまたも被害を受けました。

1951年10月16日付の西日本新聞から見出しをいくつか拾ってみます。

死者遂に287名 西日本の被害益々拡大
ダム溢水で犠牲84名 山口錦川氾濫,五村襲う
高潮38名を一呑み 枕崎
愛児は生きていた 倒壊家屋から守る死の母の母性愛

●2つの台風進路予想

1951年10月14日付の朝日新聞に「海岸沿いか縦断か 台風進路に二つの予想」という見出しの興味深い記事があります。中央気象台(東京)と大阪管区気象台がルース台風の進路に関して,異なる予想を出していたというのです。記事によると,中央気象台では「本土をかすめ台風中心は南方海上を通過する公算が大きい」,大阪管区気象台では「四国から大阪湾に上陸,中部,関東を縦断する最悪“コース”をとるだろう」という予報を出していました。

このように異なる予報が発表されたのは,1949年のデラ台風や1950年のキジア台風を教訓とし,1950年の全国気象台予報課長会議で,中央気象台が各地の情報を集めて判断を下していたのでは時間的に手間取って間に合わないときは,各管区ごとに独自の判断を発表するという現地主義に切り替えられたためです。

結果からいえば,両方ともハズレ,でした。

現在は台風の予報は基本的には気象庁(本庁)の予報部ですべて行なっていますが,台風の予報を行なっているのはなにも日本だけではなく,いろいろな国で独自の予報を行なっています。それぞれのWebサイトで見ることができる場合もあります。比較してみると面白いかもしれません。

●苦しいときの台風頼み

当時,電力はおもに水力発電で賄われていました。朝鮮戦争による特需で電力需要が増えていたことに加え,この夏は小雨だったため,慢性的な電力不足に悩まされていました。そのため,ルース台風による慈雨が期待されていました。

確かに雨は降り,しかもよせばいいのにところによっては降りすぎるくらい降りました。それで「電源地帯はフル運轉」(10月14日西日本新聞)「ふっとんだ電力危機 流量一挙40%増」(10月16日同)という状況になりましたが,それもたった数日間のことでした。

ちなみに,“台風への雨乞い期待”はその後もときどきあり,例えば1967年の秋は,台風は発生するものの日本列島に近づかず,秋雨も東日本ばかりで,西日本を中心に渇水が生じていました。そんなところに34号がやってきて前線を活性化してくれたために北九州では恵みの雨になりました。しかし,ほとんど不意打ち気味に上陸して暴風雨を引き起こしたため思いのほか被害が大きく,死者・不明47人,住家損壊2959棟,浸水26842棟におよび,とんだ“度を越した恵みの雨”となりました。

また,1978年には渇水状態の東京に,台風15号が“給水台風”の期待とともに近づいてきましたが,予想進路のいちばん南に進路をとり,

給水台風として異例の期待をされていた台風15号は,つれなくも肩すかしを食わせる形で,東海上へ去っていった。(1978年9月6日付朝日夕刊)

観測史上最強台風 TIP

1979年10月4日15時,トラック島の南東海上に弱い熱帯低気圧(当時の呼び名。今流にいえばただの熱帯低気圧)が発生,6日15時には台風20号に昇格しました。

台風には気象庁がつける何号という番号のほかに米軍の合同台風警報センターJTWCが名づける名前がありましたが(今はいわゆる「アジア名」に変わっています),前年まではすべて女性名でした。有名なところではカスリーン,アイオン,キティ,ジェーンなど。洞爺丸台風は15号よりもむしろマリーとよばれていました。しかし台風よりもはるかにおっとろしい女性団体の圧力で,男女交互に名前をつけることになり,この年の3号から男性台風が登場,20号は男性名でTIPと名づけられました。

なお,3号が男性で交互なら20号は女性になるはず……とここで気づいたあなた,スルドイです。実はおそるべき?!からくりが隠されているのです(笑)

話がズレましたが,この台風は,9日の夜から急速に発達し,12日12時と15時に沖ノ鳥島の南東海上で870mbという世界の最低気圧を記録,観測史上最強の台風になりました。

この気圧は米軍の観測機がドロップゾンデで観測した実測値です。当時は台風の中心気圧を実測していました。現在は気象衛星画像による台風中心付近の雲の形と動きからドボラック法とよばれる手法で風速を推定し,それから中心気圧を決めています。ちなみに,この手法では実際の気圧より高めに(要するに実際よりも弱く)出るのでは……という指摘もあります。

さて,台風20号TIPは19日09時40分ごろ965mbの勢力で和歌山県白浜付近に上陸,95km/hという猛スピードで本州を縦断し,23時ごろ釧路付近に再上陸しました。そのため被害はほぼ全国に及び,死者・不明111,負傷478,住家損壊7523棟,住家浸水37450棟,耕地被害25451ha,農林水産業被害1057億円などでした。

1966年の26号(いつだったかを参照(爆))以来13年ぶりに台風の暴風域にはいった首都圏は国電(懐かしい名前)や私鉄がほぼ全面運休,電話回線もパンクし,193万戸が停電,「首都圏の台風被害は「足」と「耳」を直撃」「災害に弱い大都市の弱点をさらけ出した」(20日付毎日朝刊)。

大小を問わず,このときの首都圏の駅という駅の混みようはとにかくすさまじかったそうです。ストと違って災害だから……とはじめは寛容だった乗客も,国鉄のいいかげんな対応に次第にブチ切れはじめたそうです。まあ,聞くところによると当時の国鉄の組織的な危機対応能力はほとんどゼロメートル地帯でしたし,それを引きずっているのがJR東日本JR西日本なのでしょう。

ちなみに,この年は20号を含めて3つ台風が上陸しましたが,なぜかすべて男性名でした。

「日本競馬史上最高の名勝負」

1992年10月10日23:00-23:30,↑という名前のテレビ番組がNHKで放送されました。この年の9月18日に死亡したトウショウボーイを追悼する意味もあって企画されたのでしょう。

「日本競馬史上最高の名勝負」とはもちろん1977年12月18日,あの有馬記念です。レースのビデオがノーカットで放送されたことはいうまでもありません。しかもなんと杉本アナ実況だったのです。

変な作家(少なくともσ(^^;)の知らない作家)が出てきてうだうだしゃべったりしたのが少し残念でしたが,なかなかgoodな番組でした。。