月夜の赤穂浪士の討ち入り

まず,クイズから。

襲撃・暗殺などが雪の降る中で行なわれた事件を次のア〜エからすべて選び,記号で答えなさい。

ア 蘇我入鹿の暗殺
イ 赤穂浪士の討ち入り
ウ 桜田門外の変
エ 二・二六事件

解説しよう(今は亡き富山敬さんの声で(笑))。ちなみに,今放送されている「ヤッターマン」は全然面白くありません。

さて,まずアですが,事実とすれば事件が起こったのは皇極四年六月十二日,ユリウス暦では645年7月10日ですので,まあ, ふつうに考えれば雪は降っていなかったでしょう。『日本書紀』にはこの日大雨が降ったという記述があります。

イは本題なので後まわしにして,ウの大老井伊直弼暗殺は雪の降る中で行なわれました。雪が降っていたため, お供の者が雪水がしみるのを防ぐために刀に柄袋をつけていて,刀をなかなか抜くことができなかったことが, 白昼堂々と大老が討ち取られた原因のひとつとされています。

エの二・二六事件は,2月23日に積もった雪は残っていましたが,この日雪が降りはじめたのは襲撃があらかた終わってから後のことです。 前夜からの大雪の中,反乱軍が兵営を出発して首相官邸などを次々と襲撃した……というのは真っ赤なウソです。

というわけで,正解はウということになります。正解しても,賞品は何もありませんのであしからず(笑)

やっと本題にはいります。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは,元禄十五年十二月十五日の寅の上刻とされています。 今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになりますから,1年でもっとも寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになります。

このときは晴れていて,したがってもちろん雪は降っておらず,赤穂浪士の47人は小望月の月明かりの中, 本所松坂町の吉良邸に向かったのでした。前日に降った雪がざらめ状に凍って,歩きやすかったとのことです。

かりに今日あたりのお天気番組で

歴史上有名なのは,1702(元禄15)年12月14日から15日の朝にかけて,江戸の町に降った大雪だ。赤穂浪士の討ち入りの日で,新暦では1月31日に当たる。

のようなことを話している人がいたら,ウソつくのもいいかげんさらせ( ゜Д゜)ゴルァ!!と厳重に抗議をしましょう(笑) ちなみに,これは某お天気キャスターのサイトにあった文章を音声を変えて引用したものです。

今はなき三波春夫さんの名調子に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」があります。σ(^^;)の知る限り,誇張はありますが,山鹿流の陣太鼓以外はその夜の状況が正確に描かれています。さすが名調子です。比べては三波春夫さんに失礼ですが,不勉強なお天気キャスターとは全然違います。

積もっていた雪の影響も少しはあったようで,討ち入りの初っぱな,門を乗り越えるときに,原惣右衛門と神埼与五郎が屋根の上に残っていた雪ですべって転落し,足をねんざしたそうです。ドラマなんかではこの場面は再現されませんね。でも,原惣右衛門ってご老体では……?

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わりました。ドラマなどでは,捕らえれて引き出された吉良上野介大石内蔵助が 「吉良殿でございまするか」などと人定尋問するのが定番になっていますが, 実際には内蔵助の前に引き出されたときはすでに息がなかったようです。

1703年1月31日の東京の天文データは次のようになっています。

===================
天文薄明開始 05:16
市民薄明開始 06:17
日の出    06:42
正中     11:55
日の入    17:08
月の入    05:18
===================

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったということは,このデータを見るかぎり,やはり討ち入りは長くても2時間程度だったようです。

今では吉良上野介がいい殿さまで,浅野内匠頭はバカ殿だったと,評価が逆転した感もあります。もっとも,いい殿さまといっても,道路特定財源だったかなんだったかをいっぱい分捕ってくる税金ドロボ〜である“現在のいい殿さま”と五十歩百歩だったのかもしれませんけれど。

(N)2006/12/14

聖ルチアの日と「サンタルチア」

12月13日はキリスト教では「聖ルチアの日」です。聖ルシア,聖ルキア,あとで出てくるように聖女リュースともよばれます。伝説によると,304年に若くして殉教したことになっています。

“ルチア”はラテン語で「光(lux)」あるいは「光をもたらす者」の意味です。それもあってか,『フランスことわざ歳時記』(社会思想社)によると,フランスには

聖女リュースの日には,日は蚤のひと跳びだけ長くなる

ということわざがあるそうです。ユリウス暦の時代には聖ルチアの日である12月13日が冬至だったので(というより冬至の日を光をもたらす聖ルチアの日と決めたのでしょう),冬至から日が長くなることをいっている……と解釈するのがふつうのようです。

次の表は,以前パリにおける日の入りの時刻を「ステラナビゲーター6」で計算した結果です。

========== ========
 年月日  日の入り
========== ========
2003/12/10 16:55:13
2003/12/11 16:55:09
2003/12/12 16:55:08
2003/12/13 16:55:11
2003/12/14 16:55:16
2003/12/15 16:55:24
2003/12/16 16:55:36
2003/12/17 16:55:51
2003/12/18 16:56:08
2003/12/19 16:56:29
2003/12/20 16:56:53
========== ========

誤差もあるでしょうし,ほかにもいろいろな要因があるので,この値を鵜呑みにはできませんが,だいたい聖ルチアの日ごろから日の入りの時刻が遅くなりはじめているということはできるでしょう。ことわざは言葉どおりの意味でもけっしてウソではないのです。ちなみに,東京でも今ごろから日の入りが目に見えて遅くなりはじめます。

旭川にあるサンタプレゼントパークでは,ルチアは世界の10人のサンタのひとりになっています。

ところで,聖ルチアを守護聖人にしているのがスパゲッティ・ナポリタンで有名な(笑)(これしか知らん(^^;))ナポリで,その民謡(?)に「サンタルチア」があります。音楽には疎いσ(^^;)でさえ「♪スルマーレルッツィカ…」と歌い出しだけは歌えるくらいですから(音程が合っている保証はありません(^^;)),かなり有名な曲なのでしょう。

ここで,サンタルチアというのは「イタリア南部,カンパニア州北西部,ナポリ県のナポリ港南西の地区および街路」(『コンサイス外国地名事典』)で,「この海岸からのナポリ湾とベズビオ山の眺めは第一級」(同)だそうです。

「サンタルチア」には,訳詞が2つばかりあります。歌い出しを比較してみましょう。

まずは,堀内啓三訳詞:

月は高く 海に照り
風も絶え 波もなし

次に,小松清訳詞:

そらにしろき つきのひかり
なみをふく そよかぜよ

一方では「風も絶え」,もう一方では「なみをふく よかぜよ」。いったいどっちがホントなんだ……(笑)

元の詞は“波はおだやかで,(船出にとって都合のよい)順風が吹いている”というような意味のようです。

あとの部分になりますが,元の詞ではこの順風は西風で,この風に乗ってサンタルチアに行こう!! と歌っているので,西にある例えばポンツィアーネ諸島あたりからサンタルチアに向かおうとしているのかもしれません。ところが,小松清訳詞では「かなたしまへ ともよゆかん」とまったく逆になっています。まあ,どうでもいいですけど(笑)

2週続けて雪の日曜日

1987年12月,あの雪の日曜日から1週間後の13日の朝,目がさめたら,窓の外でカサカサという先週も聞いたような変な音が。 まさかと思って窓を開けて外を見たら,なんと雪でした。ここから先の記憶がないところをみると,たぶんまた寝たんだと思います(笑)

前週と同じように南岸の低気圧に北東から冷たい空気が流れ込み,東京都心で雨から雪に変わったのは09時30分ごろ,そして18時までに3cm積もりました。

例によって例のごとく,おきまりのすってんころりんねんころりんで滑って転ぶ人がまたまた続出,前週を上回る32人がケガをしました。また,翌14日の朝は冷え込んで路面が凍結したため,関東各地でスリップによる交通死亡事故が相次ぎました。

中山競馬は3レース以降が中止になり,2週続けて日曜日の開催が中止になりました。12月としてははじめてです。

延期されていたミホシンザンの引退式は雪の中で行なわれましたが,芝コースが閉鎖されていたためにダートコースでの最後の走りとなりました。

当時,12月の第2日曜に国立競技場で行なわれていたトヨタカップは,もちろん降りしきる雪のためにコンディションは最悪。勝ったFCポルトのイビッチ監督が「何千試合もしてきたが,こんな悪条件ははじめて」と語っています。これは雪のためばかりでなく,前週の “雪の早明戦”によって芝がかなり剥がされた影響もあったでしょう。

試合は延長の末,FCポルトCAペニャロールを2-1で破りました。

もともと評判の悪かった日本のグランドの評価がこの日のトヨタカップによって最悪になりました。トヨタのせいだということに注目しましょう(笑)

国立競技場の芝が見違えるようになったのは1991年からだったと思います。

インディギルカ

1939年12月12日,北東の風20m/sという暴風雪の中,北海道の猿払村浜鬼志別の沖合0.8マイルのトド島付近で,ソ連の貨客船インディギルカ号(4500トン)が座礁しました。その後,大シケの中で横転。

700人以上乗っていたことは確かなようですが,正確な数は不明です。というのも,政治犯輸送船だったからです。ソ連の秘密のベールに包まれていました。

猿払村などの人々の献身的な救助で,400人あまりが救助されました。夏季に鹿児島港沖1.6マイルで座礁したくろーばー号とは違い*1,大シケの中でのこの生存者数は奇跡に近いでしょう。当時は特殊救難隊も機動救難士もいませんでしたし。

インディギルカ号の遭難については,北海道ろまん紀行 第6回などが詳しいです。

いろんな意味でタイタニックより悲劇的な遭難事故ですが,国内でもあまり知られてはいないようです。σ(^^;)が知ったのも10数年前です。NIFTYのFZENFというフォーラムででした。

ちなみに,インディギルカとは,酷寒の東シベリアの中でももっとも寒いオイミャコンを流れている川の名前です。(ただし,船名をこの川の名前からとったのかどうかは不明)

田中正造氏直訴を企つ

昨日午前十一時十分開院式を終りて聖上還幸の御途次,前衆議院議員田中正造氏が畏れ多くも鹵簿を目懸けて直訴する所あらんとしたる椿事あり(1901年12月11日付時事新報)

田中正造前衆議院議員が足尾銅山による鉱毒と銅山から排出された土砂の渡良瀬川への投棄によって生じる洪水による農民の窮状を明治天皇に直訴しようとした,有名な直訴(未遂)事件です。

当日の天気について,東京朝日には次のようにあります。

昨日の開院式ハ政界の薄曇りなるにハ似もやらずして無上の好晴小春日和の麗かさにソヨとの風さへ無ければ……

40年前の寒い朝……

アルフィーの幻の名曲に「府中捕物控」があります。幻という割には比較的よく知られていたりするようです。

σ(^^;)はデビュー曲だとカン違いしていたのですが,どうも3曲目になるはずだった曲らしいです。でも,たしか前座に出てきたとき,今度この曲でデビューしますといっていたような……。そしてタイトルを「よくぞ逃げたよ3億円」と紹介していたような……。

1番は次のような感じです。(耳コピーです)

♪あなたのしたことは
ほんとに悪いことだけど
世間のみなさまに
顔向けできないことだけど
七年前の寒い朝
日本全国津々浦々
新聞広げておどろいて
胸がスカッと晴れたっけ
雨に轟くオートバイ
昭和の義賊 怪盗ルパン

よくぞここまで逃げ延びた
お疲れさまです 立派です
拍手で迎えてあげるから
みんなで分けようね
三,三,三,三,三 三億円

作詞・作曲:山本正之。ただし,上の歌詞は「うたまっぷ」などで公開されている歌詞とはかなり違います。

σ(^^;)は「♪雨に轟くオートバイ・・・」の部分が好きです。いかにも山本節といった感じで。

というわけで,今日はかの3億円事件が起こった日です。お天気屋の悪い習性で……というよりたんにσ(^^;)のビョーキかもしれませんが,歌詞に見逃せない部分を発見(笑)

まず,「雨に轟くオートバイ」の部分。事件当時,南岸低気圧が通過しており,データはありませんが,当時の報道を見ると現場では確かに雨が降っていました。したがって○《マル》。

次に,「七年前の寒い朝」の部分。事件当日の東京の最低気温は平年と比べてなんと11.4℃も高い14.0℃。この事件が朝刊に載っている次の日の最低気温も平年より11.1℃も高い13.4℃でした。したがって×《バツ》。

カラオケで歌うときは「×年前のヌクい朝」と歌うようにしましょう(笑) でも,カラオケにあるのかな?

※写真は3億円事件の現場付近のいま。

(M)2007/06/10改題

「這ってでも出てこい」

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分15秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが, 瀬古利彦 (最近では日テレの箱根駅伝中継やその他のマラソン中継に出てきてはピントはずれなことをいってヒンシュクを買っているあの人物。“ビッコ”発言もありました)が足をケガして出場できなくなった途端に,選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった―― という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒), 35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

〜能天気Express 2006/12/02〜

伝説の雪の早明戦

1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。

これがこのシーズンの初雪で,戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です(当時)。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。

ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。

なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のキムチの悪臭漂うドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!!あんな臭いものが人の食いもんとは思えんが。

ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

1987年12月6日は12月の第1日曜でした。国立競技場は一面の雪――。しかし,何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

〜能天気Express 2006/12/02〜

後楽園で予想屋とテキ屋が大乱闘

1959年12月1日10時40分ごろ,後楽園競輪場で予想屋の5人のグループにテキ屋一家の20数人が刃物を持って襲いかかりました。大乱闘となり,予想屋グループの1人が重傷,4人軽傷を負いました。

この騒ぎでテキ屋一家の5人が逮捕されました。

どうやら予想屋どうしのナワバリ争いだったもようです。

当時の後楽園競輪場はといえば,ゴロツキのたまり場だったようで,1960年1月13日付の読売新聞によると,後楽園競輪場の場内には予想屋300人,コーチ屋100人,ノミ屋多数,場外にカイキ屋(あやしげな機械を使って予想を立てる)4組,新聞立ち売り100人,白タク多数,その他場内外にダッコ屋(風呂敷包みを抱いてのり巻きや大福を売る)50〜60人などの“ダニ”がいたそうです。

刃物くらいならまだいいほうで,1955年2月26日付の読売新聞には

短銃持って競輪場へ 後楽園
鮮人一人逮捕

という記事があります。嫌チoンな人の喜びそうな記事ですが,残念ながら実際には“鮮人”ではなくただの暴力団の組員で(在日でもなかったもよう),警備員への報復だったようです。この警備員も別の組の組員だったというのですから,後楽園競輪場がどんなところだったかは想像に難くありません。

後楽園競輪場ばかりではなく,他の競輪場も似たようなものだったのかもしれません。中でも有名な鳴尾競輪暴動事件については能天気Express〜新世界版〜 ジェーン台風が招いた鳴尾競輪暴動事件をご覧ください。

ちなみに,その後楽園競輪場の跡地にできたのが,永久に不潔なチームの本拠地となっているあの屋根つき球場です。

隠岐で大旋風

1886年12月1日18時ごろ,隠岐近海で竜巻が発生しました。

折から出漁中の島後の漁民が巻き込まれ,100戸ばかりの大久村では29人が死亡,西郷町周辺の町村では6人が死亡,48人が行方不明になったもようです。