第4回JC

11月25日の歴史をひもとくと,ハラキリをやった時代錯誤のはなはだしい人もいたようですが,こんなモンには興味はなく,
何といっても1984年の第4回ジャパンカップです。日本の競馬会に衝撃を与えた第1回JCから3日後……いえいえ3年(+3日)後です。

σ(^^;)はカツラギエースの単勝を5000円ほど買っていました(笑) あとシンボリルドルフの単勝もいくらか(1000円程度)
買っていたと思います。今も昔もこんなに馬券を買うことはきわめてまれです。

大逃げをうったカツラギエースに4コーナーを回って後続が一気に迫ったとき,もうダメだと思いました。しかし,
大逃げの割に前半の1000mは61.6秒で見かけほど速くなく,勝負処で息をつくことができたので,西浦騎手が追い出すと,
カツラギエースは二の脚を使って先頭でゴールしました。スタッフが練りに練った作戦だったらしいです。

σ(^^;)の頭の中がまっ白になったことはいうまでもありません(笑)(5000×4080÷100=□円)

ちなみに,11月25日には第1回ジャパンカップダートも行なわれています(2000年)。

風船おじさんどこ行くの?

1992年11月23日,風のおだやかな琵琶湖畔から,風船おじさんが改造したひのき風呂にヘリウム風船をつけた「ファンタジー号」に乗り,米国ネバダ州のサンドマウンテンを目指して飛び立っていきました。

この飛行計画,鳴き砂の保護を訴えるという目的はともかく,やっていることがメチャクチャで,食料は1週間分だけしか積んでおらず,通信手段はなんと携帯電話! 電源もさることながら(当時の携帯電話は電池の保ちがものすごく悪かった),基地局がないところでどうやって通話するんでしょう。一説にはコードレスホンの子機だったという話もあり,いずれにしてもあまりにもズサンです。

風船おじさんは25日,宮城県の金華山沖で海上保安庁の飛行機に目撃されたのを最後に消息不明になりました。おそらく太平洋に墜落するべくして墜落し,海の藻屑と消えたのでしょう。いくらなんでもこんななんの役にも立ちそうもないオッサンを北の将軍さまが拉致するとも思えないし(笑)

元禄地震

元禄十六年十一月二十三日(グレゴリオ暦で1703年12月31日),相模トラフを震源域とする非常に強い地震が発生しました。「元禄地震」とよばれています。

1923年の「大正関東地震」と似ていることから,ひとつ前の関東地震といわれていますが,規模は元禄地震のほうが大きかったようで,マグニチュードは7.9~8.2と推定されています。

震度は神奈川県の湘南地方と房総半島南部で6強から7,東京都心で5強と推定されています。ヒューザーアパグループ耐震偽造マンションなどひとたまりもないでしょう。ビンボー人が無理してマンションなんかを買ってはいけないといういい教訓です(<そうなのか?(笑))。

房総半島や相模湾の沿岸部を中心に大津波が襲い,とくに房総半島では死者6500人以上といわれています。この津波で,1498年の「明応東海地震」の津波で流されて別の場所に再建された日蓮の誕生寺が,再び海に沈みました。

現在,(旧)天津小湊町にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(http://www.notenki.net/location/uchida.html#id0005。また内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

第1回JC

1981年11月22日,冬型の気圧配置になって木枯らしの吹く東京競馬場で,第1回ジャパンカップが行なわれました。

外国からは7頭が参戦しましたがとても一流とはいえないメンバー。しかもヨーロッパからの参加はなし。迎え撃つ日本馬は,当時のトップホースだったホウヨウボーイモンテプリンスを含め8頭が出走しました。

勝ったのはアメリカのメアジードーツで,それまでの日本レコードを0.5秒更新する2.25.3のタイム。日本馬は「日の丸特攻隊」サクラシンゲキが前半の1000mを57.8秒という気違いラップでブッ飛ばしたのが目立っただけで,最高着順は公営出身のゴールドスペンサーの5着という惨敗でした。サクラシンゲキ小島太がレースをブチ壊したともいえるでしょう。

海外の二流馬に席巻されて,日本の競馬関係者はかなり衝撃を受けたらしいです。σ(^^;)はただの傍観者ですから,しょせんこんなものと思っただけです。当時,海外の競馬なんてほとんど知らなかったですが。

第1回ジャパンカップの話題を独占?したのは「インドのシンザン」オウンオピニオン。ゾウと併せ馬をやったなどというウワサもありましたが,ホントのところはどうだったのでしょうか。

トルコからもデルシムという馬が招待されて来日したのですが,調教中に故障して,レースに参加することなく帰って行きました。

ショックのあまり20年は勝てないのではないかとか思われた日本馬ですが,実際には3年後に(ただし,日記上では3日後に(爆)),意外な形で勝つことになります。

赤壁の戦いと東南の風

建安十三年十一月二十日,曹操率いる魏の主催者側発表80万の大軍と周瑜率いる数万の呉の軍勢が長江の赤壁(現在の湖北省)でぶつかりました。赤壁の戦いです。

赤壁の戦いといえば東南の風です。周瑜はこの東南の風のおかげで曹操の大船団を焼き討ちにすることができたとされています。十一月二十日はもちろん太陰太陽暦での日付で,ユリウス暦では208年12月15日となり(グレゴリオ暦でも同じ),季節は冬。データがないので確認はできませんが,天気図類から推察すると,この時期は赤壁付近でも西~北の風が卓越し,“東南の風”はほとんど吹かないようです。

『三國志演義』では,諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない,3日3晩“東南の風”を吹かせたことになっています。三国志ファンにはおなじみの場面です。

一方,正史の『三国志』では,この“東南の風”がどういう状況で吹いたのか記述がありません。しかも,強風が吹いたという記述はありますが,向きまでは書いてありません1。いずれにしても,この風を利用して猛将の黄蓋が投降と称して魏の大船団に接近し,決死の活躍で火をかけることになっています。ただ,周瑜ほどの知将ならばある程度観天望気はできたはずで(少なくともブレインはいたはず),風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったのだと考えるのが妥当でしょう。

『演義』では,赤壁の戦いは前半のクライマックスだけあって,孔明の祈祷以外にも話を盛り上げるいろいろな脚色がなされてます。例えば,黄蓋は“投降”する前に周瑜と示し合わせて苦肉の計という芝居を打ったことになっています。また,曹操は大決戦を前にして戦勝の前祝いの宴会を開き,槊を横たえて「短歌行」を賦すことになっています。曹操ファンのσ(^^;)の好きなシーンだったりするのですが。

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
・・・・・・

酒に対して当に歌うべし
人生 幾何ぞ
譬えば 朝露の如し
・・・・・・・

この詩の中の「月明らかに星稀に (烏鵲南に飛ぶ)」のフレーズは高校の漢文の教科書に載っていました。っていうかそれで知りました。

しかし,実はこの詩は制作年が不明だったりします。さらに,不吉だと「短歌行」にケチをつけて突き殺される劉馥という人物は,このころ孫権の10万の大軍から合肥の城を死守していました。ただしこのときはすでに病死していたようです。

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  1. かなり前に中華書局発行の標点本で見たため,見落としの可能性もあります。 

しし座流星群フィーバー

1998年11月18日の未明,全国的にしし座流星群フィーバー(フィーバー=死語?(笑))がわき起こりました。

冬型の気圧配置になって太平洋側では比較的観測条件がよかったのですが,期待されていたほどの大出現にはなりませんでした。

当時の新聞などによると,

東京湾アクアライン海ほたるパーキングエリアには,17日午後11時すぎから若い男女や親子連れが集まり始めた。約300人がライトの消された5階展望デッキの北側で,毛布にくるまったり,床に寝っころがったりして空を見つめていた。18日午前零時ごろから「あっ見えた,見えた」「明るかった」などと星が流れるたびに何度も歓声が上がった。

都内の女子高校生(15)は,同じクラスの友人3人と午後7時半から星が流れるのを待った。4人は「海が広がるところで星を見たかった。朝までいてたくさん願い事をします。そのま学校に行くつもりです」と話していた。 [1998/11/18(Wed) asahi.com]

↑未成年が深夜ほっつき歩いていいのか(笑)

中には,「しし座流星群のおかげで娘と数年ぶりで話ができた」と喜んでいた情けない中年オヤジもいたそうです。

一方で,観察中に橋から転落して自分も星になってしまった人もいました。

大出現となったのはしし座流星群も忘れられかけた(?!)2001年のことです。

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探検隊長死す

川口探検隊長の川口浩さんが50歳の若さでこの世を去ったのは1987年の今日でした。一説には霊界の探検に出かけたのではないかといわれていましたが。ちなみに,この前他界したT.T.氏は今ごろ,霊界など存在しないことにア然としているに違いありません(笑)

3年前に藤岡探検隊が結成され,長い間ほとんど忘れられていた川口探検隊も再評価?!され,DVDまで出ています。

テレビ朝日の公式サイトによると,全部で45回探検しているようです。

σ(^^;)的には,探検隊シリーズといえば,なんといっても田中信夫さんのナレーションです。かつてNHKが放送したドキュメンタリー番組「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」でヤラセが発覚したことがありますが,もしナレーターにこの人を起用していればそんな問題も起こらなかったのでは……(笑) さらにタイトルを「ヒマラヤの奥に禁断の王国は実在した!!」とかにすれば完ペキだったかも。川口隊長が当時すでに故人だったことが惜しまれます。

ちなみに,川口浩さんは川口探検隊がはじまる数年前に,フジテレビ系の競馬中継に夫婦でほぼレギュラーのように出演していたことがあります。

七五三台風

今日は七五三。とはいってもσ(^^;)には何の関係もない日ですが。

さて,1932年の七五三の未明,“帝都”が台風の爆撃に遭いました。七五三の日に襲ってきたので「七五三台風」とよばれます。

「気象要覧」によると発生直後のようすは次のとおりです。

此の颱風は七日正午ヤップ島南方百粁の海上に現れ(更に南方より進行し來たれる形跡あり)西北西に進行しつゝ漸次勢力を増し,十日午後フィリッピン,レガスピ付近に逹したる時はすでに七百四十粍内外となり,進路を北西より北に轉じ,十二日朝ルソン島北端を離れ進路を北東に向けた。此の頃より次第に勢力を増し,七三五粍位のものとなり十三日冲繩の南東海上を通過するに當たり同島は暴風雨と化した。

14日にはさらに発達しながら日本の南海上を北東に進み,夕方には静岡県が,夜には関東南部が暴風域にはいり,横浜36.3m/s,館山35.2m/s,銚子31.5m/sなどの最大風速が観測されました。勝浦では“風力台”が吹き飛びました。東京でも最大風速21.2m/sが観測されています。降水量も相当なもので,館山で230mm,東京で210mm,横浜で164mmの雨が降りました。まさに「到るところ倒壞浸水相次ぎ 風吼え狂ふ物淒き一夜」(東京日日新聞)でした。

おもな災害を新聞から拾ってみると,横浜の中村町の崖崩れで120人が生き埋め,東京市では蒲田と江東を中心に42000戸が浸水,同じく東京市で新築中の小学校7校が全半壊,静岡県吉原村では暴風雨の最中に火災が発生し250戸が全焼,茨城県太田町でも150戸が全焼……。17日付のなぜか北海タイムスには,静岡県の大宮町は火災と烈風のためににほとんど全滅のもよう,などという記事もあります。

台風はそのまま北東進を続け,15日00時20分には勝浦が,02時40分には銚子が眼にはいりました。勝浦と銚子ではこのとき観測された952.8hPa,952.0hPaがそれぞれの観測史上の最低気圧になっています。

このあと台風は日本列島から離れていきましたが,台風の進路に近い福島県沖が大しけとなり,40隻の漁船が遭難しました。

「理科年表」によると,全体の被害は死者146,不明111,負傷345,住家13672,浸水65081,船舶2230にのぼり,11月としては未曾有の大災害となりました。

なお,台風とは全然関係ありませんが,16日付の東京日日新聞に“トンデモ女教師”の摘発というものすご~く興味深い記事が載っています。いずれヒマを見て紹介します。