魔海の恐怖?

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1955年7月28日の午前10時過ぎ,三重県の津市立橋北中学校が市内の中河原海岸で水泳講習を行なっていたところ,女子生徒47人が潮に流され,そのうち36人が死亡するという事故が起こりました。

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当日09時の天気図を見ると,東日本以西は太平洋高気圧(というより小笠原高気圧のほうがピッタリ)におおわれています。四国の南に台風13号がありますが,中心気圧が995mbで,大きな影響があるとは思えません。実際,津測候所によると,南東の風2~3m/s前後,海上は穏やかで風も弱く,海水浴には絶好の日和でした。ただ,このあたりの海は潮流や安濃川の流れなどによって特有の地形ができ,またその地形が潮流に作用して,とくに潮が満ちるときと引くときには強い潮流が起こるところだったようです。29日付の伊勢新聞によると,

現場付近は漁師,付近の人々の話を総合すると「魔のミオ(深み)」といつて恐れられていたところである。安濃川河口が伊勢湾に向かつてカツと口をあけ,ここから南方へ海岸線が贄崎方面へと伸びている。「魔のミオ」は河口右岸から約百五十米,波打ちぎわから二―三米の地点にあり,潮の満干によつてミオの大きさは多少異るが最大時は最長径約百五十米,幅約五十米,深さは二米以上に及ぶという。これは河口の旧突堤につき当つてまき返す潮流で掘られ,既に戦前から存在していたという。・・・(中略)・・・当日はほとんど波ひとつない海水浴日和だった。しかも波打ちぎわに,三十米の地点の惨事である。「突然恐ろしい早さ《ママ》の潮流に流されたという」―付近の古老や漁師の経験と説明を総合すると,この付近は,潮がみちて来る時と引く時には海岸線に沿つて早い《ママ》潮流が走るという。しかもこの潮流は満ち潮の時には北へ,引き潮の時には南へ流れるという。事故の起こつた時は丁度満ちて来る時であつたという。(二十八日干潮午前午前四時二十五分。満潮十時五十五分)

また,同紙は次のようなエピソードを伝えています。

津署では津海岸一帯に六カ所,危険箇所のあることを指摘,直ちにブイなどの標識設備を施こすよう市観光課,学務課へ申入れたところ,早急には出来難いとの返事に,津署では止むなく二十八日竹を買いこみ,応急施設を施そうしていたところ,事故の連絡を受けたという。

後の裁判では,原因を特定できないまま和解が成立しましたが(もっとも,ほとんどの裁判官は自然科学にはトーシロであり(ついでに世間知らずな連中も多そう),原因を判断しろというのが土台無理な話),細かいことはともかく,特有の地形と潮流によって起こった……と考えるのが妥当でしょう。

この事故は,いわゆる心霊現象としておもしろ半分に取り上げられることがよくあります。“中河原海岸”でググるとその手のサイトがいっぱい引っかかります。何年か前にはフジテレビの番組で「魔海の恐怖」として放送されました。

元ネタは週刊「女性自身」の1963年7月27日号です。この事故に遭って助かったHさんの投稿が「恐怖の手記シリーズ③私は死霊の手から逃れたが… ある水難事件・被害者の恐ろしい体験」として載っています。Hさんは実名で掲載されていますが,いちおう伏せておきます。ちなみに,Hさんの名前は事件当時の新聞に見えるので,少なくとも同姓同名の生徒が事故に遭ったのは事実のようです。

Hさんは同級生Sさんと2人で泳いでいました。

私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが,とつぜん私の右腕にしがみつくと,沖をじっと見つめたまま,真っ青になって,わなわなとふるえています。


……私たちがいる場所から,20~30メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人,吸いこまれるように,波間に姿を消していくのです。


すると,水面をひたひたとゆすりながら,黒いかたまりが,こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは,ハッと息をのみながらも,その正体をじっと見つめました。


黒いかたまりは,間違いなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶりモンペをはいておりました。


……私も魔の手にひかれるまま,海中に沈んでいきました。


しだいにうすれていく意識の中でも,私は自分の足にまとわりついてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を,はっきりと見つづけていました。

なんでも,1945年7月,津市は空爆しか能のない米軍の空襲を受け,多くの犠牲者が出ました。そのとき,火葬しきれなかった遺体の一部を油をかけて焼き,残りの遺体を中河原海岸に埋めたのだそうです。このような非人道的処置を受けた遺体は250体にのぼりました。

この日が7月28日。それからちょうど10年目,その犠牲者の霊が……?!

この話,どこまで本当なんでしょうか。

火葬しきれなかった犠牲者を28日に海岸に埋めたというのは,日本人の倫理観からは考えられず,かりに一時的に埋めたのであればあとで埋葬しなおすはずです。そうでなければ,もう10年も経っているんだし,その間に遺族から抗議があるはずです。

それに,本格的な空襲があったのは28~29日なので,そもそも日付が合いません。28日に埋めたのだとすると,B29の爆撃を受ける前か,受けている最中に遺体を埋めたり焼いたりしたことになります。

1955年7月29日付の伊勢新聞に「現地に観音像を」という見出しの次のような記事があります。

今を去る十年前この日二十八日はB29の焼夷弾爆撃をうけ,津市は焼土と化し多くの犠牲者を出した。……奇しくも火の雨が降つた十年前のこの日この海辺に避難して命拾いをした人々も多かつたその思い出の海が魔の海と化し,悲劇の海になろうとは!

遺体を埋めたり焼いたりしたというのはためにする誰かのデッチ上げでしょう。

ちなみに,心霊スポットを扱った一部のサイトにはこの事故の数年前の同じ日,ところも同じ海岸で幼稚園児十数人が水死する事故があった,と書かれていたりしますが,調べた限りではそのような事故の記録はありません。何年の7月28日とハッキリ書かれたサイトはありませんし,明らかにこれもためにする誰かのデッチ上げでしょう。

雨のバカヤロー!!

↑と,17年前の今日,叫んだ女性歌手がいました。

この日,西武球場で行なわれた渡辺美里のコンサートは,開始から1時間もしないうちに雷のため中止に。このとき,渡辺美里が最後に雨のバカヤロー!!と叫んだと伝えられています。

でも,落ち着いて考えてみるとバカヤローなのは雨ではなくて雷では……?(笑)

参考までに,1989年7月26日09時の天気図と,この日の所沢アメダスの気象データを示します。(降水量,風速の単位はそれぞれmm,m/s)

Image from Gyazo


時   降水量 気温℃   風向   風速
09時     0  25.1    北北西   1
10時     0  25.8    静穏     0
11時     6  25.5    南西     2
12時     7  24.2    西南西   1
13時     0  26.2    南南西   3
14時     0  28.0    南南西   5
15時     0  26.9    南南西   4
16時     0  25.7    南南西   4
17時     0  24.6    北西     1
18時     2  24.5    南東     1
19時     1  23.3    東南東   1
20時    22  23.1    南西     1
21時     2  22.9    南西     2
22時     1  22.8    南       1
23時     0  23.1    南南西   1
24時     0  23.3    東南東   1

ちなみに,天気図にある台風11号は翌27日23時40分ごろに大隅半島に上陸しました。

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[2019/07/26] 画像へのリンクの修正など

吉野家,倒産\(^o^)/

ウソではありません。
1980年の今日,会社更生法の適用を申請し事実上倒産しています。その後どうやって再建したのかは知りません。再建などしなければよかったのに。

まあ,生ゴミのような米国産牛肉を積極的に客に食わせるつもりでいるこんな売国企業は,滅んでしかるべきでしょう。

たたりじゃあ~っ!!

●たたりじゃあ~っ!!

延長八年六月二十六日(ユリウス暦で930年7月24日)のこと,清涼殿の未申の柱の上に落ちた雷は“神火”を発し,大納言藤原清貫の着物に燃え移って焼死させ,また,柱の下に倒れた右中弁平希世も死亡しました。醍醐天皇はショックで寝ついてしまい,7日後に没しました。

これは史上もっとも有名な落雷のひとつです。よく知られているように,この災異は失意のうちにこの世を去った菅原道真のたたりと怖れられました(死んでからずいぶん経っているような気がしますけれど……)。もっとも,より正確にいえば,道真が直接手を下したわけではなく,道真=天満大自在天神の十六万八千いる眷属の中の第三の使者,火雷火気毒王の仕業ということになっています。

ちなみに,天元元年七月二十四日,あの安倍清明の館も道真のピンポイント爆撃から逃れられませんでした。この衝撃の事実?!は,巷の安倍清明本にはあまり書かれていないようです。残念ながら安倍清明による雷神に対する報復があったかどうかはわかりませんが,おそらくやられっぱなしだったのでしょう。もし報復があったのなら,その物語が伝わっているはずですから。ちなみに,『百練抄』という文献では二十三日に雷撃を受けたことになっています。

●寺院への落雷

記録が残りやすいこともあるかもしれませんが,寺院は落雷の記録の多いところです。

日本書紀』によると,天智天皇九年四月三十日(ユリウス暦で670年5月24日)に法隆寺が落雷によって全焼したことになっています。

この落雷では雷が法隆寺のどこに落ちたかは記録にありませんが,お寺にある高い塔は雷の格好の標的です。

今も古都の玄関の象徴としてそびえる高さ55mの東寺(教王護国寺)の五重塔もたびたび落雷に遭っています。『日本気象史料』にあるだけでも,886年,1055年,1270年,1337年,1389年,1436年,1439年,1563年の7回あります(見落としがあるかも)。

現存しない塔では,応永六年(1399年)に完成した高さが109mあったといわれる相国寺の七重大塔は,あまりの高さのために雷神の怒りをかったのか,落雷で(戦火もあったかもしれません)短命に終わった塔です。

応永十年六月三日(ユリウス暦1403年6月22日)に落雷によって焼失,再建中の応永二十三年一月九日(ユリウス暦1416年2月7日)にも落雷で焼失,そして文明二年十月三日(ユリウス暦1470年10月26日)にみたび落雷により焼失し,以後再建されることはありませんでした。ちなみに,最後の焼失については猿による放火という目撃談?!もあるようです。

大坂城

落雷に見舞われたお城としては大坂城が代表的でしょう。

万治三年六月十八日(グレゴリオ暦1660年7月25日),城内の武器庫に落雷して爆発が起こり,死者・行方不明100人あまり,城と町屋1500軒が損壊するという惨事が起こりました。このとき天守閣も傾きました。

5年後の寛文五年一月二日(グレゴリオ暦1665年2月16日),今度は天守閣に落雷して焼失,以後1931年まで266年間,再建されませんでした。

●大蔵省炎上,たたり再び!?

時代は下って「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局に落雷して炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。(大蔵省に落ちたという文献もある)

この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのはなんと「将門公の首塚」のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。ちなみに,平将門菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使うというのも説明はつきます。

ちなみに,2003年9月3日,国会議事堂に落雷がありましたが,残念ながら閉会中でした。

44歳の女子高生事件

2001年06月25日の夕方,東京都世田谷区桜丘4丁目の路上でセーラー服にルーズソックス姿の“16歳の高校1年生”が男に髪を切られる事件が発生しました。

ところが翌26日になって,この“16歳の高校1年生”は実は44歳のババアであることが判明したのです。

ヘタな都市伝説よりよほど怖い事件です。

楽しい?!高波見物

2004年6月21日の9時半ごろ,台風6号室戸市付近に上陸,徳島市付近を通過し,13時過ぎに明石市付近に再上陸。死亡2人,行方不明3人,重軽傷19+99人などの被害を出して去っていきました(消防庁まとめ)。

死亡・不明の詳細は次のようになっています。

  • 6月18日……13時10分頃,東京都神津島村鴎穴の食道岩礁において,釣りに来ていた73歳男性が行方不明
  • 6月19日……19時30分頃,静岡県静岡市内の海岸において,21歳と20歳の男性2名が友人とバーベキューをしていたところ,高波にさらわれ行方不明(6月20日4時35分 20歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認),5時50分 21歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認))
  • 6月20日……13時30分頃,和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜において,19歳男性が友人と打ち際で遊んでいたところ,高波にさらわれ行方不明
  • 6月21日……13時30分頃,和歌山県和歌山市加太の大波止赤灯台付近において,26歳男性が友人と波を見物していたところ,高波にさらわれ行方不明

6月18日の件は不明ですが(最後になっていきなり出てきた不明者なので),あとの3件は似たり寄ったりです。要するに,波を見物に行ってその波にさらわれたという,事故というより自爆です。

●加太海岸での自爆

6月21日に加太海岸で3人組が波にさらわれたときのようすは,ビデオカメラでバッチリ捉えられていました。テレビのナレーションにもありましたが,あの3人組は防波堤で度胸試しのようなことをしていたようです。3人組の「なぁんだ,たいしたことねえじゃねえか」「こんな波,チョロいチョロい」というような声が聞こえてきそうな波が何発か去ったあと,それまでの波とは比べものにならない高波が押し寄せ,アッという間に3人組をのみ込みました。

近くの漁船のそれこそ命がけの救助によって2人は救助されましたが,1人はそのまま外洋に流されたようです。

まあ,あえていわせてもらえばあんなヤツらを助ける必要はないと思いますが,漁師さんにとっては,自分たちの海があんなヤツらに穢されてたまるか,という思いがあったのかもしれません。

●一発大波

海の波は,いろいろな高さの波が混じっています。人間の目に感じる波の高さは,全部の波を高いほうから並べたとき,高いほうから3分の1の平均くらい,といわれています。したがって,人間が感じるよりも高い波が必ず混じっているわけです。

そして,100波に1波はこの1.5倍,1000波に1波はこの2倍の高さになることが統計的に導かれます。これは“一発大波”とよばれます。おおざっぱに,波の周期をかりに6秒とすると,だいたい10分に1波,100分に1波は平均的な波の高さのそれぞれ1.5倍,2倍の波があらわれることになります。

なお,これはあくまで統計上の話なので,一発大波がいつあらわれるかは実際には予測ができません。

●水の流れの怖さ

海岸では一発大波だけが怖いわけではなく,もともと水の流れは想像以上に怖いものです。底がしっかりしている流路でも,3m/s 程度の流れがあれば,30cm ほどの深さで歩行は困難になります(体験済み(笑))。3m/s といえばかなりの急流ですが,2m/s 程度の流れでも深さが 50cm もあればやはり歩行が困難になります。砂浜では砂自体が動きますから,なおさらです。ちなみに,子どもの場合は 1m/s 程度の流れがあれば深さ 30cm 程度でも歩行が困難になります。川や海では一瞬たりとも大人が目を離してはいけないということです。

6月20日の事故は,静岡大学モダンダンス部御一行様(総勢60人)がよせばいいのに静岡市高松の海岸でバーベキュー大会(一種の合コン?)を開き,部長の忠告を無視して波打ち際に遊びに行った数人のうちの1人が,尻もちをついた拍子に胸の高さまで水につかって波に引き込まれ,それを助けようとしたもう1人も波にのまれた……という事故のようです。水の怖さをなめてかかった,起こるべくして起こった事故でしょう。

ちなみに,海岸には離岸流(リップカレント)とよばれるハマるとたとえ北島康介イアン・ソープでも逃げられないかなり恐ろしい流れがありますが,長くなるので,またの機会といたします。

ところで,静岡大学モダンダンス部御一行様は,もちろんちゃんとバーベキューのあとかたづけをして帰ったんでしょうねえ……。

●小学生じゃあるまいに

6月20日の事故を受けて,静岡大の天岸祥光学長は次のようなコメントを発表しています。

今後は部活動の顧問教員などを通じ,危険な状況があれば,それに近づかないよう学生に注意を促したい。

なんか小学生を相手にしているみたいです。

海に行くときは,フジツボの恐怖のような作り話を怖がるよりも,海はもともと怖いところだということをしっかりと肝に銘じてほしいです。などとエラそうなことを書いているσ(^^;)はといえば,別の意味で海は怖いことをよく承知しているので,海には近づかないようにしています(笑)

ちなみに,この台風によって近江八幡市にあるラブホテルの屋根が飛び東海道新幹線の架線を切断,7時間にわたって運休するという珍事も発生しています。

検索すると,このラブホテル,今も営業しているようです。


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大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には「毘盧舍那大佛頭自落在地」とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立しています(笑)

関係ないですが,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した大津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録し,大きな被害が出ています。

稲村ヶ崎の奇跡

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,稲村ヶ崎まで怒濤の勢いで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀(いつどこで準備したんでしょう?)を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は『太平記』に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(とσ(^^;)が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,σ(^^;)的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1498年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

ちなみに,ここでいう津波は正真正銘の(?)津波です。以前は“津波”と“高潮”は区別されていませんでした。例えば,東京・江東区の洲崎神社に「津波警告の碑」(波除碑)がありますが,この津波は高潮のことです。はっきりと区別されるようになったのは1934年の「室戸台風」のころからです。

さて,その1498年の津波ですが,『理科年表』によると,マグニチュード8.2~8.4程度の今でいう「東海地震」に伴って生じたもので(明応東海地震とよばれています),「紀伊から房総の海岸を襲い,伊勢大湊で家屋流失1千戸,溺死5千,伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郡で流死2万6千など」という凄まじい被害を引き起こしています。

大仏殿の流失はその津波による被害のひとつです。それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

ちなみに,この明応東海地震による津波で,日蓮の生家跡に建てられた誕生寺が流されて海に沈みました。しばらくして別の場所に再建されましたが,1703年の「元禄地震」(ひとつ前の関東地震といわれます)による津波で,またもや流されました。というわけで,現在,天津小湊町(鴨川市に合併したみたいです。σ(^^;)が去年の1月に行ったときはまだ天津小湊町だった)にある誕生寺は3代目という話です。「日蓮の生まれ給いしこの御堂」は海の中です(内田康夫『日蓮伝説殺人事件』参照)。

長篠の合戦

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた“戦術革命”ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の「騎馬軍団」も織田鉄砲隊の「三段撃ち」もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在では“ポニー”とよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はいたかもしれませんが,とても「騎馬軍団」などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

桶狭間の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は「敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!」とニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ 2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では,これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!! とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。