メロスは何km走ったか?

“オリンピックの花”マラソンは第1回アテネ五輪のときにはじめて行なわれた競技です。
この競技が次の伝説に基づいてつくられたことは有名な話です。

B.C.490年9月12日,「マラトンの戦い」のとき,
フィリッピデスという伝令がアテネの勝利を伝えるためにマラトンからアテネまで約40kmを走り続け,「われ勝てり」といって息絶えた。



つまり約2500年前の今日のことでした。

ところが,最近になって「マラトンの戦い」は9月12日ではなく8月12日だった――
という説が出てきました。これが事実とすれば,夏の暑い中をひたすら走り続けたわけで,
フィリッピデスの死因はおそらく熱中症だったのでしょう。

このフィリッピデスの絶命話は,あくまで伝説であって史実ではないと今では考えられているようです。
ヘロドトスの逸話集『歴史』にはフィリッピデスという伝令が登場しますが,
マラトンの戦いの直前に援軍を要請するためにアテネからスパルタまでを2日間で走破したことになっています。このいい伝えに基づいてアテネ-
スパルタ間246kmを36時間以内で走破する「スパルタスロン」という競技があります。大会要項は http://www.r-wellness.com/spartathlon/

ところで,ギリシアで走る人といえば,国語の教科書でもおなじみ『走れメロス』。
そのメロスは何kmを走ったのでしょうか? 青空文庫さんから『走れメロス』をダウンロードしてみたら,
作品の書き出しに次のようにありました。

メロスは激怒した。必ず,かの邪智暴虐《じゃちぼうぎゃく》の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。
メロスは,村の牧人である。笛を吹き,羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては,人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し,野を越え山越え,十里はなれた此《こ》のシラクスの市にやって来た。

そして「……処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に,亭主を持たせてやりたいのです。
三日のうちに,私は村で結婚式を挙げさせ,必ず,ここへ帰って来ます」
といってセリヌンティウスを身代わりにして妹の結婚式に往復するのですから,走破距離は3日間で約80kmといったところでしょうか。
フィリッピデスやスパルタスロンと比べると,全然大したことないことがわかります。

秋雨前線と台風

ハードディスクの中にある3冊の辞書で秋雨《あきさめ》をひいてみました。

○新解さん(第5版)……強くはないが続けて降る,冷たい秋の雨。

○スーパー大辞林……秋に降る雨。秋の雨。

○広辞苑(第5版)……秋に降る雨。秋の雨。特に9月から10月にかけての長雨にいう。秋霖。秋黴雨。

新解さんか広辞苑が感覚にもっとも近いです。広辞苑にもあるように,9月から10月ごろの長雨を秋霖《しゅうりん》ともいいます。

秋雨前線

その秋雨を降らせるのが秋雨前線です。なんとなく梅雨前線に似ているので,ちょうど梅雨前線の“出戻り”のように見られがちです。しかし見かけは似ているところがありますが,梅雨前線が中国南部や東南アジアからインド洋,アフリカ東岸まで広がる地球規模の現象の一部なのに対し,秋雨前線は南に後退した太平洋高気圧と大陸やオホーツク海の高気圧との間にできる,地球規模から見ればローカルな?!前線です。裏を返せば日本付近固有の現象ともいえます。

いつごろから秋雨前線とよばれるようになったのかはよくわかりませんが,朝日新聞の1964年8月27日付夕刊に次のような記事が載っているので,このころまでにはある程度認知されていたのでしょう。

「暑さようやく退散するころ」も過ぎて朝夕に秋の気配を感じるころになったが,二十七日の東京は午後一時までの最高気温二十四・六度で,平年よりも五・三度低い秋のお彼岸ごろの涼しさ。日中の気温ではこの夏最低を記録した。

気象庁天気相談所の話では,十四号台風くずれの低気圧が前線をひっぱって通過したあとへ,オホーツク海高気圧が張出して冷たい空気をはこんできたのと,本州南岸に前線が停滞し,厚い雲におおわれているため。そしてこの前線,秋のはじめに現れる“秋雨前線”のはしりではないかという。「変りやすい秋の空」ともなり,夏山シーズンは終りを告げるわけ。

どうして唐突に何の脈絡もなく山の話が出てくるのかは,イマイチよくわかりません。

村を滅ぼした1000mmの雨

一般に,秋雨前線によって降る雨は“しとしと型”のことが多いといわれていますが,もちろんそうでないときもあります。とくに台風などに伴って南から暖かい湿った空気がはいってくると,前線が活発になって大雨や強雨を降らせることがあります。

1965年9月の台風23号,24号,25号はそんな台風でした。

とはいうものの,最初に現われた23号はどちらかというと“風台風”で,高知県安芸市付近に上陸した10日に室戸岬で風速(瞬間ではありません)69.8m/sを観測するなど,各地で暴風が吹き荒れました。上陸後もあまり勢力を落とすことなく高速で四国東部,近畿地方西部を通過し,丹後半島から日本海に抜けました。

台風23号が去ったあと,移動性高気圧におおわれましたが,南から大型の24号とそれに従う鉄砲玉のような“豆台風”25号が北上してくると,秋雨前線が再び活発になりました。

そして13日夕方から西日本で雨が降りはじめ,14日朝には四国東部,紀伊半島南部,近畿地方北西部で大雨になり,昼ごろには大雨の範囲が四国・近畿全域,北陸西部に広がり,この状態が15日まで続きました。この大雨のため,人口6万人の徳島・阿南市では全市がほとんど水に浸かり,有馬街道の土砂崩れのため有馬温泉が一時孤立寸前になるなど各地で被害が相次ぎました。

中でも福井県西谷村では,降りはじめの13日夕方から15日20時まで1037mmの記録的な降水量となりました。この間に1時間最大降水量91mm,10分間最大降水量22mmを記録しています。西谷村の中心部だった中島地区では川の氾濫流や土石流により,全戸数106戸のうち42戸が流失,58戸が倒壊,役場,小学校まで土砂に埋まる被害を受けました。

西谷村はこの壊滅的な被害から立ち直ることができず,翌年の真名川ダム建設決定により,
1970年7月に廃村となりました。

ちなみに,14日09時から15日09時までの24時間に711mmの記録的大雨が降った岐阜県徳山村も,のちに徳山ダム建設のために廃村になっています。この徳山ダムは2007年完成予定だそうです。必要があるのか,それとも土建屋の金儲けだけのためにつくるのかは知りません。

なお,9月10日からの1週間に台風23号による暴風,13~15日の秋雨前線による豪雨,17日の台風24号による大雨と相次いで大きな災害に襲われた福井県では,これを福井県昭和40年9月の三大水害と名づけた――と「気象要覧」にありますが,今ググってもまともにヒットしないところを見ると,とっくの昔に死語になっているのでしょう。

取材車が海に転落

“鉄砲玉”25号が東に飛んでいったあと,“御大”24号が17日夜に愛知県に上陸,地形の影響で中心部が分裂した形で,中部地方から東北地方を縦断したのち,北海道を南岸沿いに進みました。

18日未明,台風24号の取材のために東京・江東区方面に出動していたラジオ関東(現・ラジオ日本)の取材車が,記者やアナウンサーら6人を乗せたまま晴海埠頭から海に転落,全員死亡するという事故が起こりました。光る海面を舗装道路と見間違えたのだろうといわれていますが,全員死亡しているため,真相はわかりません。

このことだけを見ても,ヤラセではない本当の台風中継がいかに危険なものかがわかります。

なお,ちょうど台風24号が通過中の17日夜から18日未明にかけて,関東地方と東北地方で8回の有感地震がありました。最大震度は福島で震度5(強震),郡山,水戸,前橋などで震度4(中震),東京,横浜,仙台などで震度3(弱震)でした。強震,中震,弱震といったことばに時代を感じます。

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暴風雨の中の惨劇その後

1949年9月3日朝8時半ごろ,隅田川に男の死体が浮かびました。男は荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅在住斎藤作次(61)。

どこかで見た名前。そう,台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される | Notenki Express 2014の事件のあと姿を消していた被害者の父親です。

以下,当時の新聞より。

去る一日荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅内露天商斎藤作次(六一)長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で絞殺されていた事件につき警視庁捜査一課では南千住署と協力,前夜から姿を消している父親作次の行方を探していたが三日朝八時半ごろ同都営住宅裏の隅田川に水死体となって発見された検視の結果死後卅時間以上を経過しており,死体の首にはこぶし大の石三個を入れたズツクの鞄が細ひもで縛りつけてあつたので娘を絞殺し無理心中をとげたものとみられる。生活苦から前途を悲観したものらしい(9月4日付読売)

首に娘を絞め殺したのと同じ麻ひもを二重に巻き,その先にズックの手提げカバンに子供の頭大の石三つ,鉄ビンのふたなどを入れてつるし河に飛び込んだらしく遺書はないが最近商売不振のうえ妻を戦災で失くし息子が未復員で父娘の二人暮らしでさびしがつていた点などからあらしの夜発作的に無理心中したものと見られる(9月4日付毎日)

ということで,暴風雨の中の惨事は無理心中ということで幕が引かれました。

ただ,どうも腑に落ちない点があります。作次はどこから隅田川に飛び込んだのでしょうか。少なくとも新聞記事からではわかりません。家のすぐ裏から飛び込んだのだとすると,いくら滑走斜面側とはいえかなり下流に流されるはずです(何かに引っかかったというのなら別ですが)。増水していたことも考えに入れると,かなり上流から飛び込んだと考えざるを得ません。でも,かりに岩淵水門より上流に飛び込んだとすると,荒川放水路(現,荒川)から東京湾に出たはずです。

まあ,今さら考えてもどうにもなりませんが。しかもシロウトの考えることですし。ただ,捜査が尽くされたかどうかは疑問です。

と,2時間サスペンスファンのただの野次馬として書いてみました(笑)

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(2015/08/31(Mon)一部修正)

天罰下る

2003年9月3日,関東地方は激しい雷雨となり,18時半ごろ国会議事堂のシンボルである中央塔の避雷針周辺に落雷がありました。

しかし,残念ながら国会は閉会中……。

国会議事堂への落雷はこれが最初のようです。

政府機関への落雷では,「♪あゝ 一億の民は泣く」と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日,大手町の逓信省航空局への落雷が最も有名でしょう。この落雷によって建物が炎上,火はみるみる広がり,大蔵省などが全焼しました。

この年は奇しくも平将門の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは「将門公の首塚」のすぐ近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。

ちなみに,明治以降,将門公のたたりが爆発したことが少なくとももう1回あります。このときはなんと台風を召還したのですが,これについてはいずれ。

稲村ジェーン

1950年8月30日09時に小笠原の西方海上で確認された熱帯性低気圧(当時の用語)が西北西に進み,9月1日15時に台風となりました。これがジェーン台風です。このときの中心気圧は975mbと推定されています。 台風は発達しながら北西~北北西に進み,2日15時に四国の南方海上に達したときには940mbまで発達しました。

このあたりで進路を北に変え,3日の午前中には室戸岬をかすめ,速度を速めながら正午ごろ神戸市垂水付近に上陸しました。神戸では3日12時10分に964.3mb,最大風速33.4m/s,最大瞬間風速47.6m/sを観測しました。

気圧の低下と吹き寄せる風の影響で,大阪での潮位は満潮面上2.1mに達したと推定され,これに満潮が重なったために,西大阪から兵庫県南東部にかけては一面の海と化しました。

ジェーン台風による被害は,死者336,不明172,負傷10930,住家破損56131,浸水166605などとなっています。

稲村ジェーン(1990年)という映画は,ジェーン台風のときに稲村ヶ崎にやってきたという伝説のビッグウェーブ「稲村ジェーン」を待つ1960年代中ごろの若者たちの夏を描いた映画(らしい)です。私はサーフィンには何の興味もないので,ホントに「稲村ジェーン」なるビッグウェーブがやってきたかどうかは知りませんし,波にも詳しくありませんが,ジェーン台風の発生位置や進路から考えると,とくにいい波がやってきたとは思えません。いい波をもたらしそうな台風なら他にいくらでもあったと思います。伝説はあくまで伝説でしょう。

某著名ミュージシャンが監督を務めたこの映画は,今では伝説ともいえる駄作中の駄作で,やはり天は二物を与えなかったとか,本来ならタダで見せるべきプロモーション映画をカネを取って見せるとはとんでもないとかいわれていました。映画の評判はともかくサントラ盤はバカ売れしたそうなので,某著名ミュージシャンはウッシッシッだったことでしょう。

1953年から女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて,気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で,1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。その後,2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。

なお,ジェーン台風については次もご覧ください。

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※2015/09/03(Thu) リンク先追加

台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される

一昨年はハローキティ誕生30周年とのことで(http://kitty30.com/),各地で(?!)いろいろなイベントが行なわれたらしいです。見かけによらず意外と年とっているんですね(笑)

そのハローキティ,今でこそみんなに愛されるキャラクターになっていますが,その前世は恐ろしい台風だったという衝撃の事実(?!)をご存じでしょうか。

ハローキティが誕生する25年前の1949年8月28日,マーシャル群島北方のマーカス島近海で台風が発生し,キティと命名されました。

キティはその後西北西に進み,30日21時には鳥島の東方約200kmの海上に達し,ここで進路を北西に変え,31日10時ごろ八丈島を通過しました。このとき八丈島では約1時間にわたって眼を観測,また最低気圧957.3mb,最大風速33.2m/s,最大瞬間風速47.2m/sを記録しました。

そして17時ごろ針路を北に転じ,速度を速めながら19時すぎに小田原の西に上陸しました。このときの中心気圧は960mbと推定されています。その後東京の西部,熊谷付近を通過して,二百十日の9月1日00時には日本海に抜けて温帯低気圧になりました。

Image from Gyazo

キティの通過が満潮時と重なったため,東京の潮位は3.15mを記録するなど,東京湾では1917年以来の高潮に見舞われました。このため江東区の南砂町では約5000人が孤立,また横浜港では船舶の沈没・流出が134隻に達するなど,開港以来の惨状を呈しました。

雨は総量としては少なかったのですが,山間部の東および北東斜面で比較的短時間に多量に降ったところがありました。群馬県の勢多郡東村沢入地区では土石流によって31人が犠牲になりました。また桐生市では渡良瀬川の堤防が決壊し,30人が死亡または不明になりました。

キティ台風による被害は死者不明160,負傷479,破損住家17203,浸水144060,船舶2907に及びました。

ところで,翌2日の新聞に気になる事件の記事が載っています。

一日朝九時ごろ荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅止宿,露天商斎藤作次(六一)さん長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で黒のモンペ姿のままうつ伏せとなり絞殺されているのを隣家の石井商二(五七)さんらが発見,南千住署汐路橋派出所に届け出た……犯行時刻は同地一帯が浸水のため付近の学校に避難した午後九時半過ぎらしく室内は台風準備がキチンとされ紛失物も暴行された形跡もないが卅一日夜まで登美子さんと一緒にいた父作次さんの姿が見えぬのでその行方を探している
(9月2日付読売)

現場の自宅は台風で水びたし,ガラス戸が壊れ家具も散乱していた。(9月2日付朝日)

要するに,荒川区南千住で1日09時ごろ,台風で水びたし,ガラス戸も壊れている住宅の中から,若い女性の絞殺死体が発見されたというのです。しかも父親は行方不明。犯行はキティ台風の暴風雨の最中に行なわれたらしい……。

被害者の女性は汐路小町とよばれる美人だったそうです。

この事件は解決したのでしょうか。気になります。気になるその後については暴風雨の中の惨劇その後 | Notenki Express 2014をご覧ください。

このキティ台風のように,敗戦直後のある時期,細かくいえば1947年から1952年にかけて,台風には英語の女性名がつけられていました。最初に女性名がついたのは1947年の3番目の台風で,キャロルCarolでした。そして,この年に東京の下町を水没させたカスリーン台風によって,この女性名シリーズが一般に認知されたようです。

カスリーン台風の後も,毎年のようにアイオン(1948),デラ(1949),上で紹介したキティ(1949),そしてジェーン(1950)などがやってきて大きな被害をもたらしました。

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[2015/08/31(Mon)] 一部修正
[2019/08/31(Sat)] 台風の経路図追加

南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる

白虎隊を知っている人ってどのくらいいるのでしょうか。福島県生まれ(会津生まれではありませんが)
の私は子どものころから不正確ながらも知っていましたけれど,全国的な知名度はどの程度なのでしょうか。その昔年末ドラマにもなりましたが,
当時若者だった白虎隊士も,いまではいいオッサンになっています(笑)

白虎隊を『大辞林』で引くと,次のように書いてあります。(ちなみに『広辞苑』に書いてあるのはかなりデタラメ)

1868年,維新政府軍の来襲を迎えた会津藩が,兵制改革の一環として一六,七歳の藩士の子弟をもって編成した少年隊。
飯盛山における隊士二〇名の自刃は,会津藩の悲劇を象徴する事件となった。

つけ加えると,20名のうち1名は命を取りとめました。また,このときの20名が白虎隊のすべてではなく,
彼らは白虎隊の中の士中二番隊(隊士数37名)に属していました。

さて,前置きが長くなりましたが,新政府軍を迎え撃つため白虎士中二番隊が出陣したのは慶応四年八月二十二日
(現在の暦で1868年10月7日)午後のことでした。戦闘は膠着状態のまま夜になり,
深夜になって白虎士中二番隊は新政府軍を挟撃しようと移動をはじめましたが,
このときに食料を調達しにいった隊長の日向内記とはぐれてしまい,その後のいきさつには不明な点があるものの,
要するに城を枕に討ち死にしようと鶴ヶ城へ帰城しようとします。

ぬかるみや冷たい水の流れる弁天洞など困難な行軍の末に城から2.8kmほどの飯盛山に辿りついたのは,
翌二十三日午後2時ごろのことでした。そこから城を眺めると,城下からは紅蓮の炎が上がり,城は黒煙に包まれているように見えました。

鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙をのんで且彷徨

20人はもはやこれまでと自分で喉を突いたり互いに刺し違えたりして自刃しました。

宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃る

その中の1人が奇跡的に命を取りとめたことは前に書いたとおりです。

しかし,名城鶴ヶ城はこのときはまだびくともしていませんでした。このあと1か月もちこたえます。ただ,
城下に火の手が上がっていたのは事実で,彼らには城がこの炎に包まれているように見えたようです。

一方,ちょうどこのころ,台風が太平洋岸を北上中でした。十九日に仙台に向けて品川を出港した榎本武揚の艦隊が,
二十一日の夜半から暴風雨に遭い,大きな損害を出しています。

二十二日の会津地方は台風の少なくとも強風域にはいっていたようです。
白虎士中二番隊は空腹と過度の緊張に加え激しい風雨の中での行動を強いられることになり,
飯盛山に辿りついたときには疲労も極限に達していたことでしょう。

キャンプ中の中州に濁流 9人死亡

川の中州でキャンプしていたところを増水によって流された……という事故としては,1999年8月14日に起こった玄倉川での事故がDQNの川流れとして有名です。しかし,いまからちょうど40年前の1966年8月14日,同じような事故が宮崎県の境川で起こりました。

宮崎市立青島中学校では8月12日から14日の予定で,地区ごとの生徒会がそれぞれ校外活動を行なうことになっており,青島七区会は山之口町営青井岳キャンプ場でキャンプを行なう予定を立てていました。メンバーは,生徒女子9人,男子2人,引率の教師2人の総勢13人。

12日にさっそくテントで泊まるつもりでしたが(キャンプに来たのだから当然といえば当然),貸しテントに余裕がなかったため(このあたりからすでに計画に齟齬が生じている?),この日は近くの山之口中学天神分校で1泊することになりました。

13日には貸しテントに余裕ができたのと,どうしてもテントで寝泊まりしたいという生徒の希望もあり,テントを張ることになりますが,なんと生徒が希望するまま川の中州に張ってしまったのでした。このとき,キャンプ場の管理人は悪天候を警告しましたが,教師は2人とも聞き入れませんでした。ちなみに,川の中州はキャンプ場の管理外でした。

このころ,“弱い熱帯低気圧”(死語)が沖縄付近をゆっくりと北上していて,14日未明には台風13号になりました。この影響で,紀伊半島から西の太平洋側と九州では断続的に強い雨が降っており,国鉄日豊線や日南線が不通になるなどの被害が出ていました。宮崎地方気象台では13日10時30分に大雨に関する情報を出しています。

14日6時半ごろ,教師の1人が目を覚ましたときにはテントの足もとまで水が来ていました。危険を察知したこの教師は,ロープを対岸に投げ,そのロープを伝って救援を求めに行きました1

救援隊が駆けつけ,中州の12人にロープを投げましたがうまくいかず,「ロープをつかんでからだに巻け」と叫んでも濁流にかき消されました。当時はレスキュー隊のような高度に訓練された組織はなかったので,救援隊といってもできることは限られていました。

9時30分ごろ,中州に残った12人はいよいよ危なくなり,テントを浮き袋がわりにして川を渡ろうとしましたが,すぐに濁流にもまれ,男子2人と教師1人は岸にたどり着き,女子1人が近くの岩にしがみつき,女子8人が流されました。

結局,岸に泳ぎ着いた男子2人と岩にしがみついた女子1人のみが助かり,流された女子8人と,いったんは岸にたどり着いたものの再び濁流に戻っていった教師1人の合わせて9人は帰らぬ人となりました。

1966年当時から川の中州でのキャンプは危ないという認識はあったようです。しかも大雨による各地の被害が報じられているのにキャンプを強行したというだけでなく,あろうことか中州にテントを張ったということがこの事故の原因であることは明らかであり,100%引率した教師の責任であるといっても過言ではないでしょう。

しかし,業務上過失致死を問われた裁判でなぜか無罪になりました。あまり信用できる資料ではないですが,「全く異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実に基因するものである」というのがその理由です。何をもって“異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実”とするのかこれだけではわかりませんが,仮に同じ事故がいま起こったとすると,おそらく有罪になります。当時よりも気象情報は簡単に入手できますし,安全に対して責任ある立場の人間が無知を理由に免罪されてはいけません。

それにしても,この事故から33年も経った1999年の同じ日に再び同じような事故が注目されるとは,一部のDQNな人間の所行とはいえ,つくづく人間って何の進歩もない存在だと知らされます。

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  1. 新聞によって救援要請への行きかたが違います。 

DQNの川流れ

前回の日記で名前だけ出てきたあの事故ですが,もう7年も前ですからカビが生えているかも知れません。
でも,次の動画を見ると思い出すかも知れません。

http://www.youtube.com/watch?v=-BaPS5p2CnY

当時のニュースネットから引用します。

   北上する熱帯低気圧の影響で、関東地方は13日夜から14日にかけて激しい雨が降り、各地に大きな被害をもたらした。
  神奈川県山北町では、玄倉(くろくら)川の川岸でキャンプ中だった子ども5人を含む18人が増水で中州に取り残された。
  14日朝から現地の消防組合などが出動したが、救出作業中に鉄砲水で全員が流された。このうち4人は自力で対岸に泳ぎ着くなどしたが、
  同日夜になっても14人が行方不明になっている。県は不明者の捜索、救助のため、自衛隊に災害派遣を要請した。神奈川県では、
  藤野町の道志川でもキャンプ中の男性2人が行方不明になっている。厚木市相模川河川敷でも3人が中州に孤立したが、
  海上自衛隊のヘリに救助された。多摩川の増水で、東京都世田谷区や川崎市幸区では一部住民に避難勧告が出された。
 
   神奈川県警松田署などによると、玄倉川でキャンプをしていたのは、横浜市金沢区のスクラップ会社「富士繁(ふじしげ)」
  の社員やその家族ら。一行は13日に21人で、玄倉発電所の上流約100メートルの川岸でテントを張ってキャンプを始めたが、
  うち3人はその後引き揚げたという。
 
   雨が激しくなった午後8時過ぎ、玄倉発電所を管理する県企業庁の見回り職員が一行に避難を勧めたが、断られたという。
  松田署も避難を呼びかけていた。
 
   14日午前8時過ぎ、発電所職員が、中州になり、孤立している18人を発見。午前9時過ぎ、
  通報を受けた足柄上消防組合の6人が現場に到着したが、増水で中州は覆われていた。川岸からロープを渡して救助を試みたが、
  11時40分ごろ、鉄砲水があり、18人が次々と川に流された。
 
   1歳の男児1人はすぐに救出され、さらに夕方になって、子ども1人を含む3人が対岸にいるのが確認された。
  残る14人の行方はわかっていない。(asahi.com)

  1999081409

ちなみに,
この事故の現地からのレポートでなんたら予報士の資格をもつと思われるレポーターが1時間に38mm程度の雨に対し力を込めて
“記録的な大雨”などといっていましたが,この程度の雨ならいつどこで降ってもおかしくありません。
どういうつもりのレポートだったか知りませんが,あのような増水は日常的に起こることを強調すべきだったでしょう。実際,
地元の人の話によると年に数回は起こっているとのことでした。

ところで,DQNの川流れには先例があります。ちょうど40年前に起こった事故です。


http://notenkiexpress.blog95.fc2.com/blog-entry-334.html

DQNな教師に引率された生徒たちの悲劇です。

海をまもる36人の天使

海をまもる36人の天使』は昨日のhttp://blog.notenki.net/2006/07/post_8e2c.htmlの事故を扱った少女マンガです。丘けい子作。1967年に週刊「マーガレット」に連載された作品で,1968年にコミックスになっています。

作品を読めるサイトがあります。

http://okworld.sakura.ne.jp/rensai/index.shtml

この作品はあくまでフィクションで設定はかなり変えてあり,事故に遭ったのは臨海学校に来ていた市立第一小学校の6年生ということになっています。さらに,犠牲者の人数は同じですが,その中になぜか男子生徒1人が含まれています。

主人公は,臨海学校の事実上の現場責任者だった菅原進一という体育主任。バタフライの選手だったそうです。律子という(苗字は不明。σ(^^;)の読み落としか?)フィアンセがいます。

律子の妹・博子はかおる(苗字は不明。これもσ(^^;)の読み落としか?),高橋美樹・輝美の双子の姉妹と仲良し4人組で,この臨海学校に参加していました。

臨海学校最後の日,安全なはずの海岸を突然高波が襲い,35人の女子生徒となぜか1人の男子生徒が犠牲になります。その中には博子と高橋美樹が含まれていました。ちなみに,かおるは母親の形見のロケットを預けるために海から上がっていて,難を逃れました。

事実上の現場責任者だった菅原進一は業務上(重)過失致死を問われ,裁判にかけられます。一審では弁護人の未熟もあり懲役11年(上のサイトで読める版は懲役11年になっていますが,σ(^^;)が国会図書館で見た版は禁固3年になっていました。版によって異なる理由は不明です)の実刑判決がいいわたされますが,8年に及ぶ裁判の末,無罪を勝ち取ることになります。

進一はかなり生徒に慕われていて人望もあり,もともと表向きにはそれほど非難されておらず(かなり現実離れしていますが),激しく非難していたのは唯一犠牲となった男子生徒の母親くらいでした。しかし,この母親も最後には味方とまではいかなくても,理解を示すようになります。

長い裁判の間,進一を支援していたのは,フィアンセの律子と受け持っていた生徒たち,とくに仲良し4人組の輝美,かおるたちでした。律子は進一と両親の板挟みになっていましたが,両親も途中からは折れる形になります。事故当時小学生だった生徒たちは,やがて中学生となり,裁判が終わるころにはいい若者,ロマンスも生まれはじめていました。

実際の事故の現場には教師が23人いたそうですが,このマンガのモデルになった教師がいたかどうかは知りません。逆に,体育主任と教頭が8月9日,証拠隠滅のおそれありとして逮捕されています。体育主任というところが皮肉です。