1996年10月6日早朝,栃木県足尾町の通称「餅ヶ瀬渓谷」で,グリーン製薬のプロパー田口信雄の他殺死体が発見されました。
(内田康夫『遺骨』)
雨のF1日本GP
雨の中,鈴鹿での最後のF1日本GPのフリー走行がはじまりました。
雨のF1日本GPと聞いて1976年を思い出す人は,そうとう年期のはいった人だと思います(早い話が年寄り)。珍しもの好きのσ(^^;)はテレビでは見ていたはずですが,当時自動車レースにそれほど興味があったわけではないので,ほとんど記憶にありません。歴史で学んだクチです。
この年はJ.ハント(マクラーレン)と“不死身”のN.ラウダ(フェラーリ)がチャンピオンの座を争っており,ラウダが3点リードして最終戦の日本GP(富士スピードウェイ)を迎えました。
10月24日の決勝レースは雨ともやのため1時間40分遅れのスタート。2周目にラウダが早くもリタイア。「こんな危険な状態の中では走れない」と自らレースを辞めたもので,“勇気あるリタイア”ともいわれていますが,ホントのところはハントの自滅待ちか,この年雨のニュルブルクリンクで瀕死の重傷を負っていたので雨が恐くて逃げ出した……といったところでしょう。まあ,真実を知るのは本人のみ。
レースはM.アンドレッティ(ロータス)が優勝,ハントは3位にはいって4点を獲得し,逆転でチャンピオンになりました。
この日の天気図は次のとおりです。
翌1977年も富士スピードウェイでF1日本GPが開催されましたが,G.ビルヌーブが観客席に突っ込んで2人死亡するという事故が起こったこともあり,日本での次のF1開催まで10年待つことになります。そしてこの事故からちょうど30年の2007年,富士にF1が戻ってくることになっています。
松川ダムにバラバラ死体
10月6日,長野県の松川ダムで釣り客がバラバラ死体を発見しました。(内田康夫『死者の木霊』)
えり子と共に
今日の事件から――。
AD1949/10/05 NHK連続放送劇「えり子と共に」放送開始
とあります。この日にはじまり1952年4月3日まで放送されました。あの「君の名は」の前に放送されていたラジオドラマです。
「えり子と共に」は歴史で学んだだけで,どのようなストーリーだったのか,ほとんどわかりません。聞くところによると,「君の名は」のような波瀾万丈の物語ではなく,新しい時代を生きる女性を描いたドラマだったようです。最終回の最後の部分だけ何かの番組で聞いたことがありますが,たしか結婚するところで終わっていました。のちに映画にもなったようですが,ラジオドラマとはちょっとストーリーが違うようです。
ところで,「えり子と共に」自体はほとんど忘れ去られているドラマですが,燦然と輝く挿入歌があります。「雪の降る街を」です。
「えり子と共に」のある回のリハーサル後に,どうやら時間が余りそうだということで,急遽つくられた曲だそうです(作詞:内村直也=原作者,作曲:中田喜直)。どのような場面で流れたのかはわかりませんし(えり子さんがスキーに行くという場面ではなさそうです),誰が歌ったのかもわかりません。しかも1番の歌詞しかありませんでした。
ところが,意外に好評だったため,2番,3番をつけ足して,シャンソン歌手の高英男さんが歌い,1953年2月にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されました。
「ラジオ歌謡」というのは“家族みんなで歌えるホームソングをつくる”という意図で1946年5月から1962年3月までNHKラジオで放送された歌です。「雪の降る街を」のほかにも「あざみの歌」「夏の思い出」「白い花の咲く頃」「さくら貝の歌」などなど名曲が目白押しです。なんでも,「お書き取りのご用意はよろしいでしょうか」のアナウンスで演奏がはじまったそうです。最近の「新ラジオ歌謡」にはもちろんこのようなアナウンスはありません。
「雪の降る街を」の歌詞は,作詞者の内村直也さんがかつて訪れたことのあるいくつかの雪の降る街をイメージしてつくったもので,特定のモデルはないそうです。
新宿のホテルで殺人
10月5日,新宿の京西ホテルで陶芸研究家の刺殺死体が発見されました。死体には黄色い砂がかけられていました。(内田康夫
『佐用姫伝説殺人事件』)
大雨に関する全般気象情報 第1号
津軽竜飛岬風の殺意
テレビの番組表から火曜サスペンス劇場が消えて1年たちました。
火曜サスペンス劇場の作品からなんでもいいから印象の強い作品をひとつだけ選べといわれたら,たぶん「津軽竜飛岬風の殺意」を選ぶと思います。好きというわけではないんですが,かなり強い印象が残っている作品です。
サブタイトルは「吹き荒れる西高東低の気圧配置はかなしい女の季節風」。1991年2月12日に放送されました。
“凶器”は風です。竜飛岬に吹く局地的な突風(前線の通過か季節風の吹き出しに伴うもののようです)を場所も時刻もほとんど誤差なく予測して,その時刻に殺したい相手を竜飛岬におびき出し,転落死させるのです。もちろん自分は別な場所にいるので,アリバイは鉄ペキです。σ(^^;)の知る限り,気象現象を積極的に凶器に使う唯一のサスペンスドラマです。
ドラマ中に出てくる用語はかなりメチャクチャです。とくにクライマックスではほとんど意味不明になります。もっとも,NHKの朝ドラ「まんてん」よりはマシでしたが。
また,突風の予測のもとになる杉本圭吾氏の論文「竜飛岬における突風のメカニズム」の2ページ目はなんと,「天気図日記」だったりします。こんな論文σ(^^;)は見たことがありません(笑) さらに,使われている「天気図日記」は1988年10月のもので,これでは論文が書かれた時期についてつじつまが合わなくなります。というのは,この論文は14,5年前の学生時代に書かれたことになっているからです。どう考えても1988年の天気図日記は使えません。
小道具さん,しっかりしてよ~(笑)
気象観測装置も,リアルタイムで衛星雲画像を映し出すコンピューターが登場しています。現在でも実用化されていない技術です。近い将来でもムリでしょう。
初の京大生プロ棋士誕生
1985年10月04日, 奨励会三段リーグ,森山史郎が雨宮秋彦を破り四段に昇段。初の京大生プロ棋士が誕生しました。(元ネタはナイショ(笑))
真説 10月10日のなぞ
まだ先ですが,10月10日の話です。さまようよろいとなる前はこの日が「体育の日」で,
1964年の東京五輪の開会式を記念した日だということも,もう忘れられつつあります。
東京五輪の開会式が10月10日に決まった理由についてキチンと調べた人はほとんどいないようで,
10月10日が晴れの特異日だからとする俗説がいまだにはびこっていますが,ちょっと調べるだけで面白いことがわかります。
開会式が10月10日になったのは,きわめて簡単にいうと,単に9日の次の日だったからです(爆)
まず,1961年6月のアテネでのIOC総会で,東京五輪の日程は大枠として10/11開会式,10/12休み,
10/13競技開始と決まります。
そして,1962年5月,日本の東京オリンピック組織委員会は具体的な競技の日程などと照らし合わせて,日程を10/09開会式,
10/10休み,10/11競技開始と決定し,6月にモスクワで開かれるIOC総会に提出します。
このように,10月10日開会式という案はもともと存在しなかったのです。
したがって,晴れの特異日だから10月10日になったという話はまったくのデタラメであることがわかります。
東京五輪の日程は1962年6月のモスクワでのIOC総会で最終的に決まるのですが,そのとき10日の休みは要らないという話になり,
10日が開会式と決定したのです。
ちなみに,東京五輪の開催が10月に決まるまではすったもんだの連続で,なかったのは9月案くらいで,5月案,6月案,7月案,
8月案が出ては消え出ては消えしてなかなか面白いのですが,長くなるので別の機会に。
なお,最近では10月10日は晴れることが多いのは事実ですが(ただし,
アンハッピーマンデー化で体育の日の座を奪われてからはスネたのか,晴れが少なくなっています),
東京五輪が計画された1960年代前半まではそれほど晴れは多くはありませんでした。
藤原効果と足尾台風
藤原効果とは
今年の8月に現われた台風10号と11号の間にも見られましたが,2個の台風が存在する場合に,中間のある点(重心)のまわりを反時計まわりに回転する相対運動を藤原効果といいます。経験的には台風間の距離が800km以内になるとはたらくといわれています。台風間ばかりではなく,例えば台風と上層寒冷低気圧(UCL)との間でも同じような現象が起こります。
藤原効果の“藤原”というのは,かつて中央気象台の台長(今の気象庁長官にあたるらしい)を勤めた藤原咲平博士のことです。ちょっと古い本には“お天気博士として有名な”とか書いてあったりしますけれど,確かに昔は有名人だったようですが,今となっては過去の人にすぎません。
島田守家『暴風・台風びっくり小事典』によると,藤原効果あるいは藤原の効果あるいはFujihwara effectということばをはじめて使ったのは,敗戦直後に日本に来ていた米軍の気象技術者ではないか,ということです。
また,同書によると,このことばが日本に広まったのは,1964年の台風14号と16号がきっかけだったようです。
1902年9月27日~29日の台風
記録上,藤原効果のもっとも古いと思われる例です。
「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。
二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ
このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに,当時はまだ颱風=台風ということばは登場していません。
ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,
葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ
呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,
房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ
というように,やはり東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。
この台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」(≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。
中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると,
100km/hというとんでもない速さだったことになります。
銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが,これは64m/sではなく44.9m/sです。現在でも歴代2位の風速です。また,筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,これも72m/sになります。
この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。さらに,新聞によると,各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。
足尾台風と足尾銅山鉱毒事件
中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。
当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山も大きな被害を受けましたが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,有名な田中正造前代議士による明治天皇への直訴事件は,前年1901年12月10日のことです。
ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

