5月の“五月雨”

●五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として“五月晴れ”から。

“さつきばれ”を『スーパー大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に「[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること」とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

σ(^^;)自身は『スーパー大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません(上に挙げられている例句を除く(笑))。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。そもそも,(2)の意味の“五月晴れ”っていったいどのくらい一般的に使われたことばなんでしょう? かりにホントによく使われたことばなら,そう簡単に意味が変わるとも思えませんが,そのあたりはどうなんでしょうねえ。

ちなみに,今の時期に「さわやかな“五月晴れ”」というのは(今年の5月はそんな日は少ないですが),俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず,“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,σ(^^;)は俳句には興味がないのでどうでもいいですが。

●五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが“五月雨《さみだれ》”です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いて,めったに使われなくなりました。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでないσ(^^;)も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

だから何なの? と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を“五月川《さつきがわ》”とよぶそうです。

●5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月29日ですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常“梅雨のはしり”あるいは“はしり梅雨”とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁が「例年より約十日早く〝はしり梅雨〟にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される」という向こう1か月の予報を発表しています。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょうね。まあ,号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州と北陸は28~30日,四国と近畿は特定できない――となりました。

こうなると,どこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には,“気違い梅雨前線”という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。

濃霧の紫雲丸衝突事故

51年前の今日,国鉄宇高連絡船「第八紫雲丸」が貨物船「第三宇高丸」と衝突,168人が犠牲となる事故が起こりました。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは6時40分でした。そして16分後の6時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

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事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,σ(^^;)は疎いので,これ以上は触れません。このあたりのことについては萩原幹生『紫雲丸はなぜ沈んだか』(成山堂書店)が詳しいです。

犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒でした(そのうち81人が女生徒)。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらったバッグや水筒,家族のために自分で買ったおみやげがきっとかけがえのないものに思えたのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったものと思います。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

ところで,当時の天気図を見ると,国際情勢から,中国の気象データがすべて空白になっています。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

メイストーム・デー

まだ先ですが,5月13日はメイストーム・デーです。とはいっても,この日にメイストームに関係のある何かが起こったというわけではありません。

聞くところによると,この日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期――というような意味合いのようです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

メイストーム・デーの嵐を乗り切ると,6月12日は「恋人の日」,そのあとには7月7日の「ラブスターズデー」(サマーラバーズデー,サマーバレンタインデーともいう)も控えています。ちなみに,メイストーム・デーの翌日の5月14日はグリーン・デーだそうですが,ほとんど広まってはいないようです。ついでに,4月14日のオレンジ・デーもほとんど知られていませんね。

というわけでメイストームです。May Storm なのでしょうが[ついでにドイツ語では Maisturm],もちろん和製英語[和製独語?!]です。モノによって多少意味するところが違うのですが,比較的新しい『気象科学事典』には「4月後半から5月にかけて,日本海や北日本方面で発達する低気圧,またはそれに伴う暴風雨」とあります。

きっかけとなったのは,1954年5月8日09時に黄海に発生した1008mbの低気圧です。この低気圧は9日09時に朝鮮半島の東に進み 988mb。その後,北海道を横断し,10日09時にエトロフ島の北に進んだときは 950mb まで発達しました。北海道を通過した低気圧としては,1934年3月の「函館風」と並んで観測史上もっとも強いもののひとつでした。

この低気圧によって海難事故が相次ぎ,数字は資料によって異なりますが,『理科年表』によると,死者31,不明330,住家全半壊12359,船舶の沈没・流失・破損348などの大惨事となりました。

当時は日本で数値予報の研究がスタートしたばかりのころでした。その研究グループがモデルとして研究したのがこの1954年5月の低気圧で,これに「メイストーム」と名づけたのがメイストームの起源とされています。

メイストームが新聞に初登場したのは,σ(^^;)が調べた限りでは1961年5月29日付朝日新聞夕刊の天気図の解説欄です。これはいわゆる “台風くずれ”(死語)の低気圧が再発達しながら日本海を進んだもので,このとき強風とフェーン現象による乾燥によって「三陸大火」が発生し,1万人以上が被災しました。

ちなみに,この“台風くずれ”(死語)の低気圧が東シナ海にあってまだ台風4号だった5月28日には東京競馬場で第28回日本ダービーが行なわれました。好天に恵まれ,甲州街道は午前中から車の列でマヒ状態。入場者は8万4千人の新記録となりました。

勝ったのはハクシヨウ,2着はハナ差でメジロオー。ダービー史上もっとも僅差の決着といわれています。

一般の記事としては,1970年5月26日付朝日新聞夕刊に「“特急低気圧”が通過 東日本にメイストーム」とあるのが最初だと思います。ただし,朝日以外は調べていません。

1979年5月10日付朝日新聞朝刊には次のような変則?!メイストームも登場します。

記録のメイストーム 王,快気祝いアーチ 一気に3打席連続

なお,メイストームは賞味期限つきの現象なので,毎年発生するとは限りません。どこまでの低気圧をメイストームとするかにもよりますが,発生しない年のほうが多いです。

17年前のサンマリノGP

今日,イタリアのイモラ・サーキットでF1サンマリノGPの決勝レースが行なわれますが,17年前の日付も同じ1989年4月23日のサンマリノGPで衝撃的な事故が起こりました。

決勝4周目の高速コーナータンブレロでゲルハルト・ベルガーのフェラーリがコースアウト,約270km/hで壁に激突して炎上しました。

しかし幸いなことに,その十数秒後にはレスキュー隊が現場に到着,素早い救出活動で,ベルガーは奇跡的に軽いやけどですみました。

σ(^^;)はパソコン通信(時代を感じるこのことば(笑))で結果を知ってからテレビを見ていましたが,それでも車が一気に燃え上がったのには目を疑ったものです。実況の大川アナと解説の今宮さんは声がふるえています。

それにしてもこのときの実況が古タチでなくてよかった。

ところで,このレースはベルガーの炎上のために2ヒート制になったことで大きな火種を残すことになります。

2回目のスタートについてプロストがセナを協定違反だと批判,それまでは表面的には友好関係を保っていたふたりの不仲が決定的になりました。

国分寺ザリン事件

1995年4月20日,「国分寺ザリン事件」が起こりました。地下鉄サリン事件のちょうど1か月後です。

こんな事件誰も知らないと思いますので,当時の朝日新聞より――

二十日夜,東京都国分寺市のJR中央線国分寺駅で不審物騒ぎがあり,列車二本の運転が打ち切られるなどして乗客約六千人に影響が出た。
午後十時半ごろ,東京発豊田行き下り普通列車(十両編成)の最後尾車両に不審物があるのを乗客がみつけ,車掌が警視庁小金井署に届けた。同署の調べでは,座席下に白い紙袋が置いてあり,「これはザリンです」と書かれていた。中にはビニールにくるんだ酒のビンが入っていた。同署はビンの中身について調べているが,においもしないことから悪質ないたずらとみている。
また,三十分後に同駅についた東京発立川行き下り普通列車(十両編成)の4号車内でも,不審な紙包みが見つかった。同署で調べたところ,ピーナッツとイチゴをわら半紙に包んだものだった。

ちなみに,σ(^^;)はあとに出てくるほうの事件のとなりの車両に乗っていました(笑) まわりは大騒ぎでしたが,σ(^^;)はどうせいたずらだと思って,車両から追い出されるまでずうっと瞑想にふけっていました。

皐月賞と早慶レガッタ

16日にはクラシック三冠ロードの一冠目,皐月賞が行なわれます。

皐月賞と早慶レガッタが同じ日に行なわれたのは次のとおりです。

優勝校 1着馬 馬番 人気
1939 4 29 早大 ロツクパーク 2 7
1947 5 11 慶大 トキツカゼ 2 1
1965 4 18 早大 チトセオー 6 14 8
1966 4 17 早大 ニホンピローエース 2 6 2
1969 4 20 慶大 ワイルドモア 1 1 1
1970 4 12 早大 タニノムーティエ 8 11 1
1973 4 15 早大 ハイセイコー 4 7 1
1977 4 17 早大 ハードバージ 2 3 8
1978 4 16 慶大 ファンタスト 3 3 3
1979 4 15 早大 ビンゴガルー 2 3 3
1983 4 17 慶大 ミスターシービー 5 12 1
1986 4 13 同着 ダイナコスモス 8 19 5
1990 4 15 早大 ハクタイセイ 7 15 3
1992 4 19 早大 ミホノブルボン 2 4 1
1994 4 17 慶大 ナリタブライアン 1 1 1
1995 4 16 慶大 ジェニュイン 3 6 3
1998 4 19 早大 セイウンスカイ 2 3 2
1999 4 18 慶大 テイエムオペラオー 6 12 5
2000 4 16 慶大 エアシャカール 8 16 2
2003 4 20 早大 ネオユニヴァース 2 3 1
2004 4 18 慶大 ダイワメジャー 7 14 10
2005 4 17 慶大 ディープインパクト 7 14 1

当然といえば当然ですが,傾向のようなものはないですね。

ここでは1992年を取り上げましょう。

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1992年4月19日,第52回皐月賞寒冷前線の通過により,船橋アメダスでは,気温が12時18.9℃から13時12.6℃と6.3℃も降下。風向が南南西から西北西に変わり,雨が降り出しました。しかし,馬場状態の発表は良のまま。今はなき大川慶次郎さんはテレビ中継の中で「ことばがあれば‘やや良’というとこ(ろ)なんでしょうけどね,(リャイアンッ!!)」といっています。

レースはミホノブルボンのひとり舞台でした。

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隅田川にもどった早慶レガッタ

春のうららといえば今は高知競馬場が有名ですが(というのは2年前までの話で,今では完全に忘れられた存在(笑)),大昔は隅田川でした。その隅田川の春の風物詩といえばやはり「早慶レガッタ」。

早慶レガッタは1905年に隅田川ではじまり,敗戦後,1947年に復活したときも隅田川でした。1957年の“あらしのボートレース”も隅田川。このように隅田川で多く行なわれていましたが,川の汚染や首都高の向島線の架設工事などによって,隅田川はボートレースのできる環境ではなくなり,1961年を最後に隅田川を離れました。江戸時代から続く夏の風物詩「両国花火大会」も1961年で廃止になっています。

時は過ぎ,1970年代の後半になると,汚染対策も若干進んで隅田川にも魚が戻るようになり,関係者の努力もあって早慶レガッタは隅田川に帰ってきました。

その隅田川復活の早慶レガッタは1978年4月16日に行なわれました。コース設定などの苦労話については公式ページhttp://www.the-regatta.com/ に詳しいです。

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この日は,関東の南東海上の高気圧と日本海の低気圧の間で気圧の傾きが急な領域が関東南部にかかっており,東京では朝から南~南南西の風が吹き荒れていました。大手町の最大風速は14.8m/s,最大瞬間風速は24.5m/sでしたが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

レースは予定より遅れて15時17分に永代橋をスタート。スタート直後こそ早稲田が出たものの,早稲田の「韋駄天号」にはスタート前から水がたまっており,スピードが乗らないばかりかコントロールを失っていました。その後も清洲橋(615m地点)で2艇身ほどリードした慶應艇の水しぶきを受け,ますます浸水が進むという悪循環。結局,なんとか沈めないようにゴールまでもたせるのが精一杯,レースは慶應が55ストローク,距離にして500mもの大差で圧勝しました。

勝った慶應クルーはコックスを水に“投げ込んだ”後,われ先にと隅田川に飛び込みましたが,水はとくに汚くはなかったそうです。

このレースを見に隅田川に集まった観衆は18000人。ただし,川岸のマンションやビルの屋上の見物人,通りすがりの通行人を含めると10万人になるとか。

早慶レガッタの隅田川復帰大成功も呼び水となり,7月29日,両国の花火大会が17年ぶりに開かれることになります。ただ,当初の予定は7月22日だったようですが,1週間のびたのはなぜなんでしょう……?

慶應艇2回目の沈没~早慶レガッタ~

早慶レガッタの歴史を見ると,1957年1の他にもう1回慶應艇が沈没したことがあります。

それは1980年4月20日の第49回大会でした。

当日09時の天気図を見ると,中国東北部に発達した低気圧があり,寒冷前線が日本海側の沿岸沿いにのびていて,日本の東海上にある高気圧との間で気圧の傾きが急になっています。このため,東京では朝から南南西~南西の強い風が吹いていました。次の表は,大手町で観測された1時間ごとの風速と風向です。この日の最大風速は11.4m/s(SSW),最大瞬間風速は24.8m/s(SSW)でした。データがないのでハッキリとはわかりませんが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

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|時刻   |  8|  9| 10| 11| 12| 13| 14| 15| 16| 17| 18|
|風速m/s|  6|  9| 10| 10|  8|  8|  8|  8|  8| 10|  8|
|風向   |SSW| SW| SW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW| SW|SSW|
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隅田川は,水神橋付近から早慶レガッタのスタート地点(当時)である両国橋付近までおよそ南南西に流れています。そのため南~南西の風が吹くと水の流れと風が逆向きになり,波が立ちやすくなります。

この日も30~40cmの波が立っていました。この悪コンディションのため,レースは4000mから3300mに短縮されて行なわれることになりました。

レースは14時55分にスタート。ところが,ふつうのレースのような競り合いが見られたのは100mまででした。慶應艇「サスケハンナ号」はスタート直後から浸水が激しく,漕ぎ手を6人にして残り2人はアルミ椀を使って水を汲み出していました。一方の早稲田艇「いだてん2世号」は波除け板を艇の先端につけたのが功を奏して浸水をかなり防ぐことができ,すいすい進んで行きます。

慶應は漕ぎ手を6人から4人にし,ついにはコックスも水の汲み出しに参加しますが,ゴール前100mでついに沈没しました。

早稲田艇も終盤は浸水がはじまったので漕ぎ手を6人にしましたが,14分36秒で余裕でゴールしました。

ちなみにこの日,強風の影響を受けたのは早慶レガッタばかりではありません。横須賀沖では学生のヨット3隻が転覆する事故が起こり,鉄道関係では強風で飛ばされたビニールが架線に引っかかって東海道新幹線15本に遅れが出ました。また,前日の19日にはフェーン下の出雲市で23戸を焼く火災が発生しています。

ところで,この早稲田の勝利には,実は2年前の苦い経験がありました。それについては次回で2

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  1. あらしのボートレースとよばれる早慶レガッタ史上最も有名なレース。あらしのボートレース | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 
  2. 隅田川にもどった早慶レガッタ (1978年) | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 

あらしのボートレース

隅田川で16日,今年で第75回目を迎える「早慶レガッタ」が行なわれます。隅田川ではじまり,敗戦後隅田川で復活し,汚染などの影響で荒川や相模湖で行なわれた時期もありましたが,1978年に戻ってきてからはすっかり隅田川の春の風物詩として定着しています。

午前中からいろいろなレースが行なわれる中で,メインは対校エイト。今年は14時50分両国橋スタート予定です。

過去,いろいろなドラマが展開されてきました。第55回(1986年)では4000mを漕いで同着!!ということもありました。

その中で最も有名なのは,教科書にも載った1957年のレースでしょう。

昭和三十二年五月十二日,伝統の第二十六回早慶ボートレースが行われました。前夜からの雨は,まだやまず,さらに,春特有の強風に加えて,隅田川の水面には,かなり大きな波が立っていました。……

1961年から1970年まで使われた学校図書発行の教科書「小学校国語六年上」の中の「あらしのボートレース」の書き出しです。比較的マイナーな教科書ですが(小学校用の国語のメジャーな教科書はやっぱり光○とかT書とかでしょう),約300万人が読んだといわれています。

この日,二ツ玉低気圧が日本列島を通過していました。その影響で,東京でも前日の夜から雨が降りはじめ,風が出ていました。レースの当日も雨が断続的に降り続き,昼過ぎから風が南西に変わって強まりました。13時15分に大手町で最大瞬間風速15.8m/sを観測しています。さらにレース前には北西~北北西に変わり,ボートの進行方向に対して逆風になりました。

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当時,対校エイトは6000mで行なわれていました(現在は菊花賞と同じ?!3000m)。スタート地点は永代橋。スタートと相前後して降り出した激しい雨の中,慶應がダッシュを決め,リードして行きます。早稲田は艇を安定させるためにスタート時点から6人で漕いでいた(シックスワーク)こともあり,置かれていきます。

土手評では,前年のメルボルン五輪に出場した選手が5人残っている慶應が有利という見かたでおおかた一致していました。その土手評どおり,清洲橋で1艇身,中洲カーブで2艇身,新大橋で3艇身と慶應は順調に差を広げていきました。

このあたりから雨足がさらに強くなり,早稲田はエイトサイドの2人があらかじめ積んでおいたアルミ製の食器を使って水の汲み出しをはじめました。そのせいもあり,両国橋にかかるころには両艇の差は5艇身に広がっていました。

厩橋を通過するころにはさらに6艇身差まで広がり,一見快調のように見えた慶應でしたが,当初使うつもりであった「ケンブリッジ号」のかわりに荒れたコンディションを考慮して使用した「フィレンツェ号」にも水が溜まってきて,2人が水を汲み出しはじめました。しかし,早稲田と違ってあらかじめ排水用具を準備していなかったため,シャツをぞうきんがわりにして,汲み出すというより絞り出さざるを得ませんでした。

早稲田があらかじめ排水用のアルミ食器を積んでおいたのに対し,慶應は排水用具の準備をしていなかった……ここのところは,ボートを沈めてはならないという考えの早稲田に対し,8人で漕ぐからエイトだという考えの慶應という,両校の違いがハッキリと現われたところといわれています。しかし,この考えからすると,慶應は2人が一時的にせよ水を汲み出すために手からオールを離した時点でレースを放棄したことになるとシロウトには思えるんですが,どうなんでしょう。一時的ならいいのでしょうか。もっとも,当時の新聞によると,慶應OBの水ノ江審判長は慶應クルーにカン詰めの空きカンでもいいから持って乗るように勧めていたということなので,何が何でもオールから手を離してはいけないというわけではなさそうです。

さて,慶應のシックスワークを見た早稲田は,チャンスとばかり漕ぎ手を8人に戻して追撃を開始,あわてた慶應も8人に戻しますが,排水が不十分で艇は水面すれすれの状態,なかなかスピードが上がりません。差はたちまち2艇身,1艇身と縮まり,その上浸水はますます激しくなり,駒形橋付近でついに沈没しました。スタート地点から3800mでのできごとでした。

ひとり残った早稲田は,その後も悪戦苦闘しながら,24分02秒0でゴールしました。このタイムは6000mで行なわれた歴代の対校エイトの中で最も遅く,1艇になったせいもあるでしょうが,いずれにしてもこの日のレースがいかに苦しいものであったのかを物語っています。

「あらしのボートレース」は,次のように結んでいます。

岸に上がった早稲田の選手は,しんぱん長に,試合のやり直しを申し出ました。「これは真の勝利ではない。この悪天候では,ほんとうの力は出せない」というのです。しかし,しんぱん員の相談の結果,申し出は採用されず,早稲田の勝利と認められました。
慶応の選手たちは,「試合に対する準備が足りなかったのだから,早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って,早稲田の勝利に,心からの拍手を送りました。

青の洞門とたつまき博士

青の洞門」は大分県の山国川,耶馬溪にあるトンネルです。

今から約250年前,ここは「鎖渡し」と呼ばれる難所で,深い谷底に転落して命を落とす人馬が跡を絶ちませんでした。たまたま諸国遍歴の旅の途中,ここを通りかかった僧,禅海が一念発起してトンネルを掘って安全な道をつくることを決意,苦節30年,宝暦十三年四月十日にやっと完成させたと伝えられています。

菊池寛の『恩讐の彼方に』のモデルにもなっています。こちらの了海,俗名市九郎[*1]は不義密通の果てに主人を殺害,その上追いはぎに強盗とどうしようもない悪人ですが,禅海上人は悪人ではなかったようです。

禅海上人にしても了海にしても,真の協力者もなく,たったひとりで(了海には中川実之助という“協力者”が現われますが)信念を貫いて青の洞門を完成させた……と考えられることが多いようです。

さて,昭和のはじめのころのことです。青の洞門を福岡の中学校の修学旅行御一行様が訪れました。引率の教師は禅海上人の聞くも涙語るも涙の見てきたようなお話を聞かせ,忍耐の大切さを切々と説いたことでしょう。するとそのとき,ひとりの生徒が次のようなことをいいました。

「ぼくならはじめの15年間はトンネルを掘らずにトンネルを掘るための機械を開発し,次の15年でその機械を使ってトンネルを掘ります。そうすればトンネルはでき,機械は残り,一石二鳥です」

いうまでもなく,教師は激怒らしいです。

この生意気そうな?!生徒は,現在では気象関係者なら知らない者はないという人物……1998年に亡くなった藤田哲也博士でした [*2]。ちなみに,この人を知らない気象関係者はモグリです(笑)

藤田博士は日本では気象関係者を除くと一般にはあまり知られていませんが,竜巻やダウンバーストといった現象の世界的な権威でした。1971年に博士が考案した竜巻の強さを表わす尺度「藤田のスケール」あるいは「Fスケール」は,今でも使われています。

藤田博士の業績などについては次のサイトがあるので,興味があるかたは見てみてください。

たつまき博士の研究室 http://www.fujita-scale.com/

どうでもいいですが,σ(^^;)は“たつまき博士”から「少年ジエット」に出てきたハリケーン博士を連想してしまいますが(^^;)

禅海上人についていえば,青の洞門の開通後は通行料を徴収して財をなし(てお寺に寄付し)たらしいですし,トンネルを最後までひとりで掘ったのではなく,村人も途中からかなり協力的になったようです。年齢もあって体力的に劣る禅海上人は,トンネルを掘る職人を雇うために托鉢にまわることが多かったという話もあります。

[1] こいつの姓は何なんでしょう?
[
2] このエピソードは倉嶋厚『季節つれづれ事典』を参考にしました。