招き猫の日と豪徳寺とひこにゃん

今日は招き猫の日だそうです。

一般社団法人 日本記念日協会のサイトには

招き猫は福を招くといわれているところから、9と29を「来る福」(くるふく)と読む語呂合わせで、招き猫の愛好家の団体である日本招猫倶楽部が制定。日本ならではの縁起物として知られる招き猫は右手を上げていると金運を招き、左手を上げていると客を招くなどといわれ、広く庶民に愛されてきた。招き猫の魅力をアピールし、多くの人に福を招いてもらうのが目的。

とあります。招き猫といえば井伊直孝公と豪徳寺,そしてひこにゃんがピンと来る私としては拍子抜けするような由来です。

ひこにゃんと井伊直孝公と豪徳寺,とりもったのは雷でした。

ひこにゃん プロフィール | ひこにゃん公式サイト – 彦根市には次のようにあります。

彦根藩二代藩主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる”招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター。

“雷雨から救った”だけではよくわかりません。σ(^^;)的にいちばん納得できるのは次の伝説です。

「この寺(豪徳寺=σ(^^;)注)はもと弘徳院といい、吉良上野介の祖先の一族である吉良氏の菩提寺だったが、戦国時代には寺運が傾いていた。世田谷城主だったパトロンの吉良氏が没落したからである。江戸時代に入ったばかりのことである。この破れ寺の和尚は一匹のネコを飼っており、タマと名づけて可愛がっていた。和尚は日ごろタマを相手に、『お前を可愛がってやっているのに、この貧乏寺ひとつなんとかできないのか』と愚痴をこぼしていたらしい。(中略)ある夏の日、三代藩主井伊直孝が家来をつれて世田谷村へ遠乗りにやってきた。ちょうど弘徳院の門前にさしかかったころ、黒雲が空を覆ったかと思うと、はげしい夕立となった。直孝主従が雨宿りをしていると、山門に出てきた一匹のネコが、しきりに手招きしているように見えた。これにつられて直孝ら一行が寺に入ったとたん、大木に落雷して直孝はあやうく一命を救われることになった」
 このことがきっかけで弘徳院は井伊家の菩提寺となり、豪徳寺と名を改めて栄える。
「そのきっかけをつくったタマは観音様の化身だとしてたいせつにされ、招福観音堂にまつられて現代にいたっている」
http://homepage1.nifty.com/manekinekoclub/kenkyu/keizu/keizu_engi.html=リンク切れ

たんに猫に招かれて寺にはいっていったら雷雨になったのでいい雨宿りができたというレベルではなく(それだけだったらひとこと「世話になった」で終わりかも),まさに猫によって間一髪で命が救われたわけですから感謝感激雨あられだったことでしょう。

でも殿さま,雷雨のときに大木の下で雨宿りをするなんてもってのほかです!!

この伝説を使って,ひこにゃんが登場する雷の防ぎかた講座なんて動画やパンフレット,できないのかなあ。まあ,今までやってないということは版権かなんかの問題でできないんでしょうね。

それにしても,ネコを相手に「お前を可愛がってやっているのに、この貧乏寺ひとつなんとかできないのか」とグチをこぼすなんて,修行の足りない坊さんだなあ……(笑)

お散歩

この伝説の舞台の豪徳寺。場所はここ↓

その昔『Let’s豪徳寺』というマンガがありましたね。

以下,豪徳寺をざっと紹介。あんまりいい写真はないです。なお,撮ったのは2009年です。

山門

招き猫

グッズ販売も確かここ。私はミニチュアの招き猫を買いました。

みかん!?

みかんにも何か由来があるんでしょうか?

井伊家墓所

※この記事は[mixi] 最近有名なひこにゃんをもとにしたものです。

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競馬史の中の伊勢湾台風

今から56年前の1959年9月26日18時ごろ,台風15号が潮岬の西に上陸しました。死者4697人,不明401人,負傷者38921人,住家全壊40838棟,半壊113052棟,床上浸水157858棟,床下浸水205753棟など明治以降では最大の台風被害を出し,のちに伊勢湾台風と命名されることになります。

この日,京都でも強風が吹き荒れ,京都地方気象台の観測では最大風速19.1m/s,最大瞬間風速29.0m/sでした。にもかかわらず,なんと,京都競馬場では競馬が通常どおり開催されていました。

『競馬歴史新聞』にも載っていますが,風雨の中行なわれた第4競走サラブレッド系障碍競走(2300m,7頭)は大荒れに荒れました。1番人気ナルトホマレは2周目の第4コーナーで3番人気ブゼンタニカゼに内に押圧されて競走中止,このためブゼンタニカゼは1位入線しましたが失格となり,1着は繰り上がりで5番人気のタケリユウ,2着には最下位人気のアスカリユウ1がはいり,連式(6枠連勝単式)は267,350円の配当になりました。今では3連単で毎週のように出ている配当ですが,当時としては目が飛び出るような配当だったことでしょう。

このレースでは,1着から3着まで枠順にはいっています。何も考えずに枠順に買っていれば20万馬券をゲットできたわけです。

当時発売されていた3重式2はこの日は1,2,3レースではなく2,3,4レースが対象で,的中は1票,127,680円の配当になっています。

ついでに騎手を見ると,2着にはいったアスカリユウの鞍上に松本善登の懐かしい名前が。カツラノハイセイコを思い出します3。シンザンが五冠を達成した有馬記念は,さすがに歴史で学んだクチです。他にはすでに調教師を引退された北橋修二武邦彦松永善晴の名前も見えます。武邦彦も障害に乗っていたんですね。

この日,他に荒れたレースは第1競走繋駕速歩競走(連式9,380円),第9競走(連式5,740円)くらいで,大荒れの天気の割には比較的平穏におさまったようです,

ちなみに,前年の1958年,狩野川台風の上陸の当日にも中山競馬が平常どおり開催されています4。成績公報より,狩野川台風が過ぎ去ったあとの最初のレースとなった第1競走アラブ系三歳馬競走:

JRAの公式記録ではじめて台風による中止が出てくるのは,1961年の第2室戸台風のときです。

なお,中京競馬場は伊勢湾台風で大きな被害を受けています(詳細不明)。

(Mixi日記2005年09月25日09:31に少し加筆)

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  1. 『競馬歴史新聞』ではカスカリュウになっていますが誤植かなにかでしょう。 
  2. いまのWIN5(WIN3?)のような馬券。ただ,WIN5とは違い朝から競馬場に来てもらうためのような馬券で,第1~第3レースが対象になることが多かったらしい。 
  3. カツラノハイセイコが勝ったダービーについてはこれをご覧ください。 
  4. ついでにいうと,狩野川台風が上陸したのは9月26日ではなく27日。 

波除碑~寛政三年九月四日の高潮~

江東区木場にある洲崎神社の境内に波除碑《なみよけひ》があります。

寛政三年九月四日(グレゴリオ暦で1791年10月1日)の高潮で洲崎一帯に甚大な被害があったため,幕府がこのあたり一帯の土地を買い上げて空き地とし,家をつくることを禁じました。そして寛政六年に建てた2つの波除碑のうちのひとつがこの碑なのだそうです。

もうひとつの波除碑は,同じ江東区内の平久橋《へいきゅうばし》の西詰にあります。説明文によるとこちらは波除碑《なみよけのひ》となっているので,名前が少し違う……のかもしれません。

この寛政三年九月四日の高潮は『武江年表』に次のように記述されています。

大嵐,昨夜中より大雨,南風烈く,八月より強し。巳刻,高潮,深川洲崎へ漲りて,あはれむべし,入船町・久右衛門町壱丁目弐丁目と唱へし吉祥寺門前に建つらねたる町家,住居の人数と共に一時に海へ流れて,行方を知らず。弁才天社損じ,拝殿・別当所,其外流失。其かへしの浪,行徳・船橋塩浜一円につぶれ,民家流失す。其外諸方家屋吹損じ,川々水謐る。昼時にいたり潮引く。関東筋すべて洪水あふる。

この年は八月六日と八月二十日にも台風による被害があり,とくに八月六日には高潮が起こっています。『武江年表』に

八月六日,大風雨。小田原辺より江戸迄,海辺,高潮上る

とあります。九月四日の高潮はこれよりも規模が大きかったようです。

2009年9月12日に土曜ワイド劇場のワクでドラマスペシャルとして放送された「だましゑ歌麿~美人画浮世絵の秘密珠玉の時代ミステリー天才絵師!喜多川歌麿最愛の妻、変死の謎」の冒頭に,江戸は未曾有の暴風雨に見舞われ……という話が出てくるのですが,この寛政三年九月四日の高潮を起こした台風かもしれません。

洲崎神社

説明板によると,元禄時代にこの地に遷ったころは「海岸にして絶景」だったそうです。今では想像もできませんが。

上の『武江年表』からの引用文中にある“弁才天社”とはこの洲崎神社のようです。

ちなみに,「だましゑ歌麿」にも“洲崎弁天の裏手”という場所が出てきます。

場所はここ↓

波除碑《なみよけひ》

洲崎神社の境内にあります。

平久橋と波除碑

平久橋はここ↓

周辺

新田橋

NHKの朝ドラ「天うらら」に出てきた赤い橋です。

富岡八幡神社

1876年9月16~18日ごろ関東地方に上陸した台風の影響で,境内にあった大松・老桜が根こそぎ倒れたという記録があります。

荒川水位表示塔

周辺というにはちょっと遠いですが,江東区役所前にあります。

表示器には荒川の水位がリアルタイムで表示され,塔には過去に東京湾で起こった高潮のときの潮位が示されています。参考として伊勢湾台風時の名古屋港の潮位も刻まれています。

ちなみに,同じような塔がなぜか亀戸駅前にもあります。

この記事はその他いろいろなところ2をこちらに移してきたものです。多少追加しています。

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寛保洪水位磨崖標リニューアル!?

秩父鉄道の樋口駅から歩いて5分くらいのところに寛保洪水位磨崖標があります。

寛保洪水位磨崖標については以前このブログで取り上げています→寛保洪水位磨崖標 | Notenki Express 2014。文字どおり寛保二年の洪水位が刻まれている磨崖標ですが,やはり説明板が詳しいです。

また,寛保2年 | 荒川上流河川事務所 | 国土交通省 関東地方整備局にはこの洪水に関する他の記録についても記載されています。

それで昨日,とくに他に行くところもなかったので,久しぶりに行ってみました。そうしたら,なんと,ガラッと変わっていてビックリしました。

2013年11月に行ったときはこんな感じだったんですが,

昨日はこうなっていました。

スッキリしたというか,なんというか。どういう意図でこうなったのかはわかりません。

磨崖標自体は変わっていないとい思います。

ちなみに,“水”と刻まれているのはここです。

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杉野はいずこ 杉野はいずや (1904年)

AD1904/03/26 第2回旅順口閉塞作戦(~27日)
AD1904/03/27 第2回旅順口閉塞作戦。広瀬武夫少佐が壮烈な戦死(死後中佐に昇進)

その名も「広瀬中佐」という唱歌がありまして,なぜか小学生のころから知っていました(笑) もっとも,そのころはどうも「勇敢なる水兵」と状況を混同していたきらいがあります。軍事ヲタでもなんでもない私は当然のことながら閉塞作戦なんて知らなかったですから。

もっとも今の時代,閉塞作戦を知らない人はけっこういるようで,日本映画専門チャンネルのホームページに次のような解説記事(=リンク切れ)がありました。

“杉野はいずこ”広瀬少佐といっても誰もわからないかも知れないので、ちょっと説明しよう。自分の乗っていた戦艦が敵の攻撃を受けて大破、沈没寸前というとき、広瀬少佐は乗組員を全員救命ボートで脱出させたあと、火柱が上がりどんどん浸水する艦内でたったひとり姿の見えない部下、杉野を探すのだ。しかし、とうとう見つけられずに自分も杉野も艦と運命をともにしてしまう、という話なのだ。当時は、部下を思い遣る上官の美談として語られて有名になった。

なんの映画の解説かは忘れました。

話がそれましたが,その唱歌「広瀬中佐」に

やみをつらぬく 中佐の叫び
杉野はいずこ 杉野はいずや

というフレーズがあります。杉野さんっていったいどうなったんだろう? となんとなく疑問に思っていました。たぶんなくなったんだろうという想像はできましたが,軍事ヲタでもなんでもない私は広瀬中佐とともに軍神レベルに祭り上げられているなんて知りませんでしたし。

ただ,実際には死亡は確認されていなかったようです。林えいだい『日露戦争秘話 杉野はいずこ―英雄の生存説を追う』によると,東郷平八郎司令長官の報告書には杉野孫七一等兵曹は「戦死せるものゝ如く」とあるだけで,今流のいいかたでいえば行方不明ということだそうです。

そういうこともあり,杉野さんについては日露戦争直後から生存説が流布していたようです。

しかし,かりに生存していたとしても,広瀬「中佐」を軍神扱いする以上,杉野「上等兵曹」も戦死していないとサマにならないわけです。軍神扱いをされていた本人に生きていられては当時の軍部としては困るわけで,帰国はかなわず,杉野孫七という個人がこの世からいなくなったことには変わりありません。

ちなみに,広瀬中佐はロシアに滞在したこともあり,ロシアに恋人もいたそうです。このあたりは“年末の大河ドラマ”「坂の上の雲」で詳しく描かれていました。

「坂の上の雲」といえば,このドラマが放送されていたころ,“広瀬はいずこ”でググって私のブログに来るのがいて,最近のなんとかウヨは広瀬中佐も知らんのかと思ったものです。

参考文献: 林 えいだい. 日露戦争秘話 杉野はいずこ – 英雄の生存説を追う. 新評論, 1998.

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※この記事は杉野はいずこ 杉野はいずや | Notenki Express 2014を今流に書き換えただけの記事です。

東京の2月の大雪 (1~3位)

去年,東京で2月8日と14日に最深積雪27cmを記録したことは記憶に新しいところです。

平年値で見ると,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月で,3.7日となっています。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もります。

さらに東京の月最深積雪の1位から4位までは2月に記録されています。

ということで,東京の月最深積雪の歴代1位から3位までを見てみましょう。

東京の最深積雪1883年2月8日

東京でもっとも雪が積もったのは1883年2月8日のことです。このときの積雪は46cmと記録されています。

1883年2月9日付の東京日日新聞によると,7日の02時ごろからみぞれが降り出し,05時ごろから雪になりましたが,そのころはまだ「降るより先に早く解たれば」ほとんど積もりませんでした。ところが,夕方から冷たい北風が吹き出し,「泥道の氷の上に降積りて夜半許には一尺の上に満たるが此頃より風が益ゝ荒く雪が彌ゝ降頻りて……」という状況になりました。そして翌日は一面の銀世界。

戸外に出れば扠も降積みにけり。軒下の雪除ある所にても三尺に近く満たれば況て往来の風の吹溜る所(?)にては五尺より六尺にも及びたらんか

ちなみに,大坂(当時)でも「実に二十年以来の大雪」だったようで,12日付の東京日日新聞によると,7日午後6時から降りはじめ,8日午前6時には「大坂市中の積雪一尺一寸余」積もったようです。

“尺”とか“寸”とかいった単位に時代を感じます(笑)

ちなみに,翌日の9日には白木屋の来客が0人という椿事が発生しました。白木屋,来客0人(1883年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

1945年2月22日

東京の歴代2位の積雪は,1945年2月22日に記録した38cmとなっています。しかし敗戦が決定的になっていた時期のせいか,気象管制がなされていたせいか,裏表の2面しかない紙面のせいか,新聞には記事が一切ありません。翌23日付の朝日新聞の第1面には

神風特攻隊第二御楯隊二空母を撃沈す
空地呼應硫黄島の敵に痛撃

などの空しいというか痛々しい文字が見えます。

ちなみに,この月の25日から26日にかけてもかなりの降雪があったようですが(最深積雪等はそのうち調べますm(_ _)m),この日米軍によるはじめての東京への大規模空襲がありました。

1936年2月

東京の歴代3位は,1936年2月23日に記録した36cmとなっています。

実は同じ月の4日に31.5cmの積雪があり,「四十九年来の暴風雪」「悽愴,雷電を加へて狂乱」「全市の動脈停止す」「白魔の蹂躙・帝都を闇に化す」などと新聞に書かれていました。

この大雪がいい教訓になったのか,新聞で見るかぎり,23日のほうが積雪が多かったにもかかわらず,混乱は少なかったようです。新聞には「徹夜で護るレール」「東鐵は熱湯戦術」「市電でも終夜運轉」などの見出しがあります。

4日のときにはホテル替わりにされてしまった各劇場も,いい教訓――というより懲りたのか,さっさと閉場時間を切り上げてしまったようです。

なお,この23日の雪は気温が上がらなかったために26日まで残り,二・二六事件で反乱軍が踏みしめた雪になっています。一部の歴史書にある「25日の夜半から東京は30年ぶりという大雪が降りはじめた……」などという記述はデタラメです。東京では24日から26日の朝まで降雪は観測されていません。

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明暦の大火と回向院,ついでに紅蓮次郎

明暦三年一月十八日(グレゴリオ暦では1657年3月2日)午後1時ごろ,本妙寺付近から出火した炎は折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神,神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しましたが,午前11時ごろ新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城の天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。江戸市中の6割が焼失,死者は10万人以上といわれています。

両国にある回向院は,この火災の焼死者を葬ったのがはじまりとされ,

「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。
開創 | 回向院 | 歴史の中で庶民と共に歩んできたお寺より

今ではペット供養でも有名です。犬の供養塔や,ネコの供養塔や,

小鳥の供養塔などもあります。その他,猫の恩返しの碑や鼠小僧の碑があったり,かわいいネコちゃんがいたりするのですが,話がそれたので明暦の大火に戻します。

出火原因については次のような伝説もあります。

麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。

お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りました。ところが翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りました。ところがまたまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。

お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日,娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がり,火はみるみるうちに燃え広がったという……。

このため,明暦の大火は振袖火事ともよばれます。

この話は江戸時代の怖い話を扱った本などにのっていたりして,事実と思っている人もいるようですが,避難先のお寺でイケメンに一目惚れするあたりが八百屋お七の話とそっくりで,お七の話を真似してつくられたのだろう……というのが定説になっています。

写真は本妙寺があった付近のいまです。

出火元は実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあります。私的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりしていたのですが,調べてみると阿部忠秋の下屋敷はとなりにはなかったようで,

最近は松平伊豆守黒幕説に傾いています。

上の地図はiOSアプリ今昔散歩より。明暦の大火のあとの地図なので,どの程度参考になるかはわかりません。

早い話が,出火元についてはいまだに不明になっているのです。そこで,そうです!! 火災調査官・紅蓮次郎の登場です!!

現在から明暦の時代に行くにはタイムマシンが必要です。それはドラえもんに借りましょう(もちろん今のドラえもんモドキではなく,大山のぶ代さんのほう)。犯人を逮捕するのは警察ですから,特命捜査課にも参加してもらいましょう。神代課長をはじめ故人も多いですが。故人でOKなら安浦刑事にも参加してほしいです。現在の特命である杉下警部と歴代の“相棒”が加わるのもいいかもしれません。「相棒」は見ていないのでどうでもいいですが,もともとは土曜ワイド劇場のシリーズでしたしね。

土曜ワイド劇場と同じくテレビ朝日(朝日放送)で放送された必殺シリーズでは,仕事人が元禄に現われて吉良上野介を討ったり,アメリカに渡ってインディアン・スー族を助けて第7騎兵隊を全滅させたり,果ては子孫が現在に現われたりしたくらいですから,紅蓮次郎や特命課が明暦の時代に現われても別に不思議はないでしょう。

そういえば,明暦は3代将軍家光の時代。家光といえば土曜ワイド劇場の前の時間帯に放送されていた将軍家光忍び旅があります。将軍さまみずから放火犯を成敗するというのもいいかもしれません。黒幕が松平伊豆守だと都合が悪いですが,将軍さまの側近を黒幕に仕立てた真犯人がいるという展開は,この手の時代劇ではよくあるパターンです。

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愛と希望は勇気のしるし?!

きょうは愛と希望と勇気の日らしいです。クサい単語を3つ並べただけのしょうもない名前の日です。

由来は次のできごとです。

1959/01/14 第3次南極観測隊,昭和基地に1年間放置されていたカラフト犬のタロとジロが生きていたことを確認

犬が2頭生存していることはすぐに確認できたみたいですが,あまりの変わりようにどの犬かはしばらくわからなかったようです。第一報では別の名前が報じられています。

第一便が基地から船に帰る途中,無線電話で「クマ」と「モク」が生きていたと報告してきた
(朝日新聞1959/01/15付夕刊)

あまりの変わりようというのはやせ細っていたということではなく,まったくの逆で,丸々と太っていたとのことです。基地に置いてきた食糧にはまったく手をつけておらず,おそらくペンギンなどを捕獲していたのでは……と想像されていますが,何を食べていたのか本当のところはいまだによくわからないそうです。

タロとジロ以外の13頭は死亡,または行方不明ということになっています。

第1次越冬隊で犬の担当だった北村泰一氏の『南極越冬隊タロジロの真実』によると,第4次越冬中に行方不明になった福島隊員の遺体を第9次越冬隊が発見した直後,基地の近くから白い犬の遺体が発見されたそうです。行方不明になった犬のうち色が白かったのはシロとリーダー犬リキだけで,北村氏はリキではないかと書いています。

リキは映画南極物語では最後まで残った4頭のうちの1頭で,シャチの襲撃からタロとジロを守った傷がもとで力尽きたことになっています。もとの飼い主だった姉妹の姉を荻野目慶子が演じていました。当時はまだかわいい(笑)

また,2011年にTBSで放映された日曜劇場南極大陸でも,タロとジロが発見される直前まで生存していました。

リキはリーダー犬だったということもあってか,フィクションではクライマックスを盛り上げるための“ダシ”として使われやすいようです。

4頭のうちのもう1頭は風連のクマで,「南極物語」ではタロとジロを基地近くまで“送り届けた”あと,いずこともなく去っていきました。

「南極大陸」ではなんかよくわからないうちに流氷に乗って流されたんではなかったかな。「南極物語」での去っていくシーンがあまりにもかっこよかっただけになんかなあという感じでした。

なお,置き去りにしたことについて今も昔も批判がありますが,事態が急を要しており,連れ帰るにも薬殺するにも時間的余裕がなかったようです。

どうでもいいですが,“愛と希望と勇気”と聞くと次を思い出してしまいます(笑)

以上,愛と希望と勇気の日 | 能天気Express Hyper (2009/01/14)に少し書き足しただけの手抜き記事でした。

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八百屋お七の墓が呼ぶ(お七火事)

天和二年十二月二十八日(グレゴリオ暦では1683年1月25日,以下同様),駒込大円寺から出た火は,折りからの北西の季節風に煽られて本郷,神田,伝馬町,日本橋に燃え広がり,3500人以上の死者を出しました。これが江戸十大火のひとつお七火事です。

お七(八百屋お七)は実在の人物で,放火の咎で天和三年三月二十九日(1683年4月25日)に火炙りの刑に処せられたのも事実のようですが,お七が放火した火事については天和二年一月説,天和三年三月説などがあり,特定できる確固たる根拠はありません。ただ,皮肉なことにお七火事がお七が放火した火事ではないことは確かなようです。σ(^^;)的には,お七の放火は天和三年三月だとするのがもっとも違和感がありません。

この火事は天和三年三月二日(1683年3月29日)の夜,本郷の森川宿の八百屋の娘お七が近くの商家に放火したところを通行人に発見されすぐに消し止められたというもので,今流にいえばボヤです。しかし,当時はボヤでも放火は放火,市中引き廻しの上火炙りと相場は決まっていました。

放火の動機については,天和二年十二月二十八日の火事(要するにお七火事)でお七の家も被災して正仙院というお寺に仮住まいした際,そこの“イケメン”と恋仲になったのですが,新居が完成して会えなくなり,再び火事になれば会えるという妄想が放火に駆り立てたとされています。

このあたりは諸説ありますが,お七の年齢,被災した火災,仮住まいしたお寺や“イケメン”の名前などに違いはあるものの,大筋では似たりよったりです。

お七のお墓は文京区白山に現在も存在します。知る人ぞ知る恋愛成就のパワースポットです。

お七のお墓

内田康夫センセの『追分殺人事件』では,1987年3月8日にこのお墓の前で男の変死体が発見されることになっています。作品では前日から雪が降っていたことになっていますが,実際に東京では午後から雪になりました。降雪の深さ合計は7日が3cm,8日が2cmとなっています。

ちなみに,2004年に放送された女と愛とミステリー 信濃のコロンボ事件ファイル5 追分殺人事件では,雪は積もっていませんでした。死体が発見されたのはここです。

お七のお墓

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大蔵省炎上 (1940年)

♪あゝ 一億の民は泣く~と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日21時53分,麹町区大手町の逓信省航空局新館に落雷して炎上,火はみるみる広がり,航空局新館・旧館,農林省営林局,神田橋税務署,対満事務局,厚生省,大蔵省などが全焼しました。中央気象台の一画も焼けました。

「気象要覧」によると,このときの雷雲は17時30分ごろ荒船山の東斜面に発生し,御荷鉾山→群馬県藤岡町→熊谷市鴻ノ巣町→大宮町→浦和市と移動してきたもので,東京市で大暴れしたあと,23時10分ごろ千葉県勝浦町沖の太平洋で消滅しました。ひとつの雷雲がこのような長時間にわたって存在し続けるとは考えにくいので,おそらくマルチセル型だったのでしょう。

この年は奇しくも平将門公の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは将門公の首塚の近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。平将門は菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使ったというのも説明がつきます。

ちなみに,大蔵省本庁舎に落雷したとする文献やサイトがありますが,誤りです。そちらのほうが話としては面白いですが。

※この記事は大蔵省炎上 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

付記

国会図書館の近代デジタルライブラリーで中央気象台彙報. 第17冊 昭和15年6月20日關東地方の大雷雨 雷雨報告という文献が公開されています。

20140620-1

興味のあるかたは検索してみて下さい。URLを貼るなどという親切なことはしません。

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