この下に村あり(1927年)

1927年2月10日付の東京朝日新聞より――:

雪は二十二日間連日連夜降りしきり高田地方は山の如き積雪に危険を感じ全市民はびくびくものである,高田市内の積雪は九日夜に至り一丈一尺を突破し屋根の雪を下ろしたため街路は三丈余に達し二階屋上よりも高く,危険なので「この下に高壓電線あり」の建札が随所にある,高田測候所調査によると寛文二年正月(一丈六尺)以来の大雪である

同じ日付の東京日日新聞には次のようにあります。

新潟県刈羽郡地方は六日から雪降り出し九日朝に至つては近年稀なる大雪となり海岸の柏崎町は積雪四尺餘り山間部の岡野地方は一丈又石黒地方は一丈八寸の積雪となり『この下に村あり』の建札が至るところに立てられてゐる

このように,高田地方はこの下に高田ありの立て札で伝えられる寛文五~六年(1666年)以来の豪雪に見舞われました。(上の記事では寛文二年となっていますが,寛文五年または六年の誤りと思われます)

ちょうど同じ時期の1927年2月7日~8日,大正天皇の大喪(早い話がお葬式)が行なわれました。

高田,松本,富山,金沢の各連隊も連隊旗を掲げて参列していましたが,雪に阻まれて東海道線経由で帰任する羽目になりました。

大喪を見物するために上京した人も帰るのに苦労しました。11日付東京朝日より。どこまでホントの話かは知りませんが。

昨夜午後十時五分上野發長野行きに乘り込んだ勤め人風の二人連れの青年は語つた
『私共は高田市の會社員です,大喪儀で三日休みが續きましたので拝觀に上京しましたが,汽車が不通で歸宅することも出來ず宿屋へ泊る金もなくなつたので,相談の上二本木からスキーにでも乘つて歸ることに決心して出發するのですが。雪崩や吹雪が心配です』

この豪雪について,「気象要覧」には次のようにあります。

北陸地方にては六,七日より十二日頃に亘り,近古稀れなる大雪あり,鉄道事故各所に起り,列車雪中に没して交通全く途絶し,学校潰れ,人家倒れ,死傷者少からず,人畜の被害多く甚大なる雪害なり,軍隊出動し除雪作業に努む,被害は新潟県西部,高田,直江津を中心とし,西頚城,中頚城,東頸城,刈羽の四郡最も甚しく,山間地方殊に著し,雪崩到る所に起り,西頚城郡磯部村には,地滑りありて,家屋倒壊し,一村殆ど全滅したる所ありと云ふ,高田測候所の報告に依れば,同市中の平屋建物は,大抵雪下に没し,道路は両側の屋根より排雪せる為,三丈乃至四丈の塁雪となり,二階建物にても,窓の中部以下は雪中に埋れたりと云ふ,今回同測候所管内の積雪を挙ぐれば左の如し。

その積雪は次のとおりです。

地名 積雪最深(寸)
高田 120.3 11日
関川 75.0 9,10,11,12日
能生 118.5 13日
安塚 130.0 12日
天水越 150.0 10日
赤倉 135.0 11,12,13日
新井 126.0 11日
直江津 113.0 12日
小瀧 128.0 12日
165.0 10,11日
青柳 165.7 11日

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与禰姫が圧死

天正十三年十一月二十九日(1585年),畿内・東海・東山・北陸諸道で大地震が発生しました。天正地震です。震源域は白川断層で,マグニチュードは7.8とされてきましたが,複数の断層が同時に動いたもっと規模の大きい地震だったという説もあります。

大河ドラマ「功名が辻」与禰姫が圧死したのがこの地震です。σ(^^;)は予告編しか見ていませんが。 他に大河ドラマ関係では,越中国の木舟城が倒壊し,城主前田秀継夫妻など多数が死亡しました。前田秀継は前田利家の弟です。ただし,「利家とまつ」でこのシーンがあったかどうかは知りません。見ていなかったので。

さて,当時,現在の岐阜県北部,白川郷のほぼ中央の帰雲《かえりぐも》とよばれる地域に,勢力を誇っていた内ヶ島氏の居城, 帰雲城《かえりぐもじょう》がありました。帰雲城はこの地震によって生じた大規模な土石流に巻き込まれ,城下町もろとも土砂深く埋まったといわれています。

内ヶ島氏は金山を開発していたといわれ,実際かなり潤っていたそうです。このため,帰雲城とともに莫大な財宝が埋まっている……という財宝伝説があります。

しかし,いまだ財宝発掘に成功した人はいないようです。川口探検隊も藤岡探検隊も訪れたという話は聞いたことがありません。それもそのはず,帰雲城がどこにあったのか,またどこに埋まっているのか,わかっていないという話です。

そういえば数年前,帰雲城の財宝伝説をめぐるサスペンスドラマが放送されました。何というドラマだった気にはなっているのですが,思い出せないし検索しても見つかりません。実はそのドラマでこの財宝伝説を知ったのでした(笑)

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雪が降る前の二・ニ六事件

だいたいこの時期に取り上げる話といえば,二・二六事件桜田門外の変になってしまいます。桜田門外で井伊直弼の首が挙げられたときには,定説どおりに雪が降っていたので,面白くもなんともありません。しかも私は幕末史がきらいですし……。もっとも,昭和史も幕末史に劣らずきらいなのですけれどね。

二・二六事件とは,いくつかの歴史書を総合すると,次のような事件です。

1936年2月26日早朝,降りしきる雪の中,皇道派の青年将校率いる第一師団歩兵第一連隊,同第三連隊,近衛歩兵第三連隊の将兵約1500名からなる反乱軍は,陸相官邸,警視庁,内大臣私邸,蔵相私邸,首相官邸などを次々と襲撃,斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監らを殺害し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,永田町一帯を占拠した。(その後についてはここでは関係ないので略)

ここで問題なのは“降りしきる雪の中”という部分です。歴史書から音声を変えて引用すると(もちろん映像にはボカシがはいっています(笑)),

1936年2月26日の早朝,降りしきる雪のなか,皇道派青年将校の一隊は……

25日の夜半から東京は30年ぶりという大雪が降りはじめた。

などとあります。他の本にも似たような記述があるものが何冊かありました。

これらの本の筆者がどこで何を調べて書いたのかは知りませんが,事実に反する記述です。

大手町にあった中央気象台の観測原簿によると,24日から25日にかけては降雪は観測されておらず,雪が降りはじめたのは26日の08時08分でした。

反乱軍が兵営を出たのは04時か04時30分ごろで,陸相官邸襲撃が05時ごろ,内大臣私邸襲撃が05時05分ごろ,首相官邸襲撃が05時10分ごろで,政府要人に対する襲撃は07時までにあらかた終わっています。襲撃場所の大半があった永田町と大手町の中央気象台とは2km程度離れているので,若干の時間の前後はあるでしょうが,それにしても“降りしきる雪の中……”などということはありません。

しかし,当時の写真を見ると,26日の早朝に雪が積もっているのは事実です。実はこの雪は23日に降り積もった雪が残ったものです。23日は04時40分から降りはじめた雪が20時45分まで降り続き(その後,みぞれから雨に変わった),20時に最深積雪35.5cmを記録しています。この積雪は当時としては1883年の46cmに次ぐ第2位の大雪で,現在でも第3位の記録になっています。

23日に積もった雪は24~25日には降雪がなかったにもかかわらず気温の低さも手伝ってなかなか溶けず,観測原簿には26日09時に“旧雪の深さ”として12.0cmが記録されています。この旧雪の上に“新雪”が降り積もったわけですが,26日の観測原簿によると新旧あわせた最深積雪は21.8cmとなっています。(※現在の積雪の記録のしかたとは違います)

ところで,当時の記録を見ると,二・二六事件の直前に“天変”がいくつか目撃されています。

まず,1月5日に仙台で流星が観測されました。そして1月13~14日は浜松で,24日には船津でそれぞれ異常な黄道光が観測されました。また,1月15日には宮崎で,2月20日には木津川尻で,それぞれ日没時に異常な光象が観測されています(木津川尻のは幻日のようですが,宮崎のは記事からだけでは不明)。さらに,1月23日には鳥取県で稲妻のような閃光とともに大音響が轟きました。おそらく火球でしょう。1月26日には箱根山で5層のレンズ雲が目撃され,2月3日には太陽柱が釧路で観測され,2月17日には根室港に蜃気楼が現われました。

天変だけでなく,地異も起こっています。2月21日,奈良県北部を震源とするM6.4の「河内大和地震」が発生,9人死亡,家屋の全半壊148棟などの被害が出ました。新聞によると総選挙の開票中に起こったとのことです。

そして二・二六事件の前々日と前日には東京で彩雲が観測されています。

とまあ,いろいろ並べてきましたが,どれも前兆などといえるものではありません。なんといっても,実際に兵乱が起こった東京で観測されたのが瑞兆とされる彩雲だったのですから。

【付記】この事件の前日,井伏鱒二が見たとされる“日を貫く白虹”については,白虹日を貫く(1936年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

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チャララーン(2)

チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの続きです。長すぎるタイトルを端折って短くしました(笑)

第五連隊の雪中行軍とほぼ同じ時期,福島泰蔵大尉率いる同じく第八師団第四旅団の歩兵第三十一連隊の雪中行軍隊が逆のルートから第五連隊よりもはるかに長い234kmの踏破を12日かけて成功させました。

小説や映画では話を面白くするために,第五連隊と第三十一連隊が互いに競い合ったり(というより競い合うように仕向けられたり),神田大尉と徳島大尉が八甲田山中での再会を約束したりしていますが,そこは縦割り組織のこと,お互いのことはまったく知らなかったというのが真相のようです。

第三十一連隊の雪中行軍隊の成功は,道案内に立った民間人によるところが大でした。とくに増沢から八甲田山中を命がけで先導した大深内村の7人は,現在でも「七勇士」とよばれ称えられているそうです。

最大の功労者であるはずのこの7人は,用が済むとひとことの感謝のことばも受けなかったばかりか「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と脅しをかけられ,雪の中に置き去りにされました。しょせん帝国陸軍とはその程度のものでしょう。ちなみに,映画「八甲田山」が上映されたときは,なぜかこのシーンがカットされていました(DVD版にはあります)。

それはともかくとして,隠さなければならないような何があったのか――謎に包まれています。第五連隊の雪中行軍隊の遭難死体を見てしまった……と考えるのがふつうでしょうが(軍の恥になることだから),ひょっとして第五連隊の生存者を見殺しにしたのではないか……と考える人もいます(川口泰英『雪の八甲田で何が起ったのか』)。

ついでに,第五連隊の大隊長の山口少佐は生還後ピストルで自殺したことになっていますが,重度の凍傷を負った指でピストルの引き金が引けるのかという疑問などがあり,発見時すでに死亡していたのに,当時の考えでは指揮官の死亡すなわち負けだから,体裁を繕うために生きていることにしたのでは……ともいわれています。

さて,八甲田の雪中行軍からちょうど3年後,第五連隊と第三十一連隊が所属する第八師団はいわゆる「黒溝台の会戦」ではじめてロシアとの戦闘に参加しました。

この戦いは厳冬期にはロシア軍は戦いを仕掛けてこないと勝手に思いこんでいた無能な陸軍首脳部の虚をついて手薄な左翼方面に大攻勢をかけてきたものです。戦いは激戦となり,第三十二連隊に移っていた福島大尉と第五連隊の雪中行軍隊の生存者のひとりだった倉石大尉はともに戦死しました。

ちなみに,映画「八甲田山」の最後のテロップでは全員が戦死したとなっていますが,生還した人もいます(伊東=伊藤中尉など)。映画や小説はあくまでフィクションです。

(完)

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チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン

1902年1月25日,旭川(当時は上川測候所)で日本の気象官署としては現在に至るももっとも低い-41.0℃を観測しました。

ちょうど同じころ,津軽海峡を挟んだ八甲田山中では,陸軍第八師団第四旅団歩兵第五連隊の雪中行軍隊が猛吹雪の中をさまよい,210名中生存者わずか11人という大惨事が発生していました(死者には救出後の死亡者・“自殺”者を含む)。新田次郎の小説のタイトルにもなっている八甲田山死の彷徨です。この記事の意味不明とも思えるタイトルは,映画「八甲田山」のテーマ(芥川也寸志作曲)の人間カラオケ版です(笑)

神成文吉大尉率いる第五連隊の雪中行軍隊210名(山口少佐をはじめとする臨時移動大隊本部14名を含む)が青森の連隊本部を出発したのは1月23日午前6時55分でした。この日の青森の最低気温は-8.7℃,風は西の微風,夜来の雪は降り続いていたものの,まず平穏な気象条件でした。ところが昼ごろ,小峠での大休止の最中に天気は急速に悪化,気温がみるみる低下し,風雪が強くなりました。このとき永井三等軍医は凍傷者の発生を恐れて帰還を具申しましたが,経緯はともかく雪中行軍を続行することになります。このころから本来編成外であるはずの山口少佐が指揮に口をはさむようになり,指揮系統が乱れ,遭難の要因のひとつになりました。

なお,雪中行軍隊の指揮官はあくまで階級がもっとも上の山口少佐だったという話もあっておそらくそのとおりだと思うのですが,ここでは通説どおりにしておきます。

そのころの気象状況について,「気象要覧」に次のようにあります。

……二十一日一箇ノ低氣壓琉球南部ヨリ南岸ニ沿フテ北東ニ走リ全國ノ天候又一變シタレトモ二十三日該低氣壓ハ極北東海ニ入リ高氣壓部ハ追及シテ天候恢復シ寒風旺盛トナリ日夲海沿岸ハ雨雪殆ト絶エス……

天気図を見ると,21~23日にかけて低気圧(とおぼしきもの(笑))が日本の南岸を進んでいます(今流にいえば南岸低気圧)。等圧線が粗い当時の天気図には描かれていませんが,もうひとつ日本海から津軽海峡付近に進んだ低気圧もあったような感じです(要するに二子玉低気圧)。23日の天気の急変は,津軽海峡付近に進んだ低気圧かそれに伴う寒冷前線の通過によるものだったのかも知れません。

ちなみに当時の新聞によると22日,降雪のために大相撲が中止(新聞には“休業”とある)になっています。この日東京で13.3mmの降水量が観測されており,降雪に換算すると数cm~10cmくらいになります。おそらく南岸の低気圧によるものでしょう。

2つの低気圧は23日には日本の東海上に出て西高東低の気圧配置になり,それと同時に猛烈な寒波が襲ってきました。青森大学雪国環境研究所の杉見良作氏は第五連隊の雪中行軍隊が通過した各地点の最高・最低気温を次のように推定しています。(2002年1月25日付東奥日報より)
http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2002/sechukougun/0125.html(リンク切れ)

平地と山間部で気象が違うことはある意味では常識ですが,青森市内と雪中行軍のルートとなった北八甲田山麓でも気象条件はまったく違うといってもよく,大休止中に天候が悪化した小峠付近までは青森市内とあまり変わらないものの,その先の大滝平付近からは様相が一変し,吹き上げる風と吹き降ろす風が複雑に絡み合い,気温もかなり低下します。さらに,のちに雪中行軍隊が迷いこむことになる鳴沢の峡谷は一段とひどく,雪の吹きだまりになっていました。

いずれにしても,比較的良好な天候下でも容易ではない雪中行軍であるのに,準備不足・装備不足・認識不足に加え,指揮系統の混乱,そのうえ猛烈な寒波に襲われては成功する道理はありませんでした。

(続く)

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七里ヶ浜DQNボート沈没事件

眞白き富士の根緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみ霊に
捧げまつる胸と心

1910年1月23日,七里ヶ浜沖で第二開成中(現・逗子開成中高)のボートが転覆して生徒12人(1人は小学生)が全員死亡するという事故が起こりました。直接の原因は,行合川にそって吹き降ろしてくる強風帯に定員オーバーのボートが遭遇したためのようです。

この「七里ヶ浜の哀歌」は,12人の生徒の追悼式で鎌倉女学校の生徒によって歌われた歌です。本来“富士の根”が正しく,“富士の嶺”はあとで誰かが勝手に書き換えたものだそうです。作詞は三角錫子・同校教諭ですが,実は当時女学生の間で歌われていた「夢の外」という歌の替え歌で,さらに「夢の外」が聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌でした。

大正期にバイオリン演歌師たちによって広められ全国区の歌になりましたが,なぜか曲調は短調になっていました。短調にして歌ってみるとわかりますが,せっかくの美しいメロディーがいかにもお涙頂戴的な品のないメロディーになってしまいます。

ところで,σ(^^;)も最近まで知りませんでしたが,死亡した12人のうち6人は20歳以上の屈強な若者でした。この点,2番の

風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶなは父母

はかなり現実にそぐいません。

しかもこの連中,今流にいえばかなりのDQNでした。一部ではこの若者たちは病気の女教師を見舞うためにボートを乗り出したということになっていますが,それは1935年公開の映画の作り話で,実際には蛮食会に供するための鳥を撃ちにいったのでした。しかも,ボートを使うときには2人の教師の許可を得なければならない決まりだったのに,教師が2人とも外出していることをいいことに無断で漕ぎ出したのでした。さらに,12人というのはかなりの定員オーバーでした(定員は7人)。

蛮食会というのは,一種の闇鍋パーティーみたいなもので,アヤシげな肉――そう,さしずめ吉野家の狂牛丼用の牛肉など米国産の生ゴミ牛肉を鍋で煮て食するようなパーティーだったそうです。

ところで,若者たちが乗ったボートはもともとは巡洋艦松島に装備されていたものでした。

松島は日清戦争時の連合艦隊の旗艦でしたが,船体に比べて装備が重すぎ,黄海海戦のときは清の艦隊の目標になっただけで攻撃には役に立たなかったそうです。しかも松島はかなりの損傷を受けて旗艦機能を喪失したため,お荷物となって,敗走する清の艦隊を追撃することができなくなりました。さらにはのちに少尉候補生を乗せた遠洋航海で寄港した台湾で爆発事故を起こし,乗組員370人中207人が死亡しました。

ちなみに,黄海海戦といえば思い出す

♪まだ沈まずや定遠は

で有名(?)な軍歌「勇敢なる水兵」はこの松島が舞台です。

※参考文献: 上田 信道. 謎とき名作童謡の誕生 (平凡社新書). 平凡社, 2002.

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藤原効果と足尾台風

藤原効果とは

今年の8月に現われた台風10号と11号の間にも見られましたが,2個の台風が存在する場合に,中間のある点(重心)のまわりを反時計まわりに回転する相対運動を藤原効果といいます。経験的には台風間の距離が800km以内になるとはたらくといわれています。台風間ばかりではなく,例えば台風と上層寒冷低気圧(UCL)との間でも同じような現象が起こります。

藤原効果の“藤原”というのは,かつて中央気象台の台長(今の気象庁長官にあたるらしい)を勤めた藤原咲平博士のことです。ちょっと古い本には“お天気博士として有名な”とか書いてあったりしますけれど,確かに昔は有名人だったようですが,今となっては過去の人にすぎません。

島田守家『暴風・台風びっくり小事典』によると,藤原効果あるいは藤原の効果あるいはFujihwara effectということばをはじめて使ったのは,敗戦直後に日本に来ていた米軍の気象技術者ではないか,ということです。

また,同書によると,このことばが日本に広まったのは,1964年の台風14号と16号がきっかけだったようです。

1902年9月27日~29日の台風

記録上,藤原効果のもっとも古いと思われる例です。

「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに,当時はまだ颱風=台風ということばは登場していません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,やはり東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。

この台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」(≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると,
100km/hというとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが,これは64m/sではなく44.9m/sです。現在でも歴代2位の風速です。また,筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,これも72m/sになります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。さらに,新聞によると,各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山も大きな被害を受けましたが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,有名な田中正造前代議士による明治天皇への直訴事件は,前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

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壇ノ浦の合戦

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日),屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流,平家を西に追撃します。この間,平家についていた熊野水軍,河野水軍が義経軍に加わり,水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに,熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。

しかし,平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており,彦島を拠点に起死回生を図ります。

三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ),田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせがはじまりました。この前後,義経軍では,源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し,軍紀があってなきがごとしの源氏),昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙,決戦がはじまりました。

通説では,はじめは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが,午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転,源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。

しかし,柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると,このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず,主戦場になった満珠,千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで,1ノット=約 0.5m/s=約 2km/h です。

ついでですが,「1時間に10ノットの速さで……」というような文をたまに見かけることがあります。ノットknot自体が速さの単位なので,“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。

話を戻すと,0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは,その影響が多少はあったにしても,決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように,平家から源氏への武将の寝返りと,義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが大きかったと考えたほうが無難なようです。義経が強かったとすれば,このように当時の合戦の作法にはなかった卑怯な戦法をとったところが大きかったと思われます。

ところで,『平家物語』の壇ノ浦の合戦に関する部分には,天気に関する記述はほとんどありません。たまに見つけても,

しばしは白雲かとおぼしくて,虚空にただよひけるが,雲にてはなかりけり,主もなき白旗一流まいさがって,源氏の船のへに棹さをづけのおのさはる程にぞ見えたりける。

というような超自然現象だったりします。この現象は義経によって「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ」と源氏勝利の瑞兆とされました。

ちゃんとした天気の記述が見当たらないということは(見落としがあるかもしれません),この日は,見通しがよく,雨も降らず,風もない絶好の決戦日和?!だったということなのでしょう。

おもな参考文献: 柳 哲雄. 潮の満干と暮らしの歴史 (風ブックス (006)). 創風社出版, 1999.

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