明治三十五年の暴風雨と足尾銅山鉱毒事件

明治三十五年九月の暴風雨

1902年9月下旬,“台風”が日本列島に近づいていました。

「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに, 当時はまだ颱風=台風ということばは登場していませんし,(熱帯)颶風も使われていません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

どうやらもうひとつ,小笠原方面が北上してくる台風もあるようでした。

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。藤原効果の代表的な例としては1966年の24号と26号があります。

東側の台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」 (≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に 「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると, 100km/hというのちの洞爺丸台風なみのとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが, これは64m/sではなく,44.9m/sのようです。現在でも歴代2位の風速です。また, 筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,同じ比で換算すると72m/sとなります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。2011年12月31日付の神奈川新聞によると,現在の小田原市だけで死者・行方不明60人,負傷者343人,全半壊470戸,流失552戸などの被害があったようです。さらに各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

一方の西側の台風はというと,

二十六日琉球ノ南東遙カノ冲ヲ經過シ二十八日午後三時潮岬ノ東方ヨリ陸上シ五時大王崎ノ西方ヲ經テ同時三十分津ノ西方附近ヲ通過セリ

というわけで,東側の台風が上陸したのと同じ日にやはり上陸しています。

1日に複数の台風が上陸したのは1951年以降では1966年の24号と26号だけですが,それ以前ではこの明治三十五年の暴風雨を含めて三組あります(当社調べ)。

足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

東側の台風の中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山にも被害があったようですが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,田中正造前代議士による明治天皇への直訴(未遂)事件は, 前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。 最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

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リンゴ台風と箱庭

1991年9月27日16時過ぎ,台風19号(Mireille)が中心気圧935mb,中心付近の最大風速50m/sという“非常に強い”勢力で長崎県佐世保市の南に上陸しました。その後,加速しながら日本海を北東に進み,28日08時ごろ965mbで北海道渡島半島に再上陸,28日15時に千島近海で温帯低気圧に変わりました。

台風が非常に強い勢力で上陸し,勢力をほぼ維持したまま日本海を速い速度で北東に進んだため,沖縄から北海道まで全国で暴風が吹き荒れました。くわしくは気象庁の前線、台風第17、18、19号 平成3年(1991年) 9月12日~9月28日などを参考にしてください。

リンゴ台風

この台風はリンゴ台風とよばれています。青森県で収穫前のリンゴの70%以上が落下するという被害があったからです。ただ,農作物に限っても被害はリンゴだけではなかったのにもかかわらずリンゴ台風とよばれる理由はσ(^^;)にはわかりません。σ(^^;)的にはもっともしっくりくる通称ではあります。

台風の暴風にもめげずに落下しなかったリンゴの一部は落ちないリンゴとして受験生のお守りに珍重されていました。

当時受験屋だったし,近くの神社(谷保天満宮=通称ヤボ天)でも発売されていたので,よくおぼえています。値段はたしか悪税込みで1000円程度とだったような記憶があります。あくまでお守りなのでリンゴとしては高めでした。ご利益があったかどうかは……。

ちなみに,現在は落ちないりんご有限会社落ちないりんごの登録商標になっているようです。

箱庭

広島県の宮島にある厳島神社は,このリンゴ台風によって当時の新聞の見出しによると「創建以来の天災」に見舞われました。中国新聞9月28日付夕刊には次のようにあります。

同神社では二十七日午後七時半ごろ,突風のため能舞台と能楽屋の柱が折れ倒壊。屋根がそっくり砂浜に座る形になった。・・(中略)・・また,回廊中央部にある平安時代に建てられた左右門客神社,国宝の左右楽房のうち西側楽房が流失,東側楽房も大きく傾いた。回廊もあちこちで床板がめくれ上がり,通り抜けができなくなったほか,本社祓(はらい)殿などの屋根の軒先が壊れた。

神社職員らの話では,午後七時過ぎから,回廊に海水が上がり始め,ピークの午後十時半ごろには水位が回廊の上八十三センチに達し,手の施しようがなかったという。

そして台風一過の翌日,事件がはじまります。

AD1991/09/28 台風19号で大損害を受けた厳島神社の大鳥居付近に,男の変死体が流れ着く(内田康夫『箱庭』)

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台風と颱風

9月26日は台風の日といってもいいでしょう。伊勢湾台風狩野川台風洞爺丸台風がこの日,1日違いを含めれば,1991年のリンゴ台風19号,1953年の田舎まわり台風13号,1921年の颱風(新田次郎『迷走台風』のモデルだそうですがもちろん読んだことはないです)もそうだし,ちょっと調べればあと2つ3つは出てくると思います。なお,細かいことをいえば洞爺丸台風,狩野川台風の上陸は実はそれぞれ25日,27日です。

さて,かつては颱風が使われていたが,敗戦後台風が使われるようになったと一般にいわれています。実際,新聞ではおおよそ1947年以降は颱風は見られず,台風に置き換わっています。

ところが戦前の一時期,一部の新聞がすでに“台風”を使用していました。具体的には東京朝日新聞で1926~1930年ごろ“台風”が使われていました。

たとえば,1926年9月18日付朝刊には

市民を脅した台風過ぐ
東京はうまく免れ けふは天氣回復

とあります。

というわけで,“戦後「颱風」から「台風」の表記となった”というのは必ずしも正しくありません。

ちなみに,東京朝日新聞ではそれ以前はたい風を使用していました。例えば,1925年7月26日付朝刊には

行方不明者數十名 鹿兒島縣のたい風被害

とあります。それ以前は他紙と同じく“颱風”でした。

なお,“颱風”が使われるようになったのは,1908年に発行された岡田武松『気象学講話』が最初だといわれています。「気象要覧」では1911年8月から使われています。新聞ではσ(^^;)が見た範囲では1912年8月が最も古いです。

“颱風”の前は基本的には颶風が使われていたようです。

ついでですが,“台風”(実際には旧字である“臺風”)はそれ以前にも使われたことがあります。1903年に発行された『臺風雜記』という本のタイトルになっています。ただし,熱帯低気圧に関する本ではなく,台湾の風習などを紹介した本です。序文が後藤新平で,肩書きは民政局長になっています。

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外神田汁粉屋強盗殺人事件

1921年7月21日05時ごろ,東京・神田松永町の市電松永町停留所前にある汁粉屋「富士屋」に賊が忍び込み,物音に気づいて起きてきた主人の相沢武助さん(45)を惨殺,現金2円あまりを奪って逃走しました。

写真は6年前に撮った現場近くの今のようす。

DCF_0051

まわりにはメイド喫茶が林立しており,当たり前といえば当たり前ですが,87年の間にすっかり変わっていました。今はどうなんでしょう?

なお,この事件には続報があります。

※この記事は外神田汁粉屋強盗殺人事件 | 能天気Express Hyperの一部を書き換えたものです。

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44歳の女子高生事件

2001年6月25日の夕方,東京都世田谷区桜丘4丁目の路上でセーラー服にルーズソックス姿の16歳の高校1年生が男に髪を切られる事件が発生しました。

ところが翌日になって,この“16歳の高校1年生”は実は44歳のバ○アであったことが判明。口裂け女にも匹敵するとっても恐ろしい事件でした。

ちなみに,セーラー服にルーズソックスというスタイルは,当時としてももう時代遅れでした。それにセーラー服が制服の高校ってもともと少ないはずです,はい。

考えてみると,この人は被害者なんですよね。犯人はとっ捕まったのだろうか?

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サツキとメイ,トトロに会う

1952年6月23日,雨の中,サツキとメイがバス停でトトロに会いました。

6月23日というのは小学校の黒板に書いてありますが,問題は1952年のほうです。実は1952年とするにはかなり矛盾もあるのです。

お母さんが入院している病室のカレンダーがたびたび映ることがあり,それによると8月1日が金曜日になっています。また,同じことですが,7月1日が火曜日になっています。8月1日が金曜日になるのは 1947年,1952年,1958年といったところなので(今年も8月1日が金曜日です),1952年とするのがもっとも妥当だと思います。1958年の可能性が消えるのは,当時のデータを見ると1958年6月23日に雨が降ったとは考えられないからです。

ところが,となりのトトロの世界が1952年だとすると,6月23日は月曜日になります。しかし,黒板には

6月23日(水)

とハッキリ書かれています(原文はタテ書き)。この矛盾は説明がつきません。
日直が間違えて書いたのだろう……ということで(カレンダーはウソつかない(笑)),スッキリはしないのですが,σ(^^;)は1952年ということにしています。1952年説を唱えているのはおそらくσ(^^;)ひとりでしょう。1958年と考えている人が多いようです。

ちなみに,他の解決策がないことはありません。7月23日の間違いとすることです。かなり無理がありますが。このあたりは7月11日に予定されている放送を見てから考えることにしましょう。

ところでこの日(6月23日),ダイナ台風が紀伊半島に上陸しています。その影響もあって東京では39.8mmの雨が降りました。

そしてお父さんの帰りが遅くなったいいわけ。

電車が遅れてね,バスに間に合わなかったんだ。

もうおわかりでしょう。大雨の影響で電車が遅れたのです(ナットク(笑))

さらに,ダイナ台風は東京の真上を通過していきましたが,その実体はトトロが乗ったねこバスだったのかも知れません(笑)

※この記事はサツキとメイ,トトロに会う | 能天気Express Hyperを一部書き直したものです。

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ラブホテルの屋根 新幹線を止める (2004年)

2004年6月21日09時半ごろ,台風6号Dianmuが強い勢力のまま高知県室戸市付近に上陸しました。その後,

21日13時過ぎに兵庫県明石市付近に再上陸し,21日午後には京都府舞鶴市付近を通って日本海へ進み,能登半島の沿岸,佐渡沖を通って22日3時に津軽海峡の西で温帯低気圧に変わった。
(気象庁「平成16年台風第6号による6月18日から22日にかけての大雨と暴風」)

この台風は,加太海岸防波堤でのバカ3人組の“度胸試し”や静岡市高松の海岸での静岡大学モダンダンス部御一行様の“バーベキューパーティー”に加えて(これらの椿事については楽しい?!高波見物 (2004年) | Notenki Express 2014をご覧ください),やはり次の“事件”を抜きには語れません。

二十一日午後一時十分ごろ,近江八幡市西生来町で,ホテルの屋根が台風6号の強風に吹き飛ばされ,すぐ前の国道8号を越えて,約三十メートル離れた東海道新幹線の架線上に落下,電線四本を切断した。当時,新幹線は岐阜羽島-京都間で運行を見合わせていたため,惨事にはならなかった。

JR東海がクレーン車で屋根の撤去作業を続け,午後八時十分,約七時間ぶりに運転を再開したが,列車は運休が相次ぎダイヤは混乱した。

滋賀県警などによると,屋根は幅十メートル,長さ約四十メートルのトタン板製。ホテルは今年四月に改装オープンしたばかりで,トタン屋根は今年一月,雨漏り防止と断熱目的で従来の屋根を補強するため設置したという。

屋根は,高さ約二十メートルの位置にあり,強風にあおられ約四十メートルまで舞い上がった。架線に落下した際,トタン板の中央部分が折れ曲がって「く」の字型になり,架線全体をまたいだ状態になった。

ホテルの店長(五四)は「こんなことになるなんて,信じられない」と肩を落としていた。
(22日付京都新聞朝刊)

屋根が飛んだときに客がいたかどうかはわかりません。

このホテル,名前をかえて今も営業しているようです,はい。

※この記事は風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ(2004年) | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

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大蔵省炎上 (1940年)

♪あゝ 一億の民は泣く~と歌われた紀元二千六百年の1940年6月20日21時53分,麹町区大手町の逓信省航空局新館に落雷して炎上,火はみるみる広がり,航空局新館・旧館,農林省営林局,神田橋税務署,対満事務局,厚生省,大蔵省などが全焼しました。中央気象台の一画も焼けました。

「気象要覧」によると,このときの雷雲は17時30分ごろ荒船山の東斜面に発生し,御荷鉾山→群馬県藤岡町→熊谷市鴻ノ巣町→大宮町→浦和市と移動してきたもので,東京市で大暴れしたあと,23時10分ごろ千葉県勝浦町沖の太平洋で消滅しました。ひとつの雷雲がこのような長時間にわたって存在し続けるとは考えにくいので,おそらくマルチセル型だったのでしょう。

この年は奇しくも平将門公の没後1000年にあたっており,雷が落ちたのは将門公の首塚の近くでした。もともと大蔵省はこの首塚を取り壊そうとした経緯があるので,将門公のたたり再燃と噂されました。平将門は菅原道真の生まれ変わりという説もあるそうで,そうだとするとたたりの手段に雷を使ったというのも説明がつきます。

ちなみに,大蔵省本庁舎に落雷したとする文献やサイトがありますが,誤りです。そちらのほうが話としては面白いですが。

※この記事は大蔵省炎上 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。

付記

国会図書館の近代デジタルライブラリーで中央気象台彙報. 第17冊 昭和15年6月20日關東地方の大雷雨 雷雨報告という文献が公開されています。

20140620-1

興味のあるかたは検索してみて下さい。URLを貼るなどという親切なことはしません。

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楽しい?!高波見物 (2004年)

2004年6月21日の9時半ごろ,台風6号が室戸市付近に上陸,徳島市付近を通過し,13時過ぎに明石市付近に再上陸。死亡2人,行方不明3人,重軽傷19+99人などの被害を出して去っていきました(消防庁まとめ)。

死亡・不明の詳細は次のようになっています。

  • 6月18日……13時10分頃,東京都神津島村鴎穴の食道岩礁において,釣りに来ていた73歳男性が行方不明
  • 6月19日……19時30分頃,静岡県静岡市内の海岸において,21歳と20歳の男性2名が友人とバーベキューをしていたところ,高波にさらわれ行方不明(6月20日4時35分 20歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認),5時50分 21歳男性の遺体発見(同時刻,身元確認))
  • 6月20日……13時30分頃,和歌山県美浜町の煙樹ヶ浜において,19歳男性が友人と打ち際で遊んでいたところ,高波にさらわれ行方不明
  • 6月21日……13時30分頃,和歌山県和歌山市加太の大波止赤灯台付近において,26歳男性が友人と波を見物していたところ,高波にさらわれ行方不明

6月18日の件は不明ですが(最後になっていきなり出てきた不明者なので),あとの3件は似たり寄ったりです。要するに,波を見物に行ってその波にさらわれたという,事故というより自爆です。

2年前(2012年)の今ごろ台風4号が北上してきたときに,この2004年の6号について

九州から東海地方にかけて大雨を降らせ,死2,不明3,負傷者116人の被害

というような記事を見かけましたが,死者と不明者は上記の連中です。大雨は関係ありません。

ちなみに,2012年の4号が上陸したのは2年前の今日です。

加太海岸での自爆

6月21日に加太海岸で3人組が波にさらわれたときのようすは,ビデオカメラでバッチリ捉えられていました。テレビのナレーションにもありましたが,あの3人組は防波堤で度胸試しのようなことをしていたようです。3人組の「なぁんだ,たいしたことねえじゃねえか」「こんな波,チョロいチョロい」というような声が聞こえてきそうな波が何発か去ったあと,それまでの波とは比べものにならない高波が押し寄せ,アッという間に3人組をのみ込みました。

近くの漁船のそれこそ命がけの救助によって2人は救助されましたが,1人はそのまま外洋に流されたようです。

まあ,あえていわせてもらえばあんなヤツらを助ける必要はないと思いますが,漁師さんにとっては,自分たちの海があんなヤツらに穢されてたまるか,という思いがあったのかもしれません。

一発大波

海の波は,いろいろな高さの波が混じっています。人間の目に感じる波の高さは,全部の波を高いほうから並べたとき,高いほうから3分の1の平均くらい,といわれています。したがって,人間が感じるよりも高い波が必ず混じっているわけです。

そして,100波に1波はこの1.5倍,1000波に1波はこの2倍の高さになることが統計的に導かれます。これは“一発大波”とよばれます。おおざっぱに,波の周期をかりに6秒とすると,だいたい10分に1波,100分に1波は平均的な波の高さのそれぞれ1.5倍,2倍の波があらわれることになります。

なお,これはあくまで統計上の話なので,一発大波がいつあらわれるかは実際には予測ができません。

水の流れの怖さ

海岸では一発大波だけが怖いわけではなく,もともと水の流れは想像以上に怖いものです。底がしっかりしている流路でも,3m/s 程度の流れがあれば,30cm ほどの深さで歩行は困難になります(体験済み(笑))。3m/s といえばかなりの急流ですが,2m/s 程度の流れでも深さが 50cm もあればやはり歩行が困難になります。砂浜では砂自体が動きますから,なおさらです。ちなみに,子どもの場合は 1m/s 程度の流れがあれば深さ 30cm 程度でも歩行が困難になります。川や海では一瞬たりとも大人が目を離してはいけないということです。

6月19日の事故は,静岡大学モダンダンス部御一行様(総勢60人)がよせばいいのに静岡市高松の海岸でバーベキュー大会(一種の合コン?)を開き,部長の忠告を無視して波打ち際に遊びに行った数人のうちの1人が,尻もちをついた拍子に胸の高さまで水につかって波に引き込まれ,それを助けようとしたもう1人も波にのまれた……という事故のようです。水の怖さをなめてかかった,起こるべくして起こった事故でしょう。

ちなみに,海岸には離岸流(リップカレント)とよばれるハマるとたとえ北島康介やイアン・ソープでも逃げられないかなり恐ろしい流れがありますが,長くなるので,またの機会といたします。

ところで,静岡大学モダンダンス部御一行様は,もちろんちゃんとバーベキューのあとかたづけをして帰ったんでしょうねえ……。

小学生じゃあるまいに

6月19日の事故を受けて,静岡大の天岸祥光学長は次のようなコメントを発表しています。

今後は部活動の顧問教員などを通じ,危険な状況があれば,それに近づかないよう学生に注意を促したい。

なんか小学生を相手にしているみたいです。

海に行くときは,フジツボの恐怖のような作り話を怖がるよりも,海はもともと怖いところだということをしっかりと肝に銘じてほしいです。などとエラそうなことを書いているσ(^^;)はといえば,別の意味で海は怖いことをよく承知しているので,海には近づかないようにしています(笑)

ちなみに,この台風によって近江八幡市にあるラブホテルの屋根が飛び,東海道新幹線の架線を切断,7時間にわたって運休させるという珍事も発生しています。ラブホテルの屋根 新幹線を止める (2004年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

※この記事は楽しい?!高波見物 | 能天気Express Hyperほとんどそのままです。確かもともとはココログだったおぼえが。

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W杯日本代表大阪の悲劇

2002年6月14日,次のような記事がネットに流れました。

快挙達成目前で夢散る 日本代表「大阪の悲劇」(6/14 共同通信)

日本サッカー史に、大きな1ページが加えられるはずだった舞台が、暗転した。決勝トーナメント進出を目前にしながらの完敗。トルシエ監督に率いられた若い日本代表にとっては、悔やみきれない「大阪の悲劇」となった。・・・・・・

実際には,チュニジアに2-0で勝って決勝トーナメント進出を決めており,おそらく想定記事を間違って流してしまったのでしょう。

ちなみに,この日は次のようなことが心配されていました。

W杯で「道頓堀ダイブ」どうする 禁止する法見当たらず

 大阪府警が、14日のW杯対チュニジア戦で予想される大阪・ミナミの「道頓堀ダイブ」に悩んでいる。試合会場は、ミナミに近い長居スタジアム。横浜の対ロシア戦でさえ、飛び込んだ数は阪神タイガース優勝時の数十人を超えて140人に達した。だが、規制に法的な根拠はない。「けが人を出したくないが、あまりものものしくなるのも避けたい」と、気をもんでいる。

 日本がロシアに勝った9日夜、ミナミの戎橋で起きた騒ぎは府警の予想をはるかに上回るものだった。試合終了直後から若者が続々と集まり、「だれか飛び込めや」という声で1人がダイブ。歓声の後は、ニッポンコールを背に次々と川に落ちた。やじ馬も集まって身動きが取れなくなり、午後11時には機動隊員ら450人が出て、橋を通行止めにした。

 戎橋付近の道頓堀川の水深は約3.5メートル。意外に深いが、川底は自転車でいっぱいだ。大阪市河川管理事務所によると、半年に1度の浚渫(しゅんせつ)で、酔っぱらいが投げ込んだ自転車が100台以上出て来る。河川工事の関係でこの2年近く浚渫しておらず、沈んだ自転車でけが人が出かねない。1月には、酒を飲んで飛び込んだ男性がおぼれ死んでもいる。

 ただ、ダイブを阻止する法的根拠はない。警察官職務執行法で、「犯罪が行われようとするのを認めたとき」は制止できるが、川に飛び込むのは犯罪ではない。河川法が禁じるのは、川の流れを変えたり水を汚したりする行為で、「法的には、川はだれもが自由に利用できる」(大阪府)

~asahi.comより一部引用

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