桶狭間(山)の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

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チェーンメールで放射線のデマ拡大?!

チェーンメールで放射線のデマ拡大

という見出しの記事が,2011年5月16日付の読売新聞朝刊に載りました。

福島第一原発の事故に関連して,千葉県の柏,松戸,流山と,埼玉県の三郷の計4市で,飛び地のように放射線の観測数値が高くなる「ホットスポット」が発生しているといううわさがチェーンメールやツイッター,ネット掲示板などで広がっている。

文部科学省原子力災害対策支援本部は「千葉と埼玉で測定されている数値は平常値と変わらない」としており,日本データ通信協会迷惑メール相談センターは「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と注意を呼びかけている。(以下略)

これこそが悪質なデマ記事だったことは今さらいうまでもないでしょう。

読売新聞は次のようないい訳にもならない“いい訳”はしましたが,“お詫びと訂正”はしていません。

 東大が公開していた柏キャンパスの空間放射線量(地上1メートル)は、3月21日に毎時0・80マイクロ・シーベルトに達していた。後に国が定めた除染基準の毎時0・23マイクロ・シーベルト以上(同)よりは高いが、原発事故との関係が不明確で、紙面化は見送った。

 市民や研究者が測定した線量をインターネットで発信し始めると、住民に不安が広がった。本紙は県や市に取材したが、行政は東葛地域で測定しておらず、情報はなかった。

 こうした中、本紙5月16日付朝刊「震災掲示板」に、「チェーンメールで放射線のデマ拡大」との記事が載った。文部科学省の指摘などを引用し、柏市などで放射線量が高いといううわさは根拠がないとして警鐘を鳴らす内容だった。ただ、デマと決めつけられる根拠は乏しかった。
(2012年3月11日 読売新聞のWebニュースより)

最近では,『美味しんぼ』のせいで数百人の団体客が飯坂温泉の宿泊をキャンセルした,との福島テレビの報道にデマ疑惑が起こっています(【美味しんぼ】飯坂温泉大量キャンセルはデマだった可能性が – NAVER まとめ)。これがデマなら悪質どころの騒ぎではなく,もう立派な犯罪でしょう。

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雷雨の中の日本ダービー(1967年)

1967年5月14日の東京地方は朝から絶好の“ダービー日和”でした。ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出しました。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによる,いわゆる熱界雷 です。

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬か“静”ら“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念!
(5月15日付サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなりました。最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。ただ, 当時のハロンタイムは数字どおりには信用しないほうがいいようです。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりますが,そこから先,馬の識別ができません。私の場合は質の悪いビデオ画面で見ているせいもありますが,フジテレビで実況していた鳥居アナウンサーも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったそうです。

リユウズキはちょっとわかりませんが……

人気馬のポジションを正確に伝えていた鳥居アナにしては珍しい実況だと思います。

激しい雨をついて馬群が向こう正面から3コーナーへと進んだところでマイクがかなり大きな雷鳴を拾っています。

4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウに,ヤマニンカツプが外から,シバフジが内から並びかけて激しい叩き合いが300mほど続きましたが,アサデンコウが凌ぎきりました。

アサデンコウはレース中に左前肢第一指骨を骨折しており,しばらくして馬運車で運ばれていった――ともいわれていますが,次の日の新聞に口取り写真が載っています。これはどういうわけなんでしょう?

その後(それ以前も?),日本ダービーが雷雨の中で行なわれたことはありません。

なお,5月14日の日本ダービーは東京優駿大競走として創設されたころはともかくとして,5月下旬~6月上旬に定着して以降は異常に早い日程です。とくに調べてはいませんが,東京競馬場の改修によるものと思われます。

ところで,この日は東北地方南部から関東地方にかけてのやや広い範囲で積乱雲が発生しました。落雷により千葉県と福島県で5人が死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害がありました。5月15日付読売新聞より:

熱界雷大あばれ
四人感電死,降ヒョウ被害
十四日午後“五月の雷”が関東・東北をあばれまわり,千葉,福島両県で計四人が落雷のために死んだ。初夏の日ざしで気温が上がったところへ,北から冷たい空気がもぐりこんで起こした熱界雷というあばれん坊。

同日の毎日新聞:

雷雨,ヒョウ,大暴れ
四人感電死 農作物にも被害
十四日の日曜日午後,東北南部から関東一円にかけて各地で雷雨やヒョウが降り,感電死や農作物の被害を出した。これは同日朝からのむし暑い陽気で地表の空気があたたまったところへ,北から寒冷前線が早いスピードで南下してきたため各地で雷雲が発生,雷雨やヒョウを降らせたもので,群馬,栃木,茨城,埼玉,東京などでは,ことしはじめての雷雨注意報が発令された。気象庁は毎年五月の十五日から雷雨予報を出しているが,ことしは予報を待たずに一日早く“夏の訪れ”をふれ回った。

ついでにこの日の天気図を載せておきます(日本時間21時)。

  • 地上天気図

  • 500mb天気図

  • 850mb天気図

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メイストーム・イブ

1961年5月12日付読売新聞夕刊より:

五月のアラシ けさ最大風速20メートル

○…けさ出勤間ぎわの午前9時ごろから東京地方では横なぐりの強風とともにはげしいにわか雨があり,サラリーマン,BGなどがズブぬれになった。これは一昨日から記録破りのむし暑さをつづける“天候異変”とつながる現象。
○…日本海から北海道にかけて大きな低気圧があり,この谷間に向かってしめっぽい南の風が吹き込んでいるためだ。強風はけさ五時には瞬間二十・一メートルにもなる“メー・ストーム”(五月のアラシ)となった。

これが私が調べた範囲でのメイストームの新聞初出です。

というわけで,あす5月13日はメイストーム・デーです。したがって今日はメイストーム・イブ(ホントか?)。

5月13日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期(ホントか?)。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。明日に備えて今日のうちから準備しておきましょう。それが防災の心得です(ホントか?)。

でも,いくら備えてもダメなときはダメです。

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九十九里で津波被害(1877年)

1877年5月11日,九十九里に津波が襲来し,犠牲者が出たもようです。

この津波は1877年5月10日にチリ沖で発生したM9.0のイキケ地震による津波がはるばる太平洋を越えて到達したものです。

『日本被害津波総覧[第2版]』によると,太平洋沿岸各地で津波が観測され,チリ北部で死者多数,ハワイでは死者5人,家屋破壊37棟などの被害がありました。日本でも函館2.4m,釜石3m,東京湾0.7mなどの津波が観測されています。

14日付の読売新聞には次のようにあります。

午後四時過ぎ滿潮で凡そ一尺あまりも引汐になると又だんだんと二尺ほども揚て來たゆゑ海邊や川筋の者は膽をつぶし大地震でも有はしまひか何だか氣味の惡い變亊だと云てゐるうちに引てしまいひました・・・・

15日付の読売新聞には九十九里での被害のようすが次のように書かれています。

・・・・午後四時ごろに再び冲の方から大波を打よせ老若男女の周章は大たならず見る間に海岸が平ら一面の浪になり其内老人子供は泣々浪に引込まれ其きり命を捨たもあり九死をのがれて小高い所へ逃のびたも有て村々は死人怪我人が餘ほど有ツた樣子で實に眼も當られぬ憐れな亊なほ委しくハ跡よりと?して來ました

北上川で12日から洪水が起こり,13日には水位が“一丈”も上がったようですが,これについては11日の大雨による影響もあるかもしれません。

具体的な被害については『日本被害津波総覧[第2版]』にも

函館と三陸沿岸で被害があった。また房総半島で死者を含む被害があった。

とあるだけです。おそらく自治体編纂の地域誌にも記述がないのでしょう。

ちなみに,当時の新聞の同じ面には

二月十七日ハ西郷隆盛が鹿児島出立にて・・・・

などという記事があり,歴史を感じます。

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濃霧の紫雲丸沈没事故(1955年)

今年の4月16日に韓国のクヮンメド沖で起こったセウォル号の沈没事故は記憶に新しいところです。船長をはじめとする多くの船員のすさまじいまでのモラルの低さとともに,たくさんの修学旅行生が犠牲になった痛ましさが印象に残る事故です。

さて,59年前の今日,濃霧の瀬戸内海で国鉄宇高連絡船の客貨船紫雲丸が同貨物船第三宇高丸と衝突,紫雲丸が沈没し168人が犠牲となる事故が起こりました。犠牲者のうち100人が修学旅行生でした。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは06時40分でした。そして16分後の06時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,船長が死亡したため本当の原因は不明になっています。

既述のように,犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒,さらにその中の81人が女生徒でした。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらった旅行用の荷物や家族のために自分で買ったおみやげは大切なものだったのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったのではないでしょうか。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

また,1艘の小さな漁船が救助に大活躍し,50人近くの命を救ったそうです。

紫雲丸の中村正雄船長は退船を拒否してブリッジに残り,船と運命をともにしました。ただ,このことが事故の原因をわからずじまいに終わらせる結果になりました。

ところで,当時の天気図を見ると,中国の気象データがすべて空白になっています。

19550511-09

中国(中共)が気象管制を敷いていたためで,解除されたのは1956年6月になってからです。ちなみにその直後,のちの日本ダービーに大きな影響を及ぼすことになるあの事故が起こります。詳しくはダービーはなぜ5月下旬か[再] | Notenki Express 2014をご覧ください。

ブリンカーをしていないので話がそれました。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

参考文献: 萩原 幹生. 宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか. 成山堂書店, 2000.

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慶大生と心中した令孃の死體盜まる

タイトルは1932年5月11日付東京朝日新聞夕刊の見出しから。

慶大生と心中した令孃の死體盜まる
假埋葬中竒怪な亊件

ちなみに同日の読売新聞夕刊の見出しは

情死した令孃の死體を盜み去る
大磯心中の怪亊件

事件の発端は,1932年5月9日に大磯駅裏の坂田山で男女の心中と思われる死体が発見されたことです。男性は慶應大の制服姿で,女性は錦紗の和服姿で死んでいました。

当時の新聞を見ていると心中事件はとくに珍しくはなく,これだけだったらさほど注目されることもなかったでしょう。実際,例えば東京朝日新聞の第一報の見出しは小さく,となりの

母子心中で死んだ妻を追って自殺
川崎怪死體身許判る

のほうがはるかに目立ちます。

ところが翌10日になって女性の死体が夜のうちに盗まれていたことがわかり,猟奇事件として注目を集めることになります。ここから先は私の守備範囲からはずれますので,坂田山心中事件 – Wikipediaとか坂田山心中事件(事件史探求)などをご覧ください。

実はこの事件の後日談的な話を心霊現象的なこわい話を扱った本で見たことがあるようなおぼえがあるのですが,何だったかなぁ……。

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井の頭公園に他殺死体!!

1994年5月10日の深夜,井の頭公園で週刊誌記者の他殺死体が発見されました。(内田康夫『幸福の手紙』)

この作品が出版されたのは1994年8月でしたが,同年4月に井の頭公園バラバラ殺人事件が起こっており,『浅見光彦のミステリー紀行第7集』によるとやはりこの事件を多少参考にしたようです。

幸福の手紙は今のところ1度も2時間サスペンスドラマ化されていません。理由はわかりませんが,“捜査中”の事件と似たような事件が出てくるからなのかもしれません。

ちなみに,井の頭公園バラバラ殺人事件は犯人が見つからないまま2009年4月23日に公訴時効が成立しています。

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赤坂ワイドホテルで変死体

5月8日,赤坂ワイドホテルで弘前の古本店主の変死体が発見されました。(内田康夫『津軽殺人事件』)

津軽殺人事件が2時間サスペンスドラマ化されたのは1回だけです。

  • 20011130 金曜エンタテイメント 浅見光彦シリーズ13 津軽殺人事件 “幻の太宰治肖像画の怨霊が死を招く・・・殺された父が残した謎の言葉と消えたコスモスが真相を暴く!”

“榎木光彦”です。

ちなみに,榎木孝明氏は次作のシリーズ14 黄金の石橋を最後に光彦から兄の警察庁刑事局長の陽一郎に“昇格”しています。ただし刑事局長としての登場はシリーズ17の秋田殺人事件からです。

なお,津軽殺人事件が月曜ゴールデン(または前身の月曜ミステリー劇場)でドラマ化されなかった理由はわかりません。

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親王塚前に中年男の死体

5月3日,長野県南佐久郡相木村の親王塚前で中年男の死体が発見されました。(内田康夫『菊池伝説殺人事件』)

相木村は実在せず(実在するのは南相木村と北相木村),親王塚もまた

役場で親王塚の場所を聞いたのだが知らなかった。軽井沢のセンセの想像の場所らしい。(『浅見光彦のミステリー紀行第4集』)

とのことです。

菊池伝説殺人事件は2回2時間サスペンスドラマ化されました。

  1. 20050401 金曜エンタテイメント 浅見光彦シリーズ21 熊本・菊池伝説殺人事件 “清少納言から西郷隆盛伝説の一族を襲う連続殺人!”

  2. 20110207 月曜ゴールデン 内田康夫作家30周年浅見光彦シリーズ29 菊池伝説殺人事件 “火の国熊本で出会った謎の美女と名門一族を襲う連続殺人!一門の掟と哀しき恋・光彦が見た血塗られた記憶”

両ドラマとも秩父事件の扱いがあまりにもヒドかったです。

さらに月曜ゴールデンのほうは内田康夫作家30周年などと仰々しい副題がついているにもかかわらず,駄作に近いドラマでした。なにより沢村光彦の老け具合が……。

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