藤原効果と足尾台風

藤原効果とは

今年の8月に現われた台風10号と11号の間にも見られましたが,2個の台風が存在する場合に,中間のある点(重心)のまわりを反時計まわりに回転する相対運動を藤原効果といいます。経験的には台風間の距離が800km以内になるとはたらくといわれています。台風間ばかりではなく,例えば台風と上層寒冷低気圧(UCL)との間でも同じような現象が起こります。

藤原効果の“藤原”というのは,かつて中央気象台の台長(今の気象庁長官にあたるらしい)を勤めた藤原咲平博士のことです。ちょっと古い本には“お天気博士として有名な”とか書いてあったりしますけれど,確かに昔は有名人だったようですが,今となっては過去の人にすぎません。

島田守家『暴風・台風びっくり小事典』によると,藤原効果あるいは藤原の効果あるいはFujihwara effectということばをはじめて使ったのは,敗戦直後に日本に来ていた米軍の気象技術者ではないか,ということです。

また,同書によると,このことばが日本に広まったのは,1964年の台風14号と16号がきっかけだったようです。

1902年9月27日~29日の台風

記録上,藤原効果のもっとも古いと思われる例です。

「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに,当時はまだ颱風=台風ということばは登場していません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,やはり東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。

この台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」(≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると,
100km/hというとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが,これは64m/sではなく44.9m/sです。現在でも歴代2位の風速です。また,筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,これも72m/sになります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。さらに,新聞によると,各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山も大きな被害を受けましたが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,有名な田中正造前代議士による明治天皇への直訴事件は,前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村

暴風雨の中の惨劇その後

1949年9月3日朝8時半ごろ,隅田川に男の死体が浮かびました。男は荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅在住斎藤作次(61)。

どこかで見た名前。そう,台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される | Notenki Express 2014の事件のあと姿を消していた被害者の父親です。

以下,当時の新聞より。

去る一日荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅内露天商斎藤作次(六一)長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で絞殺されていた事件につき警視庁捜査一課では南千住署と協力,前夜から姿を消している父親作次の行方を探していたが三日朝八時半ごろ同都営住宅裏の隅田川に水死体となって発見された検視の結果死後卅時間以上を経過しており,死体の首にはこぶし大の石三個を入れたズツクの鞄が細ひもで縛りつけてあつたので娘を絞殺し無理心中をとげたものとみられる。生活苦から前途を悲観したものらしい(9月4日付読売)

首に娘を絞め殺したのと同じ麻ひもを二重に巻き,その先にズックの手提げカバンに子供の頭大の石三つ,鉄ビンのふたなどを入れてつるし河に飛び込んだらしく遺書はないが最近商売不振のうえ妻を戦災で失くし息子が未復員で父娘の二人暮らしでさびしがつていた点などからあらしの夜発作的に無理心中したものと見られる(9月4日付毎日)

ということで,暴風雨の中の惨事は無理心中ということで幕が引かれました。

ただ,どうも腑に落ちない点があります。作次はどこから隅田川に飛び込んだのでしょうか。少なくとも新聞記事からではわかりません。家のすぐ裏から飛び込んだのだとすると,いくら滑走斜面側とはいえかなり下流に流されるはずです(何かに引っかかったというのなら別ですが)。増水していたことも考えに入れると,かなり上流から飛び込んだと考えざるを得ません。でも,かりに岩淵水門より上流に飛び込んだとすると,荒川放水路(現,荒川)から東京湾に出たはずです。

まあ,今さら考えてもどうにもなりませんが。しかもシロウトの考えることですし。ただ,捜査が尽くされたかどうかは疑問です。

と,2時間サスペンスファンのただの野次馬として書いてみました(笑)

にほんブログ村 テレビブログ 推理・サスペンスドラマへ

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村

(2015/08/31(Mon)一部修正)

稲村ジェーン

1950年8月30日09時に小笠原の西方海上で確認された熱帯性低気圧(当時の用語)が西北西に進み,9月1日15時に台風となりました。これがジェーン台風です。このときの中心気圧は975mbと推定されています。 台風は発達しながら北西~北北西に進み,2日15時に四国の南方海上に達したときには940mbまで発達しました。

このあたりで進路を北に変え,3日の午前中には室戸岬をかすめ,速度を速めながら正午ごろ神戸市垂水付近に上陸しました。神戸では3日12時10分に964.3mb,最大風速33.4m/s,最大瞬間風速47.6m/sを観測しました。

気圧の低下と吹き寄せる風の影響で,大阪での潮位は満潮面上2.1mに達したと推定され,これに満潮が重なったために,西大阪から兵庫県南東部にかけては一面の海と化しました。

ジェーン台風による被害は,死者336,不明172,負傷10930,住家破損56131,浸水166605などとなっています。

稲村ジェーン(1990年)という映画は,ジェーン台風のときに稲村ヶ崎にやってきたという伝説のビッグウェーブ「稲村ジェーン」を待つ1960年代中ごろの若者たちの夏を描いた映画(らしい)です。私はサーフィンには何の興味もないので,ホントに「稲村ジェーン」なるビッグウェーブがやってきたかどうかは知りませんし,波にも詳しくありませんが,ジェーン台風の発生位置や進路から考えると,とくにいい波がやってきたとは思えません。いい波をもたらしそうな台風なら他にいくらでもあったと思います。伝説はあくまで伝説でしょう。

某著名ミュージシャンが監督を務めたこの映画は,今では伝説ともいえる駄作中の駄作で,やはり天は二物を与えなかったとか,本来ならタダで見せるべきプロモーション映画をカネを取って見せるとはとんでもないとかいわれていました。映画の評判はともかくサントラ盤はバカ売れしたそうなので,某著名ミュージシャンはウッシッシッだったことでしょう。

1953年から女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて,気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で,1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。その後,2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。

なお,ジェーン台風については次もご覧ください。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村

※2015/09/03(Thu) リンク先追加

台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される

一昨年はハローキティ誕生30周年とのことで(http://kitty30.com/),各地で(?!)いろいろなイベントが行なわれたらしいです。見かけによらず意外と年とっているんですね(笑)

そのハローキティ,今でこそみんなに愛されるキャラクターになっていますが,その前世は恐ろしい台風だったという衝撃の事実(?!)をご存じでしょうか。

ハローキティが誕生する25年前の1949年8月28日,マーシャル群島北方のマーカス島近海で台風が発生し,キティと命名されました。

キティはその後西北西に進み,30日21時には鳥島の東方約200kmの海上に達し,ここで進路を北西に変え,31日10時ごろ八丈島を通過しました。このとき八丈島では約1時間にわたって眼を観測,また最低気圧957.3mb,最大風速33.2m/s,最大瞬間風速47.2m/sを記録しました。

そして17時ごろ針路を北に転じ,速度を速めながら19時すぎに小田原の西に上陸しました。このときの中心気圧は960mbと推定されています。その後東京の西部,熊谷付近を通過して,二百十日の9月1日00時には日本海に抜けて温帯低気圧になりました。

Image from Gyazo

キティの通過が満潮時と重なったため,東京の潮位は3.15mを記録するなど,東京湾では1917年以来の高潮に見舞われました。このため江東区の南砂町では約5000人が孤立,また横浜港では船舶の沈没・流出が134隻に達するなど,開港以来の惨状を呈しました。

雨は総量としては少なかったのですが,山間部の東および北東斜面で比較的短時間に多量に降ったところがありました。群馬県の勢多郡東村沢入地区では土石流によって31人が犠牲になりました。また桐生市では渡良瀬川の堤防が決壊し,30人が死亡または不明になりました。

キティ台風による被害は死者不明160,負傷479,破損住家17203,浸水144060,船舶2907に及びました。

ところで,翌2日の新聞に気になる事件の記事が載っています。

一日朝九時ごろ荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅止宿,露天商斎藤作次(六一)さん長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で黒のモンペ姿のままうつ伏せとなり絞殺されているのを隣家の石井商二(五七)さんらが発見,南千住署汐路橋派出所に届け出た……犯行時刻は同地一帯が浸水のため付近の学校に避難した午後九時半過ぎらしく室内は台風準備がキチンとされ紛失物も暴行された形跡もないが卅一日夜まで登美子さんと一緒にいた父作次さんの姿が見えぬのでその行方を探している
(9月2日付読売)

現場の自宅は台風で水びたし,ガラス戸が壊れ家具も散乱していた。(9月2日付朝日)

要するに,荒川区南千住で1日09時ごろ,台風で水びたし,ガラス戸も壊れている住宅の中から,若い女性の絞殺死体が発見されたというのです。しかも父親は行方不明。犯行はキティ台風の暴風雨の最中に行なわれたらしい……。

被害者の女性は汐路小町とよばれる美人だったそうです。

この事件は解決したのでしょうか。気になります。気になるその後については暴風雨の中の惨劇その後 | Notenki Express 2014をご覧ください。

このキティ台風のように,敗戦直後のある時期,細かくいえば1947年から1952年にかけて,台風には英語の女性名がつけられていました。最初に女性名がついたのは1947年の3番目の台風で,キャロルCarolでした。そして,この年に東京の下町を水没させたカスリーン台風によって,この女性名シリーズが一般に認知されたようです。

カスリーン台風の後も,毎年のようにアイオン(1948),デラ(1949),上で紹介したキティ(1949),そしてジェーン(1950)などがやってきて大きな被害をもたらしました。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村

にほんブログ村 テレビブログ 推理・サスペンスドラマへ

[2015/08/31(Mon)] 一部修正
[2019/08/31(Sat)] 台風の経路図追加

キャンプ中の中州に濁流 9人死亡

川の中州でキャンプしていたところを増水によって流された……という事故としては,1999年8月14日に起こった玄倉川での事故がDQNの川流れとして有名です。しかし,いまからちょうど40年前の1966年8月14日,同じような事故が宮崎県の境川で起こりました。

宮崎市立青島中学校では8月12日から14日の予定で,地区ごとの生徒会がそれぞれ校外活動を行なうことになっており,青島七区会は山之口町営青井岳キャンプ場でキャンプを行なう予定を立てていました。メンバーは,生徒女子9人,男子2人,引率の教師2人の総勢13人。

12日にさっそくテントで泊まるつもりでしたが(キャンプに来たのだから当然といえば当然),貸しテントに余裕がなかったため(このあたりからすでに計画に齟齬が生じている?),この日は近くの山之口中学天神分校で1泊することになりました。

13日には貸しテントに余裕ができたのと,どうしてもテントで寝泊まりしたいという生徒の希望もあり,テントを張ることになりますが,なんと生徒が希望するまま川の中州に張ってしまったのでした。このとき,キャンプ場の管理人は悪天候を警告しましたが,教師は2人とも聞き入れませんでした。ちなみに,川の中州はキャンプ場の管理外でした。

このころ,“弱い熱帯低気圧”(死語)が沖縄付近をゆっくりと北上していて,14日未明には台風13号になりました。この影響で,紀伊半島から西の太平洋側と九州では断続的に強い雨が降っており,国鉄日豊線や日南線が不通になるなどの被害が出ていました。宮崎地方気象台では13日10時30分に大雨に関する情報を出しています。

14日6時半ごろ,教師の1人が目を覚ましたときにはテントの足もとまで水が来ていました。危険を察知したこの教師は,ロープを対岸に投げ,そのロープを伝って救援を求めに行きました1

救援隊が駆けつけ,中州の12人にロープを投げましたがうまくいかず,「ロープをつかんでからだに巻け」と叫んでも濁流にかき消されました。当時はレスキュー隊のような高度に訓練された組織はなかったので,救援隊といってもできることは限られていました。

9時30分ごろ,中州に残った12人はいよいよ危なくなり,テントを浮き袋がわりにして川を渡ろうとしましたが,すぐに濁流にもまれ,男子2人と教師1人は岸にたどり着き,女子1人が近くの岩にしがみつき,女子8人が流されました。

結局,岸に泳ぎ着いた男子2人と岩にしがみついた女子1人のみが助かり,流された女子8人と,いったんは岸にたどり着いたものの再び濁流に戻っていった教師1人の合わせて9人は帰らぬ人となりました。

1966年当時から川の中州でのキャンプは危ないという認識はあったようです。しかも大雨による各地の被害が報じられているのにキャンプを強行したというだけでなく,あろうことか中州にテントを張ったということがこの事故の原因であることは明らかであり,100%引率した教師の責任であるといっても過言ではないでしょう。

しかし,業務上過失致死を問われた裁判でなぜか無罪になりました。あまり信用できる資料ではないですが,「全く異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実に基因するものである」というのがその理由です。何をもって“異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実”とするのかこれだけではわかりませんが,仮に同じ事故がいま起こったとすると,おそらく有罪になります。当時よりも気象情報は簡単に入手できますし,安全に対して責任ある立場の人間が無知を理由に免罪されてはいけません。

それにしても,この事故から33年も経った1999年の同じ日に再び同じような事故が注目されるとは,一部のDQNな人間の所行とはいえ,つくづく人間って何の進歩もない存在だと知らされます。

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村


  1. 新聞によって救援要請への行きかたが違います。 

慶應艇2回目の沈没~早慶レガッタ~

早慶レガッタの歴史を見ると,1957年1の他にもう1回慶應艇が沈没したことがあります。

それは1980年4月20日の第49回大会でした。

当日09時の天気図を見ると,中国東北部に発達した低気圧があり,寒冷前線が日本海側の沿岸沿いにのびていて,日本の東海上にある高気圧との間で気圧の傾きが急になっています。このため,東京では朝から南南西~南西の強い風が吹いていました。次の表は,大手町で観測された1時間ごとの風速と風向です。この日の最大風速は11.4m/s(SSW),最大瞬間風速は24.8m/s(SSW)でした。データがないのでハッキリとはわかりませんが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

+-------+---+---+---+---+---+---+---+---+---+---+---+
|時刻   |  8|  9| 10| 11| 12| 13| 14| 15| 16| 17| 18|
|風速m/s|  6|  9| 10| 10|  8|  8|  8|  8|  8| 10|  8|
|風向   |SSW| SW| SW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW|SSW| SW|SSW|
+-------+---+---+---+---+---+---+---+---+---+---+---+

隅田川は,水神橋付近から早慶レガッタのスタート地点(当時)である両国橋付近までおよそ南南西に流れています。そのため南~南西の風が吹くと水の流れと風が逆向きになり,波が立ちやすくなります。

この日も30~40cmの波が立っていました。この悪コンディションのため,レースは4000mから3300mに短縮されて行なわれることになりました。

レースは14時55分にスタート。ところが,ふつうのレースのような競り合いが見られたのは100mまででした。慶應艇「サスケハンナ号」はスタート直後から浸水が激しく,漕ぎ手を6人にして残り2人はアルミ椀を使って水を汲み出していました。一方の早稲田艇「いだてん2世号」は波除け板を艇の先端につけたのが功を奏して浸水をかなり防ぐことができ,すいすい進んで行きます。

慶應は漕ぎ手を6人から4人にし,ついにはコックスも水の汲み出しに参加しますが,ゴール前100mでついに沈没しました。

早稲田艇も終盤は浸水がはじまったので漕ぎ手を6人にしましたが,14分36秒で余裕でゴールしました。

ちなみにこの日,強風の影響を受けたのは早慶レガッタばかりではありません。横須賀沖では学生のヨット3隻が転覆する事故が起こり,鉄道関係では強風で飛ばされたビニールが架線に引っかかって東海道新幹線15本に遅れが出ました。また,前日の19日にはフェーン下の出雲市で23戸を焼く火災が発生しています。

ところで,この早稲田の勝利には,実は2年前の苦い経験がありました。それについては次回で2

ブログランキング・にほんブログ村へ


  1. あらしのボートレースとよばれる早慶レガッタ史上最も有名なレース。あらしのボートレース | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 
  2. 隅田川にもどった早慶レガッタ (1978年) | Notenki Express 2014参照。[20150419付記] 

壇ノ浦の合戦

元暦二(寿永四)年二月十八日(ユリウス暦で1185年3月21日),屋島の奇襲に成功した源義経は兄・範頼と合流,平家を西に追撃します。この間,平家についていた熊野水軍,河野水軍が義経軍に加わり,水軍の勢力は一気に逆転しました。ちなみに,熊野水軍を率いる熊野湛増は武蔵坊弁慶の父親だという伝説もあります。

しかし,平家側にはまだ九州を地盤とする強力な水軍がついており,彦島を拠点に起死回生を図ります。

三月二十四日卯の刻(ユリウス暦で1185年4月25日午前6時ごろ),田野浦に待ち受ける平家軍と義経軍との間で合戦の合図である矢合わせがはじまりました。この前後,義経軍では,源義経と梶原景時との間で先陣をめぐってあわや同士討ちという場面もありましたが(軍紀がしっかりしている平家に対し,軍紀があってなきがごとしの源氏),昼ごろまでには平家軍主力と義経軍主力が約3kmを挟んで対峙,決戦がはじまりました。

通説では,はじめは平家軍が潮の流れに乗って義経軍を攻めたてたが,午後1時半ごろ潮流が変わると形勢逆転,源氏が潮の流れを利用して一気に平家を滅ぼしたとされています。

しかし,柳哲雄『潮の満干と暮らしの歴史』によると,このときの潮流はもっとも速い壇ノ浦沖でも1ノットに満たず,主戦場になった満珠,千珠島付近では0.2ノットに満たなかったそうです。ここで,1ノット=約 0.5m/s=約 2km/h です。

ついでですが,「1時間に10ノットの速さで……」というような文をたまに見かけることがあります。ノットknot自体が速さの単位なので,“1時間に10ノット”の速さというのはまったくもって意味不明です。

話を戻すと,0.2~1ノット弱程度の潮の流れでは,その影響が多少はあったにしても,決定的な要因とは考えられません。『平家物語』にもあるように,平家から源氏への武将の寝返りと,義経軍のとった非戦闘員である水夫を狙い撃ちにするという“卑怯な”戦術によるところが大きかったと考えたほうが無難なようです。義経が強かったとすれば,このように当時の合戦の作法にはなかった卑怯な戦法をとったところが大きかったと思われます。

ところで,『平家物語』の壇ノ浦の合戦に関する部分には,天気に関する記述はほとんどありません。たまに見つけても,

しばしは白雲かとおぼしくて,虚空にただよひけるが,雲にてはなかりけり,主もなき白旗一流まいさがって,源氏の船のへに棹さをづけのおのさはる程にぞ見えたりける。

というような超自然現象だったりします。この現象は義経によって「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ」と源氏勝利の瑞兆とされました。

ちゃんとした天気の記述が見当たらないということは(見落としがあるかもしれません),この日は,見通しがよく,雨も降らず,風もない絶好の決戦日和?!だったということなのでしょう。

おもな参考文献: 柳 哲雄. 潮の満干と暮らしの歴史 (風ブックス (006)). 創風社出版, 1999.

にほんブログ村 環境ブログ 天気・気象学へ
にほんブログ村