明暦の大火

麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。

お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,またまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。

お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日(1657年3月2日),娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がりました。火はみるみるうちに燃え広がり,江戸市中の6割を焼失し,10万人以上の犠牲者を出すという大火災になりました。

↑というのが「明暦の大火」,あるいは「振袖火事」に関するいい伝えで,江戸時代の怖い話を扱った本などにときどきのっています(文献によって多少異なっていたりします)。ただ,記録によるとこの日は朝から北西の風が吹き荒れており,こんな日に法要とはいえ振袖に火をつけるかという疑問があり,また,お寺で一目惚れするというのは八百屋お七の話に似通っており,おそらくお七の話を真似てつくられたのだろう……というのが定説になっています。そういえば,必殺シリーズのひとつ「必殺仕事人・激突」に「八百屋お七の振袖」というのがありました(1991年10月29日放送)。

いい伝えはともかくして,この冬シーズンの江戸では,十一月以来一滴の雨も降らない乾燥状態が続いていて,各地の井戸も涸れていました。そんな中,正月十八日の午後1時ごろ本妙寺から出火,折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しました。ところがホッとした矢先のその十九日の午前11時ごろ,新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,風向きが前日と変わったのか今度は東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城の天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。火はおさまりましたがこの夜から大雪となり(南岸低気圧によるものか),凍死者が続出しました。

出火元については実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあり,謎に包まれています。σ(^^;)的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりします。

とはいうものの,かりに新しい証拠が見つかったとしても,もうとっくの昔に時効になっていますから,再捜査が行なわれることはないでしょう。

この時代の江戸に火災調査官紅蓮次郎がいれば,ちゃんと解決していたかもしれません。

火災現場は一期一会だ。はいつくばって灰の中から掘り起こせ。真実は必ず灰の中にある。

って土曜ワイド劇場の見過ぎですね……(^^;)

写真は,本妙寺跡付近(と思われます)。ちなみに,本妙寺はいまは巣鴨に移転しています。

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