眞白き富士の根緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみ霊に
捧げまつる胸と心
1910年1月23日,七里ヶ浜沖で第二開成中(現・逗子開成中高)のボートが転覆して生徒12人(1人は小学生)が全員死亡するという事故が起こりました。直接の原因は,行合川にそって吹き降ろしてくる強風帯に定員オーバーのボートが遭遇したためのようです。
この「七里ヶ浜の哀歌」は,12人の生徒の追悼式で鎌倉女学校の生徒によって歌われた歌です。本来“富士の根”が正しく,“富士の嶺”はあとで誰かが勝手に書き換えたものだそうです。作詞は三角錫子・同校教諭ですが,実は当時女学生の間で歌われていた「夢の外」という歌の替え歌で,さらに「夢の外」が聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌でした。
大正期にバイオリン演歌師たちによって広められ全国区の歌になりましたが,なぜか曲調は短調になっていました。短調にして歌ってみるとわかりますが,せっかくの美しいメロディーがいかにもお涙頂戴的な品のないメロディーになってしまいます。
ところで,σ(^^;)も最近まで知りませんでしたが,死亡した12人のうち6人は20歳以上の屈強な若者でした。この点,2番の
風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶなは父母
はかなり現実にそぐいません。
しかもこの連中,今流にいえばかなりのDQNでした。一部ではこの若者たちは病気の女教師を見舞うためにボートを乗り出したということになっていますが,それは1935年公開の映画の作り話で,実際には蛮食会に供するための鳥を撃ちにいったのでした。しかも,ボートを使うときには2人の教師の許可を得なければならない決まりだったのに,教師が2人とも外出していることをいいことに無断で漕ぎ出したのでした。さらに,12人というのはかなりの定員オーバーでした(定員は7人)。
蛮食会というのは,一種の闇鍋パーティーみたいなもので,アヤシげな肉――そう,さしずめ吉野家の狂牛丼用の牛肉など米国産の生ゴミ牛肉を鍋で煮て食するようなパーティーだったそうです。
ところで,若者たちが乗ったボートはもともとは巡洋艦松島に装備されていたものでした。
松島は日清戦争時の連合艦隊の旗艦でしたが,船体に比べて装備が重すぎ,黄海海戦のときは清の艦隊の目標になっただけで攻撃には役に立たなかったそうです。しかも松島はかなりの損傷を受けて旗艦機能を喪失したため,お荷物となって,敗走する清の艦隊を追撃することができなくなりました。さらにはのちに少尉候補生を乗せた遠洋航海で寄港した台湾で爆発事故を起こし,乗組員370人中207人が死亡しました。
ちなみに,黄海海戦といえば思い出す
♪まだ沈まずや定遠は
で有名(?)な軍歌「勇敢なる水兵」はこの松島が舞台です。
※参考文献: 上田 信道. 謎とき名作童謡の誕生 (平凡社新書). 平凡社, 2002.