5月31日,世田谷区代田のマンションの部屋で,その部屋の住人の女性の毒殺死体が発見されました。(内田康夫『幸福の手紙』)
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0点を苦に飛び降り自殺!?(高島平団地)
1978年5月30日,高島平団地で,小学5年の宮脇敏夫がテストで0点を取ったのを苦にして飛び降り自殺しました(島田荘司『展望塔の殺人』)。
このあと,同じような自殺が続くことになります。
それにしても,公立小学校や中学校あたりでのテストでは,わざと0点を取ろうとでもしない限り,0点なんてそう簡単には取れないと思いますけどねえ……(笑)
虎が雨
阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,
阪神って今年も最下位なんですか?
さて,「虎が雨」とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありませんので注意してください。
建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜,
曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。
寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の「十番切り」とよばれる乱戦の中で,兄十郎は朝比奈四郎に討たれ,
弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。
十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」
であると伝えられています。「兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き,
そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの」(『曽我物語の史実と虚構』)のようです。
『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。
小雨降る。日中以後霄(は)れ。……
まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」
のときは
雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。
とあり,激しい雷雨だったようです。
ただ,午前中は小雨で深夜に雷雨というのは,あり得ないことではないといえしっくり来ません。この年は空梅雨だったらしいですから,
小雨は考えにくく,深夜の雷雨のほうが天気としてはありそうです。空梅雨でも一時的に太平洋高気圧が後退して上空に寒気がはいってくれば,
大気が不安定になるからです。
江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。
泥足で工藤が夜具をはね除ける
しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので,
兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないとなけなしの金で買ったらしい松明が消えてしまいます(
「なけなしの銭で松明二本買ひ」という詠史川柳もある)。
ダービーへの人波に暴走車
1987年5月31日08時25分ごろ,東京都府中市の通称「宮町銀座通り」で,オートマ車が急発進して約50m暴走,
歩行者の列に突っ込みました。この事故で2人が死亡,6人が重軽傷を負いました。
当時しばしば発生していたオートマ車の急発進による事故です。
犯人は会社員白石順章(52)。当時の新聞は“容疑者”などという“敬称”がなく,すっきりしていて読んでいて気持ちがいいです。
この日,東京競馬場では第54回日本ダービーが行なわれました。歩行者の多くは東京競馬場に向かっていたようです。
ちなみに,勝ったのは4番人気メリーナイス,2着は今ではあり得ない22番人気サニースワローで,
連複6280円の当時としては高配当でした。
そのご京王線府中駅が高架化した影響で,このあたりの街のようすは当時とだいぶ変わっています。道も広くなっていると思います。
今は東京競馬場の行き帰りにここを通る人は多くないと思います。
ついでですが,今朝の“開門ダッシュ”で少なくとも2人が負傷,その内の1人は救急車で病院に搬送されたようです(開門は7時10分)。
5月27日の日本ダービー
今年の日本ダービーは明日,5月27日に行なわれます。大げさにいえば,5月27日は日本ダービーの歴史を語る上で重要な日です。この日に行なわれたことは過去6回ありますが,ここではそのうちの3回について取り上げます。
まず,1973年。単勝支持率史上最高66.5%のハイセイコーが敗れたのはこの日でした。
当時から思っていたのですが(ガキの分際で……(笑)),どうしてこんなに過剰人気になってしまったんでしょうねえ。弥生賞やスプリングSはやっと勝ったという感じだったし,NHK杯の走りから見て,どうも左回りは苦手そうと思われた(短波放送の解説者も実際に指摘していた)し,母父カリムからくる距離不安もあったにもかかわらずです。しかもそろそろ疲れも出てくるころだと思うし。今なら,ディープなんたらのときのようにJRAがあおったりしない限り,こんなに人気にはならないと思います。
でも,ハイセイコーを除くと,ほかに勝ちそうな馬が見あたらない……という感じもありました。
ひとついえることは,単勝支持率66.5%の割に複勝の配当が140円というのは,1着,2着に人気薄が来たこともありますが,かなりおいしかったと思います。ハイセイコーの複勝は元返し……という思いこみがかなりあったのでしょうか。
ハイセイコーについての記事や番組を見ると,明らかに時代考証が間違っていたりするものもあり,笑ってしまいます。
よくあるのは石油ショックとハイセイコーの中央デビューの時期の順序の取り違えです。年表などを見ればわかりますが,石油ショックのほうがあとです。
また,必ず出てくるのが自分の人生を投影してハイセイコーを応援する人が多かった……という話ですが,アンケートでも取ったんでしょうか? 基本的に誰かさんの暗い詩の読み過ぎでしょう(笑) σ(^^;)はきらいでした。
ちなみに,ちょうどハイセイコーのダービーの直後くらいに「演歌の怪物ハイセイコー」というキャッチフレーズでデビューした藤正樹という丸刈りに学生服(紫だったかな)のおよそ正気の沙汰とは思えないようなスタイルの15歳の演歌歌手がいてそこそこ話題になっていたのですが,次のような会話を何回か耳にしたことがあります。
「演歌の怪物ってのはわかるけど,ハイセイコーって何?」
「しらな~い」
ハイセイコーは国民的に有名だったというように語られていますが,実際は競馬の町福島においてさえ藤正樹以下の知名度しかなかったのです(笑)
さて,それから6年後,カツラノハイセイコが父の無念を晴らしたのもこの日です。
「いななけカツラノハイセイコ」というレコードが出ましたが,なぜか歌手は増沢末夫。ヲイヲイって感じでした。しかもB面が「さらばハイセイコー」ときては,どう見ても手ヌキでした。
ちなみに,「いななけカツラノハイセイコ」はどこのカラオケにもありません。「さらばハイセイコー」なんて歌いたくないし,「いななけカツラノハイセイコ」をぜひ置いてください。いまでも歌詞を見ずにフルコーラス歌えるという,人間国宝的存在です>σ(^^;)
1990年,史上最高入場者19万6500人の大観衆による伝説の「ナカノ」コールもこの日でした。東京競馬場から4kmほど離れているσ(^^;)の家まで,聞こえてきました(爆) もちろん電波に乗ってですが(笑)
この現象について調査したある社会学者の研究があって,なかなか面白かったのですが,論文をどこかにやってしまいました。
「ナカノ」コール以降,しばらくは何とかコールが定番になりましたが,いつのころからかなくなりましたね。
何とかコールは別にあってもいいのですが,ゴールでの紙吹雪など言語道断で,やった人間は営業妨害か何かでとっ捕まえて,百叩きの刑にしてほしいと思います。ファンファーレ時の手拍子もムチ打ちの刑にして欲しいです。
泥んこダービー
日本ダービーは創設された当初から雨と無縁ではありませんでした。
1932年4月23日に目黒競馬場で行なわれた第1回の日本ダービー(当時の正式名は東京優駿大競走)は,
天候-雨,馬場状態-不良でレースがスタートしました。第2回は曇/稍不良,第3回は晴/不良,第4回は雨/不良,第5回は曇/
稍不良と続き,第6回になってやっと良馬場で行なわれました。
ただ,それもいまは昔の遠い話。最近は雨に見舞われることは比較的少なく,
雨のダービーは過去10回ありますが(小雨含む),最近のものでも 1972年まで遡ります。雨/不良となると,
なんと1959年まで遡ることになります。小雨/不良でも1965年以来ありません。天候が雨以外で馬場状態-不良で行なわれたダービーも,
1969年まで遡ります。
その1969年は,ビデオで見ても田植えができそうな泥んこ馬場です。降水量は前日が1.5mm,
当日は33.0mmとなっています(ただし,当時はアメダスがまだないので大手町のもの)。
そんな泥んこ馬場にもかかわらず,スタートして2F目のハロンタイムが10.5秒ですから,
かなり激しい位置取り争いがあったことが想像できます。それに巻き込まれる形で,
1番人気のタカツバキが落馬するというアクシデントがありました。この落馬については,
タカツバキのような抽選馬がダービーを勝ってしまっては馬産システムが崩壊するから落馬するであろう,
と予言していた人がいたという有名な謀略説があります。それと勝ったダイシンボルガードの厩務員が,
レースの最中にもかかわらず思わず馬場に飛び出して「オレの馬だ!!」とか叫んだという逸話も有名です。
この厩務員さんはきっと泥だらけになったことでしょう。
1969年よりももっと悪い馬場だったと思われるのは1965年です。ダービー前1週間の降水量を見ると,
次の表のようになっています(ただし大手町のデータ,ダービーは05/30)。
+----------+----------+---------------+ | 年月日 |降水量合計|最大1時間降水量| | | mm| mm| +----------+----------+---------------+ |1965/05/24| 13.5| 2.5| |1965/05/25| -| -| |1965/05/26| 22.5| 5.0| |1965/05/27| 118.0| 32.0| |1965/05/28| 0.5| 0.5| |1965/05/29| 12.0| 1.5| |1965/05/30| 44.5| 11.5| +----------+----------+---------------+
ビデオで見るとそうとう悪く見えますが,
質のよくないモノクロフィルムのせいで実際よりも悪く見えているかもしれません。
先頭を走るキーストンの1頭だけ白いままの帽子が印象的です。前半1000m通過64.0秒の“タメ逃げ”
でしたが,最後の 1F に14.3秒かかっています。ダイコーターが詰め寄ったというよりは,終いバタバタになってしまったのでしょう。
5月25日のダービー
日本ダービーが5月25日に行なわれたことは1952年,1958年,1969年,1975年,1980年,1986年の6回あります。
1952年はクリノハナが2冠達成,1958年はミナミホマレの子ダイゴホマレが父子ダービー制覇を成し遂げたのですが,あんまり古い話なので,これ以上のことは知りません。
1969年の“田植えダービー”については 泥んこダービーを見てください。ひょっとして水たまりの中をめだかやおたまじゃくしが泳いでいたかもしれません。
1975年のダービーは,前半1000m通過58.6秒でブッ飛ばしたカブラヤオーが2400mを逃げ切ってしまったという,たぶん日本ダービー史上もっとも強い勝ちかたでした。それに比べると一昨年や3年前のダービー馬なんてたんに展開がハマったとか相手が弱かっただけに見えます(笑)
ゲートが開くやいなや,菅原騎手が出ムチを入れて飛び出したのを見て,こりゃダメだ~と思った人も多かったと思います。σ(^^;)もそのひとりでした。1コーナーをまわるあたりからはテレビ馬トップジローに絡まれて,2コーナーまでに後続を10馬身以上離す,どう見ても暴走でした。
さすがに終いはバタバタになって,4コーナーは内ラチいっぱいをまわったはずなのに,右にヨレ,左にヨレ,ゴールでは馬場の6分どころを走っていました。それでも後続には抜かせませんでした。
フジテレビの盛山アナの「カブラヤオーがんばれ,がんばれ,カブラヤオー,勝てそうだ,勝てそうだ」はベルリン五輪での河西アナのいわゆる「前畑ガンバレ!!」と並ぶ放送史に残る迷実況でしょう。もっとも,盛山アナにはハイセイコーのNHK杯のときの「あと200しかないよ!」という“前科”もありましたが。さらにいえば,1973年の秋の天皇賞では「トーヨーチカラ優勝」と実況していました。優勝はタニノチカラだったんですが。
ちなみに,ポニーキャニオンから出ているこのダービーを収録したビデオやDVDでは,カブラヤオーを先頭に馬群が1コーナーにかかったところあたりで,突然意味不明にも映像が観客に切り替わったりしています。実は,このとき先団を追いかけていたカメラの画像が数秒間乱れていたのでした。
一方,NHKのドラマ「男たちの旅路」のたしか「路面電車」という回で,このダービーのスタートからゴールまでがオープニングに使われていました。フジテレビのではないので1コーナーで乱れていません。
ベストダービーを選べといわれれば,間違いなくこの1975年のダービーを選びます。
数寄屋橋での運命の出会い
1945年5月24日,後宮春樹と氏家真知子が数寄屋橋の上で出会い,半年後の24日の夜にこの橋の上での再会を約束しました。メロドラマ『君の名は』のはじまりです。
岩淵水門に腐乱死体
5月22日,隅田川と荒川を分ける岩淵水門付近で男の腐乱死体が発見されました。(内田康夫『鐘』)