鎌倉の寒い夏(うらやましい(笑))

鎌倉幕府の公式記録書『吾妻鏡』によると,寛喜二年六月九日(ユリウス暦で1230年7月20日,今の暦では1230年7月27日),
鎌倉は雷雨でした。そして午後6時半ごろ,将軍御所の御車宿の東の母屋に落雷,柱や破風などを壊し,後藤判官の下部がこの雷撃を受け,
間もなく死亡しました。当時にしてみれば雷は恐怖の的。翌日,さっそく七座の鬼気祭を行ないました。

ところが,この日の異常さはまだ鎌倉には伝わってはいませんでした。2日後の十一日,武蔵国から報告が届きます。

去る九日辰の刻,当国金子郷雪交りの雨降る。また同時に雷,雹降る((九日辰の刻
(午前7時~9時ごろ),金子郷でみぞれが降りました。同時に雷が鳴り,雹も降りました)

真夏なのにみぞれが降ったとの報告です。なお,“雹”とあるのはあられのことだと思います。 当時はもちろん今の気象観測にある,
5mm 以上がひょう,それ未満があられ……という区別があるはずはありません。

さらに十六日,美濃国からの飛脚がもっと驚くべき報告をもたらします。

去る九日辰の刻,当国蒔田庄に白雪降る(九日辰の刻,蒔田庄(岐阜県養老郡上石津町)
に雪が降りました!!)

武蔵国でみぞれが降ったのと同じころ,美濃国の蒔田庄では雪が降ったという報告です。 これに驚いた執権北条泰時は,
徳政令を出します。

この年の六月は雨がよく降り,それだけならぱ「豊年の瑞」(吾妻鏡より)なのですが,異常な「涼気」(同)で,凶作が心配されました。
八月八日には「申の刻甚雨大風,夜半に及び休止す。草木の葉枯れ,偏に冬気の如し。稼穀損亡す」とあり,
これはどう見ても早々と寒波の到来です。あまりに早すぎて,木枯らし1号の最早記録にもなりません。

この年は大凶作となり,世にいう「寛喜の大飢饉」はこうしてはじまったのでした。

まあ,ここまで涼しくなくてもいいですが,暑い夏はいやですねえ。くたばれ,
ラニーニャ!!(笑)