1922年8月23日,北西に進んできた颱風が,小笠原諸島の西を通って八丈島の南西まで達していました。
中央気象台ではこのまま北西に進むと予想しており,新聞にも
東京は助かった 問題の颱風は土佐沖に
四國九州は今日大荒れだらう
(1922.08.23 東京朝日朝刊)
稀有の颱風襲来
大正六年のより更に猛烈でけふ思ひやる關西方面の被害
(1922.08.24 東京朝日朝刊)
などとあります。藤原ハカセは「上陸しないだろう」とも語っています。
ところが,予想に反して颱風はこのあと北東に転向し,24日に東京湾から房総半島に上陸し鹿島灘に抜けることになります。
さて,颱風が東京湾を目指して(?)接近していた23日の夕方,千葉県の寒川海岸(今の千葉市中央区のどこかにあったらしい)から1艘の舟を漕ぎ出した2人の“才媛”がいました。木嶋眞由美(20=仮名)さんと松田倫子(20=仮名)さんです。
風が出てきたので他の友だちが注意を与えたにもかかわらず漕ぎ出してしまった,との証言もあり,これだけを見ると今流にいえば“DQNの船出”のようなものですが,一方で「兩人は海の荒れるのを知りつゝボートで乘出したので或は同性の戀に落ちて情死を計つたのではないか」(1922.08.25 時事新報夕刊)との噂もありました。
2人はのちに水死体となって発見されたこともあり(ただし,残念ながら別々に),今となっては真相はわかりません。
なお,このときの颱風はこの時点ではこの程度の颱風でしたが,約1週間後には台風史に名前を残す颱風になります。日本海軍史に詳しい人なら誰でも知っているはず……だそうです。