キーストン・ブルース

赤い夕日を 背に受けて
駆けたあの日が 懐かしい
淀の川風 あのにおい
思い出すのさ キーストン
………………
(諸口あきら「キーストン・ブルース」)

1967年12月17日,阪神競馬場で第15回阪神大賞典(距離3100m,5頭立て)が行なわれました。

当日のサンスポ(大阪版)の見出しは

キーストン好調 阪神大賞典
フイニイの逆転も

予想(印)を見てみると

◎◎ キーストン
○○ フイニイ
×△ タイヨウ
△× サトヒカル
無印 スズノニシキ

左は大坪氏,右は内山氏の印です。大坪氏ってあの「クロシオ」や「マンハッタンギャル」の大坪元雄さんだと思われます。

レース中のできごとやレース後のシーンはあまりにも有名なのでとくに書きません。レースそのものよりもレース後のほうが有名な不思議なレースです。いつのころからか故障した馬はなるべく撮らないのが暗黙の了解になっているようなので,今はあり得ない映像でしょう。

有名な割に,あのシーンをリアルタイムで見た人は,実は関西圏を中心とするごく一部の人だけでした。競馬中継は当時,全国中継ではありませんでしたし,もちろんまだターフビジョンなどはありませんので,他の競馬場で見ることも不可能でした。

σ(^^;)ももちろんこのレースをリアルタイムでは見ていません。キーストンについて知ったのは,志摩直人さんの『風はその背にたてがみに』でです。確か「ソロナ家の紋章」という詩でした。

ところで,キーストンが勝った1965年のダービーの直前の5月27日,台風6号が東京湾をかすめて館山市付近に上陸しました。5月の台風上陸は1914年以来のことでした。

この台風と梅雨前線の影響で,東北地方南部から九州にかけて大雨となり,新幹線が全線不通となって雨に弱いことが暴露したほか,かなりの被害が出ました。

東京競馬場で行なわれたダービーの追い切りも強風雨の中,泥んこ馬場での追い切りとなりました。

台風警報下の“ダービー調教”なんていうのは前代未聞,今後も恐らくないだろう。二十七日の午前五時半から行なわれた東京競馬場での追い切りは,田植えのできそうな泥んこのダートコースで,全くの“責め馬?”だった。……
(1965.05.28日刊スポーツ)

レースももちろん,ビデオで見る限りものすごい不良馬場。もっとも,質のよくないモノクロフィルムのせいで実際よりも悪く見えているかもしれません。

先頭を走るキーストンの1頭だけ白いままの帽子が印象的です。前半1000m通過64.0秒の“タメ逃げ”でしたが,最後の1Fに14.3秒かかっています。ダイコーターが詰め寄ったというよりは,終いバタバタになってしまったのでしょう。

ある火災の都市伝説

AD1932/12/16 日本橋の白木屋百貨店で初の高層ビル火災。死者14人,重軽傷者130人

この火災に関して,次のような伝説があります。

このときまで日本の女性は“下着”を着ける習慣がなかったために女子従業員が高所から飛び降りることができずに焼死したものが多かったという

広く信じられているようですが,ちょっと調べてみると,Wikipediaなどにもあるとおりデタラメであることがわかります。

伝説のもとは,12月23日付東京朝日新聞に掲載されている白木屋の山田専務の談話――:

女店員が折角ツナ或はトヒを傳はつて降りて來ても,五階,四階と降りて來て,二,三階のところまでくると下には見物人が澤山雲集して上を見上げて騷いでゐる,若い女の亊とて裾の亂れてゐるのが氣になつて,片手でロープにすがりながら片手で裾をおさへたりするために,手がゆるんで墜落をしてしまつたといふやうな悲慘亊があります。

記事の見出しには「裾の亂れを氣にして むざむざ死んだ女店員」とありますが,σ(^^;)が新聞を調べた限りでは,ロープから手を離して転落死した人はひとりもいません。

注目しなければならないのは,白木屋のおエラいさんの談話だということ。おそらく,火災をタネにして洋服と下着で大々的に儲けようとする白木屋の魂胆に迎合したヨイショ記事なのでしょう。

伝説の決め手となったとされる「婦人よ,ズロースを忘るな」という見出しの12月23日付の都新聞の次の記事にしても,事実上の白木屋の広告に違いありません。

猛火に追われた女逹が咄嗟の塲合にロープ又は帶を繋ぎ合せて,降下運動を試みた瞬間,ズロースを穿いてゐぬために,下から煽られる風に裾が捲れ「アツ」といふて身づくろひする途端兩手がお留守となつて,命綱ともいふべきものを放し,慘死したことも聞きました,……

『中央区史』にはこの火災について,なぜか約5ページにわたって詳細に記述されています。「明治四十三年の水災」や「大正六年の風水災」よりも多いページ数です。伝統的な“下着説”に基づいています。

ところで,この火災とは関係ありませんが,与謝野晶子の『晶子詩篇全集』にある「女は掠奪者」という詩に白木屋が登場します。青空文庫 Aozora Bunkoにあるテキストデータを使わせていただきました)

大百貨店の売出《うりだ》しは
どの女の心をも誘惑《そそ》る、
祭よりも祝《いはひ》よりも誘惑《そそ》る。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡《おほよ》そ何処《どこ》にあらう、
三越《みつこし》と白木屋《しろきや》の売出《うりだ》しと聞いて、
胸を跳《をど》らさない女が、
俄《には》かに誇大妄想家とならない女が。……

与謝野晶子って,バーゲンおばさんだったんだあ……(笑)

なお,直接関係ありませんが,与謝野晶子と台風との関わりについては能天気Express~新世界版~  与謝野晶子と「颱風」をご覧下さい。

ついでに,白木屋では他に次のような事件が起こっています。

白木屋の屋上から 飛降り自殺を遂ぐ
廣告塔上でタオルで目隠して 失戀の關西青年か
―1929年10月27日付東京朝日―

白木屋から幼女転落
七五三の祝着を買ひに来て
―1929年11月15日付東京朝日―

破鏡の女 飛降りて“殺人”
白木屋屋上から 宝くじ売り場の上に落ち
―1954年9月14日付朝日―

~(N)2007.12.16~

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ある火災の都市伝説

AD1932/12/16 日本橋の白木屋百貨店で初の高層ビル火災。死者14人,重軽傷者130人

この火災に関して,次のような伝説があります。

このときまで日本の女性は“下着”を着ける習慣がなかったために女子従業員が高所から飛び降りることができずに焼死したものが多かったという

広く信じられているようですが,ちょっと調べてみると,Wikipediaなどにもあるとおりデタラメであることがわかります。

伝説のもとは,12月23日付東京朝日新聞に掲載されている白木屋の山田専務の談話――:

女店員が折角ツナ或はトヒを傳はつて降りて來ても,五階,四階と降りて來て,二,三階のところまでくると下には見物人が澤山雲集して上を見上げて騷いでゐる,若い女の亊とて裾の亂れてゐるのが氣になつて,片手でロープにすがりながら片手で裾をおさへたりするために,手がゆるんで墜落をしてしまつたといふやうな悲慘亊があります。

記事の見出しには「裾の亂れを氣にして むざむざ死んだ女店員」とありますが,σ(^^;)が新聞を調べた限りでは,ロープから手を離して転落死した人はひとりもいません。

注目しなければならないのは,白木屋のおエラいさんの談話だということ。おそらく,火災をタネにして洋服と下着で大々的に儲けようとする白木屋の魂胆に迎合したヨイショ記事なのでしょう。

伝説の決め手となったとされる「婦人よ,ズロースを忘るな」という見出しの12月23日付の都新聞の次の記事にしても,事実上の白木屋の広告に違いありません。

猛火に追われた女逹が咄嗟の塲合にロープ又は帶を繋ぎ合せて,降下運動を試みた瞬間,ズロースを穿いてゐぬために,下から煽られる風に裾が捲れ「アツ」といふて身づくろひする途端兩手がお留守となつて,命綱ともいふべきものを放し,慘死したことも聞きました,……

『中央区史』にはこの火災について,なぜか約5ページにわたって詳細に記述されています。「明治四十三年の水災」や「大正六年の風水災」よりも多いページ数です。伝統的な“下着説”に基づいています。

ところで,この火災とは関係ありませんが,与謝野晶子の『晶子詩篇全集』にある「女は掠奪者」という詩に白木屋が登場します。青空文庫 Aozora Bunkoにあるテキストデータを使わせていただきました)

大百貨店の売出《うりだ》しは
どの女の心をも誘惑《そそ》る、
祭よりも祝《いはひ》よりも誘惑《そそ》る。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡《おほよ》そ何処《どこ》にあらう、
三越《みつこし》と白木屋《しろきや》の売出《うりだ》しと聞いて、
胸を跳《をど》らさない女が、
俄《には》かに誇大妄想家とならない女が。……

与謝野晶子って,バーゲンおばさんだったんだあ……(笑)

なお,直接関係ありませんが,与謝野晶子と台風との関わりについては能天気Express〜新世界版〜  与謝野晶子と「颱風」をご覧下さい。

ついでに,白木屋では他に次のような事件が起こっています。

白木屋の屋上から 飛降り自殺を遂ぐ
廣告塔上でタオルで目隠して 失戀の關西青年か
―1929年10月27日付東京朝日―

白木屋から幼女転落
七五三の祝着を買ひに来て
―1929年11月15日付東京朝日―

破鏡の女 飛降りて“殺人”
白木屋屋上から 宝くじ売り場の上に落ち
―1954年9月14日付朝日―

〜(N)2007.12.16〜

1084mbのシベリア高気圧

1965年12月16日,気象庁の地上天気図上で,バイカル湖の南西に1084mbの高気圧が解析されました。これは1947年12月16日に解析された1085mbに次ぐものです。

その一方で,日本海北部を進んだ低気圧がサハリン付近で982mbまで発達したため,東西の気圧差は100mbに達しました。それと同時に上空約5000m(500mb等圧面)に-45℃以下の寒気がはいってきたため,日本各地は強い季節風と寒気にスッポリおおわれる形になりました。

札幌で-10℃まで下がって猛吹雪になったのをはじめ,青森,秋田,仙台などでも吹雪になり,-9.2℃の最低気温を記録した青森では最大瞬間風速が36m/sに達しました。

関東地方でも,南総の館山で34年ぶりの積雪を観測,辻堂-茅ヶ崎間の東海道本線の線路に寒さのためのひび割れが起こりました。

開通2年目の東海道新幹線は,岐阜羽島-米原間の積雪のために16日13時ごろから徐行運転となり,18時半ごろには米原駅構内でポイントが雪に埋もれたために一時運転を見合わせました。そして17日01時過ぎにはラッセル車を出動させましたが,降る雪に追いつかず,17日には新幹線の6割が運休する事態になりました。さらに18日も車両点検のために大幅な間引き運転となりました。

この年の5月末の台風6号による大雨で雨に対する弱さを露呈した東海道新幹線は,雪に対する弱さも晒す結果になりましたが,当時は雪と車両故障との因果関係がまだわかっていなかったのでした。

名古屋では18年ぶりとなる積雪21cmを観測,この影響で18日の中京競馬は中止になりました。雪による開催の中止は日本中央競馬会発足以来はじめてのことです。

このように12月としては記録的な大寒波襲来となりましたが,比較的短期間で終息しました。

~(N)2006.12.16~

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1084mbのシベリア高気圧

1965年12月16日,気象庁の地上天気図上で,バイカル湖の南西に1084mbの高気圧が解析されました。これは1947年12月16日に解析された1085mbに次ぐものです。

その一方で,日本海北部を進んだ低気圧がサハリン付近で982mbまで発達したため,東西の気圧差は100mbに達しました。それと同時に上空約5000m(500mb等圧面)に-45℃以下の寒気がはいってきたため,日本各地は強い季節風と寒気にスッポリおおわれる形になりました。

札幌で-10℃まで下がって猛吹雪になったのをはじめ,青森,秋田,仙台などでも吹雪になり,-9.2℃の最低気温を記録した青森では最大瞬間風速が36m/sに達しました。

関東地方でも,南総の館山で34年ぶりの積雪を観測,辻堂−茅ヶ崎間の東海道本線の線路に寒さのためのひび割れが起こりました。

開通2年目の東海道新幹線は,岐阜羽島−米原間の積雪のために16日13時ごろから徐行運転となり,18時半ごろには米原駅構内でポイントが雪に埋もれたために一時運転を見合わせました。そして17日01時過ぎにはラッセル車を出動させましたが,降る雪に追いつかず,17日には新幹線の6割が運休する事態になりました。さらに18日も車両点検のために大幅な間引き運転となりました。

この年の5月末の台風6号による大雨で雨に対する弱さを露呈した東海道新幹線は,雪に対する弱さも晒す結果になりましたが,当時は雪と車両故障との因果関係がまだわかっていなかったのでした。

名古屋では18年ぶりとなる積雪21cmを観測,この影響で18日の中京競馬は中止になりました。雪による開催の中止は日本中央競馬会発足以来はじめてのことです。

このように12月としては記録的な大寒波襲来となりましたが,比較的短期間で終息しました。

〜(N)2006.12.16〜

師走台風

12日15時にマリアナ諸島台風22号が発生しました。

気象庁のベストトラックデータによると,1951年以降,12月に発生した台風はこれで71個目,遅いほうから数えて38位タイの発生になります。

発生の遅いベスト10は次のようになっています。(左から年・号数,名前,発生日時,消滅日時,最盛期の中心気圧。日時はUTCです)[*1]

0023 SOULIK    00123000   01010418     955hPa
5227 HESTER    52122800   53010512     950hPa
0126 VAMEI     01122700   01122718    1006hPa
7521           75122612   75122800     996hPa
6635 PAMELA    66122600   66123100     965hPa
9523 DAN       95122600   95123106     985hPa
9328 NELL      93122500   93122812     975hPa
5423           54122406   54122612     990hPa
8831 VAL       88122400   88122506     992hPa
5923 HARRIET   59122400   60010212     930hPa

1950年以前では,1950年12月29日21時に発生したFranがあります。

なお,1951年以降,12月に日本に上陸した台風はありません。台風の遅い上陸については下記を参照してください。

[*1]気象庁のベストトラックデータから自家製のスクリプトを使って出力したものです。正しいという保証はありません。

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師走台風

12日15時にマリアナ諸島台風22号が発生しました。

気象庁のベストトラックデータによると,1951年以降,12月に発生した台風はこれで71個目,遅いほうから数えて38位タイの発生になります。

発生の遅いベスト10は次のようになっています。(左から年・号数,名前,発生日時,消滅日時,最盛期の中心気圧。日時はUTCです)*1

0023 SOULIK    00123000   01010418     955hPa
5227 HESTER    52122800   53010512     950hPa
0126 VAMEI     01122700   01122718    1006hPa
7521           75122612   75122800     996hPa
6635 PAMELA    66122600   66123100     965hPa
9523 DAN       95122600   95123106     985hPa
9328 NELL      93122500   93122812     975hPa
5423           54122406   54122612     990hPa
8831 VAL       88122400   88122506     992hPa
5923 HARRIET   59122400   60010212     930hPa

1950年以前では,1950年12月29日21時に発生したFranがあります。

なお,1951年以降,12月に日本に上陸した台風はありません。台風の遅い上陸については下記を参照してください。

*1:気象庁のベストトラックデータから自家製のスクリプトを使って出力したものです。正しいという保証はありません。

たきび

「たきび」という童謡があります。

かきねの かきねの まがりかど

たきびだ たきびだ おちばたき

あたろうか あたろうよ

きたかぜ ぴいぷう ふいている

防災上かなり問題がある歌です。“きたかぜ ぴいぷう ふいている”ときにたき火などしてはいけません!!

昔はよかったんですかねえ?
今よりも燃えやすい建物が多かったと思うんですけど。

おはだの おはだの まがりかど

みそじだ よそじだ もうおそい

という替え歌もあります(笑)

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たきび

「たきび」という童謡があります。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜ ぴいぷう ふいている

防災上かなり問題がある歌です。“きたかぜ ぴいぷう ふいている”ときにたき火などしてはいけません!!

昔はよかったんですかねえ? 今よりも燃えやすい建物が多かったと思うんですけど。

おはだの おはだの まがりかど
みそじだ よそじだ もうおそい

という替え歌もあります(笑)

月夜の赤穂浪士の討ち入り

まず,クイズから。

襲撃・暗殺などが雪の降る中で行なわれた事件を次のア〜エからすべて選び,記号で答えなさい。

ア 蘇我入鹿の暗殺
イ 赤穂浪士の討ち入り
ウ 桜田門外の変
エ 二・二六事件

解説しよう(今は亡き富山敬さんの声で(笑))。ちなみに,今放送されている「ヤッターマン」は全然面白くありません。

さて,まずアですが,事実とすれば事件が起こったのは皇極四年六月十二日,ユリウス暦では645年7月10日ですので,まあ, ふつうに考えれば雪は降っていなかったでしょう。『日本書紀』にはこの日大雨が降ったという記述があります。

イは本題なので後まわしにして,ウの大老井伊直弼暗殺は雪の降る中で行なわれました。雪が降っていたため, お供の者が雪水がしみるのを防ぐために刀に柄袋をつけていて,刀をなかなか抜くことができなかったことが, 白昼堂々と大老が討ち取られた原因のひとつとされています。

エの二・二六事件は,2月23日に積もった雪は残っていましたが,この日雪が降りはじめたのは襲撃があらかた終わってから後のことです。 前夜からの大雪の中,反乱軍が兵営を出発して首相官邸などを次々と襲撃した……というのは真っ赤なウソです。

というわけで,正解はウということになります。正解しても,賞品は何もありませんのであしからず(笑)

やっと本題にはいります。

赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのは,元禄十五年十二月十五日の寅の上刻とされています。 今の暦では1703年1月31日の午前4時ごろになりますから,1年でもっとも寒い時期のしかももっとも寒い時間帯ということになります。

このときは晴れていて,したがってもちろん雪は降っておらず,赤穂浪士の47人は小望月の月明かりの中, 本所松坂町の吉良邸に向かったのでした。前日に降った雪がざらめ状に凍って,歩きやすかったとのことです。

かりに今日あたりのお天気番組で

歴史上有名なのは,1702(元禄15)年12月14日から15日の朝にかけて,江戸の町に降った大雪だ。赤穂浪士の討ち入りの日で,新暦では1月31日に当たる。

のようなことを話している人がいたら,ウソつくのもいいかげんさらせ( ゜Д゜)ゴルァ!!と厳重に抗議をしましょう(笑) ちなみに,これは某お天気キャスターのサイトにあった文章を音声を変えて引用したものです。

今はなき三波春夫さんの名調子に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」があります。σ(^^;)の知る限り,誇張はありますが,山鹿流の陣太鼓以外はその夜の状況が正確に描かれています。さすが名調子です。比べては三波春夫さんに失礼ですが,不勉強なお天気キャスターとは全然違います。

積もっていた雪の影響も少しはあったようで,討ち入りの初っぱな,門を乗り越えるときに,原惣右衛門と神埼与五郎が屋根の上に残っていた雪ですべって転落し,足をねんざしたそうです。ドラマなんかではこの場面は再現されませんね。でも,原惣右衛門ってご老体では……?

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わりました。ドラマなどでは,捕らえれて引き出された吉良上野介大石内蔵助が 「吉良殿でございまするか」などと人定尋問するのが定番になっていますが, 実際には内蔵助の前に引き出されたときはすでに息がなかったようです。

1703年1月31日の東京の天文データは次のようになっています。

===================
天文薄明開始 05:16
市民薄明開始 06:17
日の出    06:42
正中     11:55
日の入    17:08
月の入    05:18
===================

討ち入りは夜が白みはじめる前には終わったということは,このデータを見るかぎり,やはり討ち入りは長くても2時間程度だったようです。

今では吉良上野介がいい殿さまで,浅野内匠頭はバカ殿だったと,評価が逆転した感もあります。もっとも,いい殿さまといっても,道路特定財源だったかなんだったかをいっぱい分捕ってくる税金ドロボ〜である“現在のいい殿さま”と五十歩百歩だったのかもしれませんけれど。

(N)2006/12/14