今日,かつて月曜ドラマスペシャルで放送された「水上署の源さん 東京運河−信州斑尾高原連続殺人事件」をBS-iで見ていたら,源さんから次のようなセリフが
事件当夜の潮の流れは毎時1.5ノット,1時間に2km
毎時1.5ノットって何なんでしょう? ノットがすでに速さの単位なので,毎時をつけるとディメンジョン的には加速度の単位になってしまいますが。
しかも1.5ノットを時速に換算すると,2km/hではなくて2.8km/hのはずです。
このような“毎時××ノット”という間違いはよく見かけます。
今日,かつて月曜ドラマスペシャルで放送された「水上署の源さん 東京運河−信州斑尾高原連続殺人事件」をBS-iで見ていたら,源さんから次のようなセリフが
事件当夜の潮の流れは毎時1.5ノット,1時間に2km
毎時1.5ノットって何なんでしょう? ノットがすでに速さの単位なので,毎時をつけるとディメンジョン的には加速度の単位になってしまいますが。
しかも1.5ノットを時速に換算すると,2km/hではなくて2.8km/hのはずです。
このような“毎時××ノット”という間違いはよく見かけます。
競馬世界という競馬雑誌の創刊第2号(1907年12月発行)に,「目黒競馬會の混亂」と題する記事があり,次のような書き出しではじまっています。
初日はベンテンの銃殺亊件があつて,少からず看客を驚かした目黒競馬會は,二日目に,而も宮殿下の御前で,忌はしき血染沙汰を引起こしたのは甚だ遺憾な亊である
この2日目が1907年12月8日です。
ここで園田実徳なる人物が登場します。目黒競馬を実質的に運営する競馬会社,東京馬匹改良株式会社の創立委員長で当時の競馬界一の実力者です。
さて,騒動の第1ラウンドは第6レース「内国産馬競走」(距離1哩4分の1)。
出立点でスターチングの信号をしない中,鐘を鳴らしたので騎手は皆鞭を加へたが途中から引返して遺直しとは馬鹿気ていた
(12月9日付東京朝日)
要するにスタートミスがあり,カンパイ。その結果,人気だったキンカザンやハクウンが敗れ,穴馬のキキヨウが勝ちましたが,その馬主は岡田実徳でした。しかもカンパイの理由は
此竸馬を遣り直せし理由はキキヨウが一頭出遅れし爲めなりと云ふ
(12月9日付報知)
キンカザンやハクウンの馬券を買った連中は口々に「火を附けて建物を焼いて了はう」「やあい,擲つて了へ」と叫び,暴動の一歩手前。ことばだけを見ると何かノンビリしているような感じがしますが(笑)
騒動第2ラウンドは第9レース「内国産馬競走」(距離1哩2分の1)2頭立て。ハナゾノとクヰンタツのマッチレースでしたが,クヰンタツは6月の帝室御賞典を勝った名馬ハナゾノの敵ではなく,どうしてこんなレースが組まれたのか,園田実徳が恣意的にレース番組をつくっているのでは……? という不信感がありました。実際,この日の第8レースまでの内国産馬競走5レースのうち,園田実徳の持ち馬がすでに2勝を挙げていました。
こうした伏線があったため,第9レースにハナゾノが勝利した直後,檜山鐵三郎なる人物が酒気を帯びて記者席に闖入,「園田の馬は已に屡々勝てり,然るに又ハナゾノを出して勝を貪れり,こは寧ろ園田の名の為に惜しむべきに非ずや……」と演説をはじめました。記者たちが相手をしないでいると,それを見ていた群衆が檜山に同調して騒ぎ出し,場内が混乱しはじめました。そこに園田に雇われていた“馬丁”があらわれ,檜山の頭をビールびんで殴って大ケガを負わせる流血沙汰に発展しました。
競馬会はすでにハナゾノの当たり馬券を5円の元返しで払い戻ししはじめていました。しかし群衆が「クヰンタツはもっと売れていたはずだ」と金網や木板,ガラスなどを壊しはじめたのを見て,未払い分については50銭の割り増しをつけることになりましたが,今度はすでに払い戻しを受けた人々が騒ぎ出す始末。それでも鳴尾競輪暴動事件1のような大事にはいたらなかったようで,事態はすぐに収束したようです。
ちなみに,騒動のおおもととなった園田実徳の弟が,元近衛少尉武清澄の家に養子にはいり,武彦七となります。彦七の長男芳彦の三男が武邦彦で,武邦彦の三男が武豊です。
早い話が,武豊は明治の日本競馬を恣意的に操っていた人物の一族なのです。その武豊をJRAがどう遇しているかは,いわずとも明らかでしょう。
ついでに,のちに廃場となった目黒競馬場では目黒競馬場と大井×× | Notenki Express 2014のような事故が起こっています。
1944年12月7日13時半過ぎ,東海道沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震が発生しました。東南海地震です。『理科年表』には
静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223,住家全壊17599,半壊36520,流失3129.このほか,長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった.津波が各地に襲来し,波高は熊野灘沿岸で6〜8m,遠州灘沿岸で1〜2m.紀伊半島東岸で30〜40cm地盤が沈下した.
とあります。
当時の新聞はどう伝えたかというと,例えば翌8日付の朝日新聞には次のようにあります。
十二月七日十五時五十分発表(中央気象台)―本日午後一時三十六分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起つて強震を感じて被害を生じたところもある
この部分は各新聞共通です。
続いて各地のようす。マイクロフィルムから複写してからスキャナで取り込んだものを読んでいる関係で判読できない文字もあるので,引用ではなく要約します(「」の部分は引用。漢字は今の漢字)。
静岡……県はただちに対策本部を設け,「学徒等の応援を求めて逞しき復興に乗り出した」また,賀茂郡下田町では14時30分ごろに津波があり,「浸水家屋を生じた」
東海……「東海地方を襲つた七日の地震は意外な強震だったが一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく郷土防衛に挺身する必勝魂ははからずもここに逞しい空襲と戦ふ片鱗を示し復旧に凱歌を上げた」
当局の厳しい報道管制のために実態を曲げて伝えているのは確かですが,今の視線で読めば,隠そうとしても隠しきれない被害のようすが見え隠れしている感じです。あくまで今だからわかることでしょうけれど。
ちなみに,アメリカの大新聞などはこの地震を大きく伝え,例えば,8日付ニューヨークタイムスの1面トップにはJAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKEという大きな見出しがあります。また,9日付の同紙には
Though they disclosed that great war-production centers, including Osaka, Nagoya, Hamamatsu, Shizuoka, Nagano and Shimizu were in the destruction area, they attempted to minimize damage.
とあり,完全に見透かされています。このことだけを見ても,およそ勝てそうもない戦争だったことがよくわかります。こんな戦争をおっぱじめた首脳の責任は地球より重いです。
1907年12月7日,目黒競馬場がオープンしました。今の東京競馬場の前身に当たる競馬場です。
ところがオープン初日のこの日,さっそくその後のドス黒い日本競馬を暗示するような事件が起こっています。
12月8日付の東京朝日新聞にかなりショッキングな見出しがあります。もっとも,当時の東京朝日新聞は馬券競馬反対に論調が傾いており(宣言するのは翌年1月),多少割り引いて読まなければならないですが。
非道残忍
(衆人の前に傷馬を銃殺す)
第5競走「外国産馬競走」(距離4分の3哩)のゴール直後,ベンテンという馬が前脚を骨折,転倒するという事故が起こりました。今の中央競馬なら外から見えないようにして薬殺の処置がとられるのでしょうが1,なんと「一外人は馬場の中央衆人の面前にて四肢を縛せしめ置き眉間にピストルを当て之を銃殺したり」(同紙)
“銃殺犯”について,時事新報では「發馬係のスチーブンソン氏」東京日日新聞では「委員たるエーエルモツチユ氏」となってますが,報知新聞には「同馬の持主田中氏は血走る目にツカツカと進み寄るやキと取出す短銃の筒口を差向け……」とあって馬主が銃殺したように書かれています。これらの記事を書いた記者たち,実際には見ていなかったんでしょう。
翌8日には暴動と暴力事件(こちらは比較的有名)が起こり,9日付の東京朝日新聞には
血染の競馬場
馬札売場の大騒動
という見出しがあります。目黒競馬場っていったいどういうところだったのでしょう。これについてはまた明日ということで。
12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。
1987年12月6日に行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分15秒で優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。
当初,ソウル五輪の男子マラソン代表はこの福岡国際での一発選考といわれていました。ところが, 瀬古利彦 (最近では日テレの箱根駅伝中継やその他のマラソン中継に出てきてはピントはずれなことをいってヒンシュクを買っているあの人物。“ビッコ”発言もありました)が足をケガして出場できなくなった途端に,選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山が瀬古に対し「這ってでも出てこい」といったというのは有名な話です。実際には「ボクなら這ってでも出る」といった―― という話もあります。まあ,本当は何といったかはわかりませんが,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでした。
這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後のびわ湖毎日マラソンに出場,優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベル。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒), 35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。
〜能天気Express 2006/12/02〜
1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。このため,東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。
これがこのシーズンの初雪で,戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です(当時)。そして,09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は,八王子2cm,宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。
この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。
東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。σ(^^;)は,大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。
神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)
初雪のデートといえば,サンさまだかヨンさまだかゴさまだかロクさまだか知りませんが,そんな名前のマッチョ男優(書いてから気づいたのですが,“男優”はアレもののビデオ以外ではあまり使わないような気も(^^;))のあのドラマの有名なシーンらしいです。あちらには“初雪のときに好きな人と一緒にいると結ばれる”というような迷信があるそうで,あのシーンにはこの迷信が背景にあるのでしょう。最近では初雪の日にはケータイの回線がパンクする――という話も聞いたことがあります。
ついでに大晦日,チュンサンとかいう高校生が交通事故で死んだことになっていますが(ちょっと違うかも),これは大晦日というのがポイントです。大晦日は年の境界なので時空の裂け目が現われるという古くからの民族的な信仰があり(あの国にもあるのかどうかは知りませんが),のちの展開が暗示されているような気がします。それにしてもあの国の高校では元旦に学校に行くことになっているのでしょうか。
なお,σ(^^;)はキムチが大っ嫌いなので,あの国のキムチの悪臭漂うドラマは見ません。ついでにひとこと,キムチ食ったら電車に乗るな!!あんな臭いものが人の食いもんとは思えんが。
ところで,明日は12月の第1日曜日。12月の第1日曜日といえば,ラグビー早明戦です。
今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。
1987年12月6日は12月の第1日曜でした。国立競技場は一面の雪――。しかし,何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。
コンディションがコンディションだけにミスも多く,好試合だったとは必ずしもいえませんが,歴史に残る名勝負だったことは確かです。とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。
試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。
早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)最後の日本チャンピオンになりました。ちなみに,このときのNo.8が清宮・早稲田大前監督です。
なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのは,あくまでタテマエです。それが証拠に,1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。
〜能天気Express 2006/12/02〜
4年前の今日,2004年12月5日,東京で最大瞬間風速40.2m/sが観測されました。12月では歴代1位,通年でも歴代2位の記録です。
今日は4年前ほどではありませんが,サハリン付近を通過する低気圧に向かって南よりの強い風が吹いています。
ところで,その昔「緊急指令10-4・10-10」(きんきゅうしれいテンフォーテンテン)という特撮ドラマがありました。主題歌がすばらしい。
嵐の中で ただひとり
風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ
屋根が飛ぶって?!……めったに聞かれない歌詞です。
2番は
吹雪の中で ただひとり
風が吹き荒れ 屋根が飛ぶ
3番は
瓦礫の中で ただひとり
息が苦しい 目がくらむ
いただけないのは
緊急連絡 テン・スリー・フォー
(テン・フォー テン・フォー 了解!)
というフレーズ。“テン・フォー”は“了解”の意味であるため,“テン・フォー 了解!”というのは不自然です。ドラマの中でも使われていて,違和感がありました。
映画「252 生存者あり」の予告編でもレスキュー隊員が「252! 生存者あり~!!」と叫んでいるシーンがありますが,はっきりいってシラケます。
ちなみに,“252”は本来は生存者ありという意味ではなく,要救助者(逃げ遅れ)という意味です。“生存”しているとは限りません。「252は852。体幹轢断」とか「252は852。高度脳実質脱出」なんてたまに聞きます。
今日は,冬の天気図の華?!のひとつ,シベリア高気圧の知られざる素顔(?)に迫ります。
シベリア高気圧とは,『気象科学事典』によると
寒候期にモンゴル北部からシベリア付近で発達する冷たい高気圧。
です。シベリアといってもいささか広うござんすが,中心はバイカル湖付近に現われることが多いです。シベリア高気圧から北東に気圧の尾根が延びて東シベリアに高気圧が現われることがありますが,この東シベリアの高気圧をシベリア高気圧とはふつうよびません。
シベリア高気圧の中心気圧は,1040~1050hPa台は当たり前,1060hPaを超えることも珍しくありません。かつては1080mbを超えたこともあります。最高記録はσ(^^;)が調べた限りでは1947年12月17日の1085mbです。(※hPaとmbを混用していますが,妥協の産物です)
最近は,残念ながら(?!)1060hPa台がせいぜいです。これは天気図の解析法の変化や気候変動などの原因が考えられますが,おそらく前者の影響のほうが大きいでしょう。
シベリア高気圧は冬の天気図の華?!のひとつ……といいながらも,テレビの気象情報番組や新聞に掲載されている天気図は範囲が狭いので,残念ながら北西の隅に一部が顔をのぞかせるだけです。しかし実際にはかなり広大な高気圧で,最盛期にははるかヨーロッパ東部にまで張り出し,ユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置くといっても過言ではありません。
とはいっても,一般に高気圧は相対的に,中心の東側では冷たく,西側では暖かくなっているので,ヨーロッパ東部にまで張り出した場合でも,シベリア高気圧がその方面に直接寒気をもたらすわけではありません。
冬季,海陸分布による熱的作用とチベット高原による力学的作用で,東経90°付近の上空(5000m付近)に超長波のリッジ(気圧の尾根)が形成されます。これに対するトラフ(気圧の谷)が大陸東岸から東海上に形成され,リッジからトラフにかけては北からの寒気がはいりやすい場になります。ちなみに,このトラフがどこに形成されるかによって,日本列島への寒気にはいりかたが違ってきます。
一方,シベリア付近の地表では,太陽の南中高度が低くなるために日射が弱くなり,また日照時間も短くなるので,温度が下がります。すると地面に接している空気の気温も下がります。空気は気温が下がると重くなる(密度が大きくなる)ので,下から溜まっていきます。空気が重いので,地表付近の気圧(正確には海面の高度に換算した気圧)は高くなります。
重い空気がある程度蓄積するとまわりに吹き出すはずで,上に述べた場の作用も手伝って南下するのですが,シベリアの南にはチベット高原があってスムーズに流れず,寒気が蓄積されていきます。このようにして形成されるのがシベリア高気圧です。
σ(^^;)はなぜかバイカル湖が好きで,バイカル湖が描かれていない天気図なんて天気図ではない,と思っていたものです。今のASASに相当する天気図をはじめて見たときはいたく感激しました。
一般に使われている天気図では,共同通信社から各新聞社に配信されている「共同天気図」にはバイカル湖があるのに対し,雑誌「気象」(すでに廃刊)に載っていた天気図にはバイカル湖がありませんでした。どちらも同じところで原版を作成していたはずですが,この違いは……?
現在,気象庁のHPに上げられている天気図には,バイカル湖が3分の2程度描かれています。
テレビの気象情報番組の天気図はさらに範囲が狭いので,バイカル湖が描かれているものを見たことがありません。
さて,上にバイカル湖付近に中心が現われることが多いと書いたシベリア高気圧ですが,実はバイカル湖を中心にすることはほとんどありません。それはバイカル湖がまわりよりも相対的に暖かく,したがってその付近の気圧がまわりよりも低くなっているからです。
今日は,冬の天気図の華?!のひとつ,シベリア高気圧の知られざる素顔(?)に迫ります。
シベリア高気圧とは,『気象科学事典』によると
寒候期にモンゴル北部からシベリア付近で発達する冷たい高気圧。
です。シベリアといってもいささか広うござんすが,中心はバイカル湖付近に現われることが多いです。シベリア高気圧から北東に気圧の尾根が延びて東シベリアに高気圧が現われることがありますが,この東シベリアの高気圧をシベリア高気圧とはふつうよびません。
シベリア高気圧の中心気圧は,1040〜1050hPa台は当たり前,1060hPaを超えることも珍しくありません。かつては1080mbを超えたこともあります。最高記録はσ(^^;)が調べた限りでは1947年12月17日の1085mbです。(※hPaとmbを混用していますが,妥協の産物です)
最近は,残念ながら(?!)1060hPa台がせいぜいです。これは天気図の解析法の変化や気候変動などの原因が考えられますが,おそらく前者の影響のほうが大きいでしょう。
シベリア高気圧は冬の天気図の華?!のひとつ……といいながらも,テレビの気象情報番組や新聞に掲載されている天気図は範囲が狭いので,残念ながら北西の隅に一部が顔をのぞかせるだけです。しかし実際にはかなり広大な高気圧で,最盛期にははるかヨーロッパ東部にまで張り出し,ユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置くといっても過言ではありません。
とはいっても,一般に高気圧は相対的に,中心の東側では冷たく,西側では暖かくなっているので,ヨーロッパ東部にまで張り出した場合でも,シベリア高気圧がその方面に直接寒気をもたらすわけではありません。
冬季,海陸分布による熱的作用とチベット高原による力学的作用で,東経90°付近の上空(5000m付近)に超長波のリッジ(気圧の尾根)が形成されます。これに対するトラフ(気圧の谷)が大陸東岸から東海上に形成され,リッジからトラフにかけては北からの寒気がはいりやすい場になります。ちなみに,このトラフがどこに形成されるかによって,日本列島への寒気にはいりかたが違ってきます。
一方,シベリア付近の地表では,太陽の南中高度が低くなるために日射が弱くなり,また日照時間も短くなるので,温度が下がります。すると地面に接している空気の気温も下がります。空気は気温が下がると重くなる(密度が大きくなる)ので,下から溜まっていきます。空気が重いので,地表付近の気圧(正確には海面の高度に換算した気圧)は高くなります。
重い空気がある程度蓄積するとまわりに吹き出すはずで,上に述べた場の作用も手伝って南下するのですが,シベリアの南にはチベット高原があってスムーズに流れず,寒気が蓄積されていきます。このようにして形成されるのがシベリア高気圧です。
σ(^^;)はなぜかバイカル湖が好きで,バイカル湖が描かれていない天気図なんて天気図ではない,と思っていたものです。今のASASに相当する天気図をはじめて見たときはいたく感激しました。
一般に使われている天気図では,共同通信社から各新聞社に配信されている「共同天気図」にはバイカル湖があるのに対し,雑誌「気象」(すでに廃刊)に載っていた天気図にはバイカル湖がありませんでした。どちらも同じところで原版を作成していたはずですが,この違いは……?
現在,気象庁のHPに上げられている天気図には,バイカル湖が3分の2程度描かれています。
テレビの気象情報番組の天気図はさらに範囲が狭いので,バイカル湖が描かれているものを見たことがありません。
さて,上にバイカル湖付近に中心が現われることが多いと書いたシベリア高気圧ですが,実はバイカル湖を中心にすることはほとんどありません。それはバイカル湖がまわりよりも相対的に暖かく,したがってその付近の気圧がまわりよりも低くなっているからです。
〜(M)2005/12/06〜
これからの季節,“西高東低”あるいは“西高東低型”ということばを耳にすることが多くなってきます。
“西高東低”はもちろん,気圧配置を表わす気象用語です。『気象科学事典』には“西高東低型”として次のように書いてあります。
日本付近に現れる気圧配置型の1つ。図(略=引用者)のように,大陸に高気圧,東海上に低気圧があり,等圧線が南北に走る気圧配置。冬の代表的な気圧配置であり,冬型ともよばれる。(以下略)
典型的な西高東低では,西には1050hPa以上のシベリア高気圧があり,日本の東海上には発達しながら進む低気圧があります。この低気圧はふつう,低気圧の墓場とよばれるベーリング海やアリューシャン近海まで進んでいきます。
もともと冬型の気圧配置を表わす“西高東低”は,今ではいろいろなところで使われています。
まず思い浮かぶのは競馬です。関東より関西のほうが強い馬が多いという傾向が,1988年ごろからずうっと続いています。統計の取りかたによって,この傾向が弱まってきたとか,いやむしろ強まっているとかいった話がときどき出てきますが,基本的には西高東低が続いているといっていいでしょう。
次に,気圧配置と競馬以外の“西高東低”について,新聞の見出しで見てみましょう。
東日本 vs 西日本,関東 vs 関西という構図で使われることが多いようですが,もっとローカルな,例えば東京23区の東部と西部,さらにローカルになって新宿東部と西部などというケースでも使われるようです。
ちなみに,西高東低の逆“東高西低”も新聞の見出しでは劣らず使われています。しかし,お天気サイドでいえば,古い本には夏型の一種として載っていましたし,たまにあらわれる変形の気圧配置として“東高西低型”が現在も使われることもありますが,西高東低に比べるとかなりマイナーです。
このように多くの場面で使われている“西高東低”ですが,国語辞典系の辞書を見てみると,意外なことに「広辞苑」,「大辞林」には“西高東低型”は載っていますが“西高東低”は載っていません。手元の辞書で“西高東低”が載っているのは「新明解国語辞典」だけです。
しかもすべて気圧配置に関する意味しか載っておらず,いろいろな場面で使われている西高東低についてはひとことも触れていません。これはどうしたことなのか理解に苦しみます。
西高東低の話題で,サブタイトル「吹き荒れる西高東低の気圧配置はかなしい女の季節風」のこのドラマを無視するわけにはいきません。詳しくは津軽竜飛岬風の殺意 – 能天気Express(Hatena版)をご覧下さい。
きちんと調べたわけではありませんが,σ(^^;)が見た文献の中で最も古いのは1931年1月の「気象要覧」です。次のようにあります。
氣壓の配置は西高東低の形式を現し全く冬季の状態となつた,……
新聞では1933年1月31日付の読売新聞で,次のようにあります。
モノ知り博士 西高東低
この頃ラヂオや新聞の天氣豫報を見るとよく「いよゝいよゝ氣壓は西高東低の標準型となりましたから寒さは一段ときびしく表日本は天氣は當分續く見込みです云々」とでてゐる西高東低とは何のことであらうか,これは氣壓がシベリア,滿洲に高く北太平洋方面に低いことの意味で,毎年冬になると大陸方面が著しく冷えて此形になる,之は冬の常態)とも云ふべきものでこの形になると北の猛烈に寒冷な風が日本方面に吹いて來る……
きちんと調べれば,おそらくこれより古い用例が見つかるでしょう。
そういえば,1901年12月の「気象要覧」に次のようにあります。
本月ノ氣象ハ全ク冬季ノ状態ヲ呈シ氣流頗ル沈靜シ氣壓ハ概ネ西高北低ノ配置ヲ保持シ北西風卓越シテ寒氣甚シク……