西高東低

これからの季節,“西高東低”あるいは“西高東低型”ということばを耳にすることが多くなってきます。

“西高東低”はもちろん,気圧配置を表わす気象用語です。『気象科学事典』には“西高東低型”として次のように書いてあります。

日本付近に現れる気圧配置型の1つ。図(略=引用者)のように,大陸に高気圧,東海上に低気圧があり,等圧線が南北に走る気圧配置。冬の代表的な気圧配置であり,冬型ともよばれる。(以下略)

典型的な西高東低では,西には1050hPa以上のシベリア高気圧があり,日本の東海上には発達しながら進む低気圧があります。この低気圧はふつう,低気圧の墓場とよばれるベーリング海やアリューシャン近海まで進んでいきます。

いろいろなところに顔を出す“西高東低”

もともと冬型の気圧配置を表わす“西高東低”は,今ではいろいろなところで使われています。

まず思い浮かぶのは競馬です。関東より関西のほうが強い馬が多いという傾向が,1988年ごろからずうっと続いています。統計の取りかたによって,この傾向が弱まってきたとか,いやむしろ強まっているとかいった話がときどき出てきますが,基本的には西高東低が続いているといっていいでしょう。

次に,気圧配置と競馬以外の“西高東低”について,新聞の見出しで見てみましょう。

  • のぼる もぐる 西高東低の新宿(1970年7月2日朝日朝刊)……新宿周辺の西の高層ビル街,東の地下街の開発についての記事です。
  • 競輪・馬・ボート ファンの収支は“西高東低”(1979年1月23日朝日朝刊)……全国モーターボート競走会連合会のアンケートの結果の記事で,大阪に比べて東京のファンは約10万円も赤字が多いという結果が出たそうです。また,ギャンブルをやる理由では,東京は気分転換,大阪は金が欲しいからがトップだったそうです。ただしあくまで四半世紀も前の話で,今はどうなのかわかりません。
  • きょう土用の丑 人気ウナギのぼり 食べる量西高東低(1990年7月23日朝日朝刊)
  • 初回視聴率は西高東低型? NHK「ぴあの」(1994年4月7日朝日夕刊)
  • OLの課長評価は「西高東低」(1997年6月20日朝日朝刊)
  • 西高東低,外国人の採用 地方自治体(1998年3月16日朝日夕刊)

東日本 vs 西日本,関東 vs 関西という構図で使われることが多いようですが,もっとローカルな,例えば東京23区の東部と西部,さらにローカルになって新宿東部と西部などというケースでも使われるようです。

ちなみに,西高東低の逆“東高西低”も新聞の見出しでは劣らず使われています。しかし,お天気サイドでいえば,古い本には夏型の一種として載っていましたし,たまにあらわれる変形の気圧配置として“東高西低型”が現在も使われることもありますが,西高東低に比べるとかなりマイナーです。

なぜか辞書には載っていない西高東低

このように多くの場面で使われている“西高東低”ですが,国語辞典系の辞書を見てみると,意外なことに「広辞苑」,「大辞林」には“西高東低型”は載っていますが“西高東低”は載っていません。手元の辞書で“西高東低”が載っているのは「新明解国語辞典」だけです。

しかもすべて気圧配置に関する意味しか載っておらず,いろいろな場面で使われている西高東低についてはひとことも触れていません。これはどうしたことなのか理解に苦しみます。

津軽竜飛岬風の殺意(おまけ)

西高東低の話題で,サブタイトル「吹き荒れる西高東低の気圧配置はかなしい女の季節風」のこのドラマを無視するわけにはいきません。詳しくは津軽竜飛岬風の殺意 – 能天気Express(Hatena版)をご覧下さい。

西高東低はいつから使われはじめたか?

きちんと調べたわけではありませんが,σ(^^;)が見た文献の中で最も古いのは1931年1月の「気象要覧」です。次のようにあります。

氣壓の配置は西高東低の形式を現し全く冬季の状態となつた,……

新聞では1933年1月31日付の読売新聞で,次のようにあります。

モノ知り博士 西高東低

この頃ラヂオや新聞の天氣豫報を見るとよく「いよゝいよゝ氣壓は西高東低の標準型となりましたから寒さは一段ときびしく表日本は天氣は當分續く見込みです云々」とでてゐる
西高東低とは何のことであらうか,これは氣壓がシベリア,滿洲に高く北太平洋方面に低いことの意味で,毎年冬になると大陸方面が著しく冷えて此形になる,之は冬の常態)とも云ふべきものでこの形になると北の猛烈に寒冷な風が日本方面に吹いて來る……

きちんと調べれば,おそらくこれより古い用例が見つかるでしょう。

そういえば,1901年12月の「気象要覧」に次のようにあります。

本月ノ氣象ハ全ク冬季ノ状態ヲ呈シ氣流頗ル沈靜シ氣壓ハ概ネ西高北低ノ配置ヲ保持シ北西風卓越シテ寒氣甚シク……

かつては“西高北低”が冬型の気圧配置だったのでしょうか。

〜(N)2003.11.25〜

津軽竜飛岬風の殺意

冬になると思い出すドラマが「火曜サスペンス劇場」で放送された「津軽竜飛岬風の殺意」です。

火曜サスペンス劇場の作品からなんでもいいから印象の強い作品をひとつだけ選べといわれたら,たぶんこれを選ぶと思います。名作というわけではないんですが,かなり強い印象が残っている作品です。

サブタイトルは「吹き荒れる西高東低の気圧配置はかなしい女の季節風」。1991年2月12日に放送されました。

“凶器”は風です。竜飛岬に吹く局地的な突風(前線の通過か季節風の吹き出しに伴うもののようです)を場所も時刻もほとんど誤差なく予測して,その時刻に殺したい相手を竜飛岬におびき出し,転落死させるのです。もちろん自分は別な場所にいるので,アリバイは鉄ペキです。σ(^^;)の知る限り,気象現象を積極的に凶器に使う唯一のサスペンスドラマです。

ドラマ中に出てくる用語はかなりメチャクチャです。とくにクライマックスではほとんど意味不明になります。それでもNHKの朝ドラ「まんてん」よりはマシでしたが。

また,突風の予測のもとになる杉本圭吾氏の論文「竜飛岬における突風のメカニズム」の2ページ目はなんと,「天気図日記」だったりします。こんな論文σ(^^;)は見たことがありません(笑) しかも,使われている「天気図日記」は1988年10月のもので,これでは論文が書かれた時期についてつじつまが合わなくなります。というのは,この論文は14,5年前の学生時代に書かれたことになっているからです。1990年ごろの14,5年前なら1975年前後になるはずで,どう考えても1988年の天気図日記は使えません。

気象観測装置も,リアルタイムで衛星雲画像を映し出すコンピューターが登場しています。現在でも実用化されていないスバラシイ超最先端の技術です。

〜(M)2005/10/04〜

えっ?新語・流行語大賞トップ10にゲリラ豪雨!?

今年の新語・流行語大賞は… 「アラフォー」「グ~!」 – 47NEWS(よんななニュース)より一部引用:

年間大賞以外のトップテンは、福田康夫前首相が辞任会見で質問した記者に答えた「あなたとは違うんです」をはじめ、「居酒屋タクシー」「蟹工船(ブーム)」「ゲリラ豪雨」「後期高齢者」「名ばかり管理職」「埋蔵金」。福田前首相は受賞を辞退した。

それで,新語・流行語大賞を見てみると,

◆ゲリラ豪雨

受賞者:株式会社ウェザーニューズ

いきなり局所的に発生する集中豪雨。予測が難しいことからこう呼ばれる。正式な気象用語ではなく、1970年代にはすでに新聞等で使われていたが、近年の豪雨の多発によりマスコミではすっかり定着した。

とあります。ウェザーニューズがつくったことばでもないのに不思議な話です。あの会社は宣伝が上手いだけで実態はアレなのは知る人ぞ知る話ですが。

ところで,ゲリラ豪雨が最初に使われたのは,σ(^^;)が調べた限りでは1969年8月12日付の朝日新聞朝刊です。

“ゲリラ豪雨”北アを襲う

濁流どっと山ろくへ 長野側 旅館や工場も流失

入善町で千戸浸水 富山側 機動隊員も立往生

翌13日にはベトナム戦争モドキの見出しが。

ゲリラ豪雨のホコ先どこへ

37度線中心に出没 短期決戦,なお抵抗か

救助や復旧もなかなか進まず。13日夕刊:

もどかしい救助・復旧 ゲリラ豪雨禍

作業阻む泥土・巨岩 乏しい器材で細々と 福島県金山町

7~12日にかけての大雨で,死・不明41,負傷83,家屋損壊608,浸水34360,耕地被害20564haなどの被害が出ています。

このように,他人の屍を踏み台にして受賞した流行語大賞トップテンということで。


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えっ?新語・流行語大賞トップ10にゲリラ豪雨!?

今年の新語・流行語大賞は… 「アラフォー」「グ〜!」 – 47NEWS(よんななニュース)より一部引用:

年間大賞以外のトップテンは、福田康夫前首相が辞任会見で質問した記者に答えた「あなたとは違うんです」をはじめ、「居酒屋タクシー」「蟹工船(ブーム)」「ゲリラ豪雨」「後期高齢者」「名ばかり管理職」「埋蔵金」。福田前首相は受賞を辞退した。

それで,新語・流行語大賞を見てみると,

◆ゲリラ豪雨
受賞者:株式会社ウェザーニューズ

いきなり局所的に発生する集中豪雨。予測が難しいことからこう呼ばれる。正式な気象用語ではなく、1970年代にはすでに新聞等で使われていたが、近年の豪雨の多発によりマスコミではすっかり定着した。

とあります。ウェザーニューズがつくったことばでもないのに不思議な話です。あの会社は宣伝が上手いだけで実態はアレなのは知る人ぞ知る話ですが。

ところで,ゲリラ豪雨が最初に使われたのは,σ(^^;)が調べた限りでは1969年8月12日付の朝日新聞朝刊です。

“ゲリラ豪雨”北アを襲う
濁流どっと山ろくへ 長野側 旅館や工場も流失
入善町で千戸浸水 富山側 機動隊員も立往生

翌13日にはベトナム戦争モドキの見出しが。

ゲリラ豪雨のホコ先どこへ
37度線中心に出没 短期決戦,なお抵抗か

救助や復旧もなかなか進まず。13日夕刊:

もどかしい救助・復旧 ゲリラ豪雨禍
作業阻む泥土・巨岩 乏しい器材で細々と 福島県金山町

7〜12日にかけての大雨で,死・不明41,負傷83,家屋損壊608,浸水34360,耕地被害20564haなどの被害が出ています。

このように,他人の屍を踏み台にして受賞した流行語大賞トップテンということで。

津軽にはホントに“七つの雪”が降るのか?

新沼謙治さんが歌った「津軽恋女」(1987年)の中に

♪津軽には七つの 雪が降るとか
こな雪 つぶ雪 わた雪 ざらめ雪
みず雪 かた雪 春待つ氷雪

という歌詞があります。

この“七つの雪”の出典が太宰治『津軽』であることはよく知られています。その『津軽』では,巻頭に「津軽の雪」としてこの“七つの雪”が並べて書いてあり(ただし順序は“こな雪,つぶ雪,わた雪,みづ雪,かた雪,ざらめ雪,こほり雪”),最後に「東奥年鑑より」とあります。

その『東奥年鑑』(1941年)を見てみると,「積雪ノ種類ノ名稱」として次のように説明されています(ほぼ原文のまま。ちなみに,国会図書館ではこの書物は破損防止のために複写禁止なので,人力複写です(笑))

こなゆき 濕氣の少い輕い雪で息を吹きかけると粒子が容易に飛散する
つぶゆき 粒状の雪(霰を含む)の積つたもの
わたゆき 根雪初頭及び最盛期の表層に最も普通に見られる綿状の積雪で餘り硬くないもの
みづゆき 水分の多い雪が積つたもの又は日射暖氣の爲積雪が水分を多く含む樣になつたもの
かたゆき 積雪が種々の原因の下に硬くなつたもので根雪最盛期以降下層に普通に見られるもの
ざらめゆき 雪粒子が再結晶を繰返し粒子が肉眼で認められる程度になつたもの
こほりゆき みづゆき,ざらめゆきが氷結して硬くなり氷に近い状態になつたもの

つまり“七つの雪”は降ってくる雪ではないのです。

『東奥年鑑』をよく見ると,続いて「降雪ノ種類ノ名稱」として次の4つが挙げられています。

こなゆき,つぶゆき,わたゆき,みづゆき

おわかりでしょう。ほんとうは津軽には四つの雪しか降らないのです(笑)

〜能天気Express 2006/11/29〜

後楽園で予想屋とテキ屋が大乱闘

1959年12月1日10時40分ごろ,後楽園競輪場で予想屋の5人のグループにテキ屋一家の20数人が刃物を持って襲いかかりました。大乱闘となり,予想屋グループの1人が重傷,4人軽傷を負いました。

この騒ぎでテキ屋一家の5人が逮捕されました。

どうやら予想屋どうしのナワバリ争いだったもようです。

当時の後楽園競輪場はといえば,ゴロツキのたまり場だったようで,1960年1月13日付の読売新聞によると,後楽園競輪場の場内には予想屋300人,コーチ屋100人,ノミ屋多数,場外にカイキ屋(あやしげな機械を使って予想を立てる)4組,新聞立ち売り100人,白タク多数,その他場内外にダッコ屋(風呂敷包みを抱いてのり巻きや大福を売る)50〜60人などの“ダニ”がいたそうです。

刃物くらいならまだいいほうで,1955年2月26日付の読売新聞には

短銃持って競輪場へ 後楽園
鮮人一人逮捕

という記事があります。嫌チoンな人の喜びそうな記事ですが,残念ながら実際には“鮮人”ではなくただの暴力団の組員で(在日でもなかったもよう),警備員への報復だったようです。この警備員も別の組の組員だったというのですから,後楽園競輪場がどんなところだったかは想像に難くありません。

後楽園競輪場ばかりではなく,他の競輪場も似たようなものだったのかもしれません。中でも有名な鳴尾競輪暴動事件については能天気Express〜新世界版〜 ジェーン台風が招いた鳴尾競輪暴動事件をご覧ください。

ちなみに,その後楽園競輪場の跡地にできたのが,永久に不潔なチームの本拠地となっているあの屋根つき球場です。

隠岐で大旋風

1886年12月1日18時ごろ,隠岐近海で竜巻が発生しました。

折から出漁中の島後の漁民が巻き込まれ,100戸ばかりの大久村では29人が死亡,西郷町周辺の町村では6人が死亡,48人が行方不明になったもようです。

後楽園で予想屋とテキ屋が大乱闘

1959年12月1日10時40分ごろ,後楽園競輪場で予想屋の5人のグループにテキ屋一家の20数人が刃物を持って襲いかかりました。大乱闘となり,予想屋グループの1人が重傷,4人軽傷を負いました。

この騒ぎでテキ屋一家の5人が逮捕されました。

どうやら予想屋どうしのナワバリ争いだったもようです。

当時の後楽園競輪場はといえば,ゴロツキのたまり場だったようで,1960年1月13日付の読売新聞によると,後楽園競輪場の場内には予想屋300人,コーチ屋100人,ノミ屋多数,場外にカイキ屋(あやしげな機械を使って予想を立てる)4組,新聞立ち売り100人,白タク多数,その他場内外にダッコ屋(風呂敷包みを抱いてのり巻きや大福を売る)50~60人などの“ダニ”がいたそうです。

刃物くらいならまだいいほうで,1955年2月26日付の読売新聞には

短銃持って競輪場へ 後楽園 鮮人一人逮捕

という記事があります。嫌チoンな人の喜びそうな記事ですが,残念ながら実際には“鮮人”ではなくただの暴力団の組員で(在日でもなかったもよう),警備員への報復だったようです。この警備員も別の組の組員だったというのですから,後楽園競輪場がどんなところだったかは想像に難くありません。

後楽園競輪場ばかりではなく,他の競輪場も似たようなものだったのかもしれません。中でも有名な鳴尾競輪暴動事件については能天気Express~新世界版~ ジェーン台風が招いた鳴尾競輪暴動事件をご覧ください。

ちなみに,その後楽園競輪場の跡地にできたのが,永久に不潔なチームの本拠地となっているあの屋根つき球場です。

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隠岐で大旋風

1886年12月1日18時ごろ,隠岐近海で竜巻が発生しました。

折から出漁中の島後の漁民が巻き込まれ,100戸ばかりの大久村では29人が死亡,西郷町周辺の町村では6人が死亡,48人が行方不明になったもようです。

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