ダービーはなぜ5月下旬か[再]

1956年の日本ダービーは6月3日に行なわれました。

この年は5月下旬から早くも前線が日本の南海上に貼りつき,九州南部では5月1日,九州北部では5月21日,中国では5月29日,近畿では5月24日に梅雨にはいりました。

ダービー前日の2日は雨。この雨のため東京六大学野球早慶戦が順延になりました。

ダービー当日,東京の天気予報は「くもり一時晴」。しかし予報は大ハズレ,朝から雨が降りはじめました。昼ごろからは降ったりやんだりになりましたが,早慶戦は2日続けての順延になりました。

ちょうど6月1日に中華人民共和国中共)が気象管制を解き,暗号を使わずに平文で気象放送を送りはじめました。天気予報がもっと当たるようになる……という期待をもったニュースの直後の大ハズレでした。

ついでですが,日本もアメリカも太平洋戦争中は気象電報を暗号を使って送信していました。しかし末期になると,アメリカは航空機による観測データを暗号化しないで送るようになりました。完全に制空権を掌握していたため,航空機の位置を知られてもまったく危険がなかったからです。

ブリンカーをつけていないため話がズレましたが,こうして東京競馬場は2日続けて雨に見舞われ,ダービーは重馬場で迎えることになりました。人気を見てみると,NHK盃を勝ったキタノオーが1番人気,皐月賞馬ヘキラクが2番人気,ハクチカラが3番人気,オークスからの連闘で臨んだフエアマンナが4番人気でした。本来ならキタノオーが人気をかぶってもおかしくはなかったのですが,外ワクと道悪がきらわれたようです。

スタート直後,内からハクチカラ,タメトモ,ミナトリユウが飛び出し,外からはヘキラク,キタノオーが先団にとりつこうと内側に切れ込んできました。そしてこの2頭に押圧される形となったエンメイが転倒,これに躓いたトサタケヒロも転倒しました。トサタケヒロは人馬とも無事でしたが,エンメイは左肩胛骨を骨折して予後不良,鞍上の阿部正太郎騎手も再起不能の重傷を負いました。

これがダービー史上最大といわれる事故です。ちなみに,阿部正太郎騎手は騎手としては再起できませんでしたが,のちに調教師となり,加賀武見騎手を育てることになります。

これだけの事故にもかかわらず,スンナリと通過順どおりに確定,しかしキタノオーの勝尾騎手,ヘキラクの蛯名騎手には過怠金が課せられるという不可解な決定に納得しなかった人も多かったようです。また,馬主が吉川英治氏ということもあってか,当時の競馬にしては大きく伝えられました。このため,競馬史上はじめて事故調査のための審議会が開かれました。しかし,事故のようすがハッキリ写っているはずの新聞社のニュースフィルムが証拠として検討されないなど,はじめから結論ありきで,予想どおり原因不明の事故というウヤムヤ決着でした。吉川英治氏が馬主をやめたのは,事故そのもののショックというよりはこの不透明さにイヤ気がさしたからではないでしょうか。

その後,事故防止対策のひとつとして,ダービーの開催日を梅雨がはじまる前の5月末にという提案があり,これによってダービーの5月下旬開催が定着したといわれています。

しかし,この年の関東甲信地方の梅雨入りは6月9日で,エンメイの事故は梅雨にはいる前に起こっていたんですけどねえ……。

それはともかく,ダービーが5月下旬に行なわれる理由としてはこの説明が定着しています。

しかし,これは話の半分に過ぎません。

東京優駿(大)競走の施行日を見てみると,第1回の1932年から1937年までは4月に行なわれていて,従来の目黒競馬は4月に行なわれていたのでこれは当然の流れでしょう。しかし1938年に5月29日に行なわれてからはほぼ5月下旬~6月上旬に定着しています。なぜこの時期が選ばれたのでしょう?

おそらくモデルとしたイギリスのダービーの日程を参考にしたのだろうと推測はできますが,あくまで推測の域を出ません。1930~1940年代はいちばん嫌いな時期なので,調べる気になりません。どなたか,かわりにどうぞ。

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長篠の合戦[再]

桶狭間の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに,当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは,火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい),気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

稲村ヶ崎の奇跡[再]

「鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調にで攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

話がそれましたが,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話ですが,どこまでが事実なのでしょうか? 果たして潮が干いたのはほんとうなんでしょうか?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに,潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっています。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

東北本線黒磯駅15時32分発福島行き

3年くらい前から帰省するときは各駅停車に乗っています。去年からはついでに車内の放射線量を測っています。窓際に置いた計測器の値を駅に到着する直前に読むだけなので正確な測定法に則っているわけではないですが,参考までにその値を載せます(単位はμSv/h)。

すべて黒磯駅15時30分台(32分または34分)発の福島行きの電車です。また,2012/05/04の値はRD1503,あとの2つはDC-100によるものです。

2012/05/04 2012/12/30 2013/05/03
(黒磯) (0.18) (0.11) (0.09)
高久 0.22 0.13 0.13
黒田原 0.24 0.12 0.14
豊原 0.26 0.16 0.11
白坂 0.24 0.20 0.24
新白河 0.26 0.16 0.10
白河 0.24 0.13 0.12
久田野 0.17 0.10 0.11
泉崎 0.22 0.12 0.10
矢吹 0.17 0.06 0.08
鏡石 0.16 0.08 0.06
須賀川 0.17 0.07 0.08
安積永盛 0.21 0.10 0.12
郡山 0.34 0.24 0.24
日和田 0.24 0.22 0.20
五百川 0.37 0.34 0.30
本宮 0.44 0.32 0.28
杉田 0.46 0.37 0.43
二本松 0.55 0.35 0.36
安達 0.36 0.18 0.22
松川 0.44 0.25 0.24
金谷川 0.40 0.34 0.27
南福島 0.35 0.23 0.22
福島 0.27 0.21 0.25

5月の“五月雨”[再]

五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として五月晴れから。

さつきばれを『スーパー大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に

[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること

とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

私自身は俳句以外で『スーパー大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。

ちなみに,今の時期に「さわやかな五月晴れ」というのは俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,私は俳句には何の興味もないのでどうでもいいですが。

五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが五月雨《さみだれ》です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いてめったに使われなくなりました。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでない私も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

は,だから何なの? と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を五月川《さつきがわ》とよぶそうです。

5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月31日ごろですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常梅雨のはしりあるいははしり梅雨とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁

例年より約十日早く“はしり梅雨”にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される

という向こう1か月の予報を発表しています(新聞からの孫引き)。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょうね。号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州南部が28日,北陸が29日,九州北部が30日,四国と近畿は特定できない――となりました。梅雨入りの日が特定できなかったのはこの年だけです。また,沖縄の梅雨入りが6月になったのも東北(南部)より遅かったのもこの年だけです。

これだけ早いとどこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には気違い梅雨前線という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。

桶狭間の合戦[再]

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

台風の発生間隔

今年の台風は1号が1月3日,2号が2月22日と早めに発生しました。
ところが,2号の発生からすでに82日が経過しているというのに,その後音沙汰がありません。

この82日という空白は短いのか長いのか――気象庁のベストトラックデータを使って遊んでみました。

次は2号と3号の発生間隔の長いほうから10位までです。左から発生間隔(日),2号の発生日時(JST),3号の発生日時(JST)です。

141.625  1992/02/03 21時  1992/06/24 12時
133.750  1985/01/07 15時  1985/05/21 09時
80.000  1957/01/22 09時  1957/04/12 09時
77.000  2002/02/28 21時  2002/05/16 21時
68.000  1987/04/11 15時  1987/06/18 15時
60.500  1978/04/19 03時  1978/06/18 15時
53.250  1961/03/25 09時  1961/05/17 15時
47.500  2007/05/18 03時  2007/07/04 15時
45.500  2009/05/03 21時  2009/06/18 09時
45.250  2000/05/19 09時  2000/07/03 15時

これを見ると,今年の82日というのはすでに第3位にランクインしていることがわかります。ただ,2位へのランクアップはかなり難しいかもしれません。

ちなみに,1954年は台風2号が存在しないため,はじめから除外してあります。1号と3号の発生間隔は68.000日なので,本来であれば上位にはいってきているはずでした。

それでは,2号と3号だけではなくすべての台風の発生間隔はどうなっているか――というわけで,長いほうから20位までを挙げておきます。

213.750  1997/12/07 21時  28号    1998/07/09 15時  01号
200.500  1972/12/13 15時  31号    1973/07/02 03時  01号
199.250  1982/12/08 09時  25号    1983/06/25 15時  01号
194.750  2010/10/25 03時  14号    2011/05/07 21時  01号
186.500  1975/01/22 15時  01号    1975/07/28 03時  02号
181.500  1951/12/11 15時  21号    1952/06/10 03時  01号
176.250  1983/12/16 09時  23号    1984/06/09 15時  01号
174.750  1999/11/14 15時  22号    2000/05/07 09時  01号
174.250  2005/11/16 15時  23号    2006/05/09 21時  01号
147.250  1963/12/20 09時  24号    1964/05/15 15時  01号
146.500  2007/11/21 03時  24号    2008/04/15 15時  01号
145.250  1972/01/06 09時  01号    1972/05/30 15時  02号
145.000  1965/11/14 15時  32号    1966/04/08 15時  01号
143.250  1988/01/08 09時  01号    1988/05/30 15時  02号
141.625  1992/02/03 21時  02号    1992/06/24 12時  03号
141.000  2008/12/13 03時  22号    2009/05/03 03時  01号
139.500  1962/12/08 15時  30号    1963/04/27 03時  01号
135.500  2003/11/21 21時  21号    2004/04/05 09時  01号
134.750  1998/12/10 03時  16号    1999/04/23 21時  01号
133.750  1985/01/07 15時  02号    1985/05/21 09時  03号

“年越し”が多いですが,1号-2号間,2号-3号間も上位にきている年があります。

雷雨の中の日本ダービー(1967年)

1967年5月14日は朝から絶好の“ダービー日和”でした。ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出しました。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによるもので,いわゆる“熱界雷” です。

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬“静”から“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念!
(5月15日付サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなりました。最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。ただ, 当時のハロンタイムは数字どおりには信用しないほうがいいようです。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりますが,そこから先, 馬の識別ができません。私の場合は質の悪いビデオ画面で見ているせいもありますが,フジテレビで実況していた鳥居アナも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったそうです。

リユウズキはちょっとわかりませんが……

人気馬のポジションを正確に伝えていた鳥居アナにしては珍しい実況だと思います。

激しい雨をついて馬群が向こう正面から3コーナーへと進んだところでマイクがかなり大きな雷鳴を拾っています。

4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウに,ヤマニンカツプが外から, シバフジが内から並びかけて激しい叩き合いが300mほど続きましたが,アサデンコウが凌ぎきりました。

アサデンコウはレース中に左前肢第一指骨を骨折しており,しばらくして馬運車で運ばれていった――ともいわれていますが, 次の日の新聞に口取り写真が載っています。これはどういうわけなんでしょう?

なお,このときの雷雨によって千葉県と福島県で5人死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害がありました。5月15日付読売新聞より:

熱界雷大あばれ
四人感電死,降ヒョウ被害
十四日午後“五月の雷”が関東・東北をあばれまわり,千葉,福島両県で計四人が落雷のために死んだ。初夏の日ざしで気温が上がったところへ,北から冷たい空気がもぐりこんで起こした熱界雷というあばれん坊。

今の新聞とは表現がかなり違います。

その後(それ以前も?),ダービーが雷雨の中で行なわれたことはありません。

ついでに,この日の天気図を載せておきます(日本時間21時)。

  • 地上天気図

  • 500mb天気図

  • 850mb天気図

メイストーム・デー

きょう5月13日はメイストーム・デーです。

この日に何かきっかけになるような事件や災害があったわけではなく,2月14日のバレンタインデーから88日後にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとくそろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期ということです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。たとえきょうは乗り切ったとしても,次なるXデーに備えて今から準備しておきましょう。

ちなみに,八十八夜は立春から数えて88日目,つまり89日後で,バレンタインデーから数えて88日目は前日の5月12日です。メイストーム・デーを考えた人はあまり深くは考えなかったのでしょうねぇ。

ついでに,1961年5月12日付読売新聞夕刊より:

五月のアラシ けさ最大風速20メートル

○…けさ出勤間ぎわの午前9時ごろから東京地方では横なぐりの強風とともにはげしいにわか雨があり,サラリーマン,BGなどがズブぬれになった。これは一昨日から記録破りのむし暑さをつづける“天候異変”とつながる現象。

○…日本海から北海道にかけて大きな低気圧があり,この谷間に向かってしめっぽい南の風が吹き込んでいるためだ。強風はけさ五時には瞬間二十・一メートルにもなる“メー・ストーム”(五月のアラシ)となった。

これが私が調べた範囲でのメイストームの新聞初出です。

平城山を越えた女

05/10の金曜プレステージ浅見光彦シリーズ47「平城山を越えた女」が放送されました。

原作は1990年10月に出版された作品で,どうしてこんな古い作品を放送したんでしょうねえ?

この作品は1943年に起こった香薬師仏盗難事件がそもそもの事件の発端であるため,20年ばかり時間をシフトさせて盗難は1963年に起こったことになっています。フィクションなのでそれはそれでいいのですが,1か所致命的ともいえる矛盾がありました。浅見家にある仏像事典はお父さまが戦前に買ったそうですが,そうすると雪絵お母さまは現在いったい何歳なんでしょう?

時間の経過がストーリーに影響がないなら,どんなに古い作品を放送してもかまわないかもしれませんけどね。

なお,TBS月曜の浅見光彦シリーズのカオスな時間軸に比べれば,この程度の矛盾はまだマシです。