今日の土曜ワイド劇場は「司法教官・穂高美子3」

今日の土曜ワイド劇場は司法教官・穂高美子3「死亡時刻が二転三転!?遺産30億強奪トリックを“スイーツ姉妹”の空飛ぶバウムクーヘンが解く!!」です。

舞台となる司法研修所や司法修習については公式サイト裁判所|司法研修所を見て下さい。私はまったく知りません。

実は拙宅の近くにホンモノの司法研修所があります(笑) しかしここでロケが行なわれたという話は聞かないので,エンドロールの撮影協力に名前のある別のどこがで名義詐称が行なわれているのでしょう。

そのホンモノの司法研修所ですが,

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というようなおっかない看板があるのでもちろん中にははいりません。外から撮りました。

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「司法教官・穂高美子3」のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より引用:

司法試験に合格した修習生たちが、裁判官や検事、弁護士を目指して共に学ぶ“司法研修所”。その検察教官を務める穂高美子(水野真紀)は、東京地検から異動してきた優秀な検事で、講義の厳しさから修習生たちからは“タカビー”とあだ名をつけられていた。
群馬・前橋地検に派遣された修習生のひとり、白鳥歩美(三倉茉奈)が交通事故に遭ったという知らせが入る。軽トラックの荷台から液体入りのドラム缶が落下し、歩美の乗る車がスリップ、壁に激突したのだ。運転していたのは、歩美の父であり、前橋を拠点に全国展開しているショッピングモール“クイーンズ白鳥”の社長・太一(加納竜)で、会長で祖父の健蔵(野村昇史)も同乗していた。歩美だけは奇跡的に軽傷ですんだが、太一も健蔵も死亡。歩美によれば、祖父は頭部を強く打って即死だったものの、父は事故直後まだ息があり、懸命に心臓マッサージを行ったものの、救うことはできなかったという。軽トラックの運転手・下山信行(松澤一之)は積荷の固定を怠ったことを全面的に認め、おそらく業務上過失致死で送検となると思われた。
美子は民事担当教官の弁護士・小宮譲(筧利夫)と共に見舞いに駆けつけるが、クイーンズ白鳥の顧問弁護士・大林公子(野村真美)が、なんと姉2人、真知子(遊井亮子)とゆり(雛形あきこ)が、妹の歩美を訴えるつもりだと伝えに来た。真知子とゆりは“クイーンズ白鳥”ブランドのスイーツを開発して大ヒットさせ、世間から“スイーツ姉妹”とよばれて注目を集めていたが、かねてから対立していた。社長と会長を失った今、会社の経営権と30億円もの遺産をめぐって早くもいがみ合っているようで、2人は歩美の救命処置がなければ父親は助かったと考えているという。どうやら歩美に遺産が渡るのも気に食わないらしい。
そんな中、美子は歩美の様子をさぐるストーカー・飯島誠(池内万作)を見かける。そして、6年前まで看護師として働いていた歩美が弁護士を目指すきっかけとなった悲しい過去を知るのだが…!? ところがその矢先、下山が新たな供述をはじめ、なんと歩美に殺人容疑がふりかかる事件まで起きて…!?

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【2014年版】日本ダービーの芝コース草丈史

開催週の金曜日にJRAの公式サイトで発表される馬場情報から,ダービーの週の芝コースの草丈を抜き出して並べてみました。それだけです。

芝コースの草丈
2014 野芝約10~12cm,洋芝約12~16cm
2013 野芝約6~8cm,洋芝約14~18cm
2012 野芝約6~8cm,洋芝約12~16cm
2011 野芝約8~10cm,洋芝約12~16cm
2010 野芝約6~8cm,洋芝約12~14cm
2009 野芝約6~8cm,洋芝約12~16cm
2008 野芝約6~8cm,洋芝約14~18cm
2007 野芝約6~8cm,洋芝約12~16cm
2006 野芝約6~8cm,洋芝約12~16cm
2005 開催日の草丈は洋芝12~16cm,野芝6~8cmの予定です。
2004 開催日の草丈は,洋芝12~16cm,野芝11~14cmの予定です。
2003 開催日の草丈は10~12cmの予定です。
2002 開催日の草丈は約10cmの予定です。

発表をそのまま信じると,今年は野芝が異様に長い?!

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史上最強のダービー馬

史上最強の日本ダービー馬はカブラヤオーです。異論は認めません。

ゲートが開くやいなや菅原騎手が出ムチを入れて飛び出したのを見て,こりゃダメだ~と思った人も多かったと思います。1コーナーをまわるあたりからはテレビ馬トップジローに絡まれて,2コーナーまでに後続を10馬身以上離し,前半1000mの通過は58.6秒という,誰が見ても暴走でした。

さすがに終いはバタバタになって,4コーナーは内ラチいっぱいをまわったはずなのに,右にヨレ,左にヨレ,ゴールでは馬場の4分どころを走っていました。それでも後続には抜かせませんでした。

フジテレビの盛山アナウンサーの

カブラヤオーがんばれ,がんばれ,カブラヤオー,勝てそうだ,勝てそうだ

はベルリン五輪での河西アナの前畑ガンバレ!!と並ぶ放送史に残る迷実況でしょう。

もっとも,盛山アナにはハイセイコーのNHK杯のときの

あと200しかないよ!

という“前科”もありました。さらにいえば,1973年の秋の天皇賞では

トーヨーチカラ優勝~!!

と実況していました。優勝はタニノチカラだったんですが。

ちなみに,ポニーキャニオンから出ているこのダービーを収録したビデオやDVDでは,カブラヤオーを先頭に馬群が1コーナーにかかるあたりで,突然意味不明にも映像が観客席に向いているカメラに切り替わっています。実はこのとき先団を追いかけていたカメラの画像が数秒間乱れていたのでした。

一方,NHKのドラマ「男たちの旅路」のたしか「路面電車」という回で,このダービーのスタートからゴールまでがオープニングに使われていました。フジテレビのではないので1コーナーで乱れていません。

カブラヤオーは史上最強の日本ダービー馬ですが,もちろんベストダービーもこの1975年のダービーです。

ついでに,カブラヤオーにまつわるどうでもいい話。

かつてターフサウンドステーション(TSS)という競馬場内のミニFM放送がありました。ダービー前日の土曜日,「記憶に残るダービー馬は?」というようなテーマでメッセージを募集していたことがありました。もちろんカブラヤオーで投稿したら,なんと読んでいただきました。ラジオへの投稿が読まれたのは実はこれがはじめてでした。ただ前半1000mの通過タイムを間違って58.7秒と書いてしまったのが悔やまれます。

ちなみに,TSSの放送中に起こったスティンガ1号事件は一時期ネットなどでも有名になりましたが,今では知る人も少ないんではないかなあ……。

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日本ダービーと台風

5月に台風が上陸することは少ないし,日本ダービーは最近では5月の最終日曜日(または6月の第1日曜日)に定着していることもあり,日本ダービーが台風の直撃を受けたことはありません。

直撃ではないにせよ史上もっとも台風の影響を受けたと思われるのが1965年5月30日のダービーです。

ダービーの直前の5月27日,潮岬の南方海上にある定点観測点付近を通って北東に65~85km/hの速い速度で進んできた台風6号が12時ごろ東京湾をかすめて館山市付近に上陸しました。5月の台風上陸は1914年5月30日以来51年ぶりのことでした。

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この台風と梅雨前線の影響で,東北地方南部から九州にかけて大雨となり,新幹線が全線不通となって雨に弱いことを暴露したほか,かなりの被害が出ました。

この日東京競馬場で行なわれたダービーの追い切りも強風雨の中,泥んこ馬場での追い切りとなりました。

台風警報下の“ダービー調教”なんていうのは前代未聞,今後も恐らくないだろう。二十七日の午前五時半から行なわれた東京競馬場での追い切りは,田植えのできそうな泥んこのダートコースで,全くの“責め馬?”だった。
(1965.05.28日刊スポーツ)

レースももちろん,ビデオで見る限りものすごい不良馬場。もっとも,質のよくないモノクロフィルムのせいで実際よりも悪く見えているかもしれません。

単騎で逃げるキーストンの1頭だけ白いままの帽子が印象的です。前半1000m通過64.0秒の“タメ逃げ”でしたが,最後の200mに14.3秒かかっています。ダイコーターが詰め寄ったというよりは,終いバタバタになってしまったのでしょう。

最近では,まず2003年があげられます。

5月31日05時ごろ台風4号が愛媛県宇和島市付近に上陸しました。上記の1965年の台風6号以来38年ぶりとなる5月の台風上陸です。

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翌6月1日にダービーが行なわれましたが,この台風から変わった低気圧と前線の影響による雨のため,馬場状態は重でした。府中のアメダスでは31~1日にかけて83mmの降水量が観測されています。

4角で各馬外をまわる中,エイシンチャンプと逃げたエースインザレースが最内をついたシーンをおぼえている人も多いでしょう。

勝ったのはネオユニヴァース,鞍上はミルコ・デムーロでした。

2011年は,四国に向かって北上していた台風2号がダービー当日の15時に温帯低気圧に変わりました。

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西日本~東日本はちょうど梅雨入りしたばかりで,西日本を中心に大雨になりました。

東京競馬場でも26日(木)から断続的に雨が降りはじめ,府中のアメダスでは28日(土)に17.5mm,ダービー当日の29日(日)には91.0mmの降水量が観測されました。

ダービーの馬場状態は2009年以来となる不良。2冠を達成したオルフェーヴルの勝ちタイムは2.30.5でした。

このダービーからもう3年たつんですね。

※この記事はダービーと台風 | 能天気Express Hyperを少し書き直したものです。

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虎が雨

阪神タイガースとかいう名前の野球チーム関係の涙雨ではありません。プロ野球には全然興味がないからわからないんですけど,阪神って今年も最下位なんですか?

さて,虎が雨とは五月二十八日(旧暦)に降る雨です。今日降る雨ではありません。

建久四年五月二十八日,ユリウス暦で1193年6月28日のことです。源頼朝が催した富士山麓での大巻狩の深夜, 曽我十郎祐成曽我五郎時致の兄弟が月のない真っ暗な闇の中,松明を手に父の仇である工藤祐経の陣屋に討ち入りました。

寝込みを襲われた祐経はあっけなく討ち取られましたが,その後の十番切りとよばれる乱戦の中で兄十郎は朝比奈四郎に討たれ, 弟五郎は捕らえられました。そして翌日,頼朝による尋問ののち処刑されました。

十郎には虎御前という愛人がいました。五月二十八日にその虎御前が十郎の死を悲しんで流す涙が雨となって降るのが「虎が雨」 であると伝えられています。

兄弟の敵討ちの記憶と梅雨という気象現象が結び付き, そこに田植えのために雨を乞う人々の思いが重なって徐々に用いられるようになったもの
~『曽我物語の史実と虚構』

のようです。

『吾妻鏡』には仇討ちの日の天気について次のように書かれています。

小雨降る。日中以後霄《は》れ。……

まず,はじめ小雨が降っていたが,日中から晴れたとあります。そして,祐経を討ち取ったあとの「十番切り」 のときは

雷雨,鼓を撃ち,暗夜に燈を失ひ……。

とあり,激しい雷雨だったようです。

江戸時代には,兄弟の仇討ちのときに雨が降っていたことは常識になっていたらしく,次のような詠史川柳があります。

泥足で工藤が夜具をはね除ける

しかし,『吾妻鏡』や真名本『曽我物語』では「十番切り」に雷雨の記述があるので, 兄弟が工藤の陣屋に向かう途中はまだ雨は降っていなかったと思われます。そうでないと“なけなしの銭”で買ったらしい松明が消えてしまいます。

なけなしの銭で松明二本買ひ

これもまた,江戸時代の詠史川柳です。曽我兄弟は貧乏だったというのも江戸時代の常識だったようです。

今では曽我兄弟なんかよりウルトラ兄弟とか宇宙兄弟なんかのほうが有名みたいですが,六代目宝井馬琴さんの夜討曽我 紋づくし,機会があったら聞いてみて下さい。思わず引き込まれます。

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5月の“五月雨”

五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として五月晴れから。

サツキバレという競走馬がいましたが,ここでは取り上げません。さつきばれを『大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に

[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること

とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

私自身は俳句以外で『大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。

ちなみに,今の時期に「さわやかな五月晴れ」というのは俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,私は俳句には何の興味もないのでどうでもいいですが。

五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが五月雨《さみだれ》です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いてめったに使われなくなりました。ちなみに“五月雨式”は『大辞林』によると

(梅雨時の雨のように)途中,途切れながらもだらだらと長く物事が続くこと。また,そのようなやり方。「一か月間―に会議がある」

という意味らしいです。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでない私も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

は,だから何なの?とかそれがどうしたの?と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を五月川《さつきがわ》とよぶそうです。

5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月31日ごろですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常梅雨のはしりあるいははしり梅雨とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁が

例年より約十日早く“はしり梅雨”にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される

という向こう1か月の予報を発表しています(新聞からの孫引き)。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょう。号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州南部が28日,北陸が29日,九州北部が30日,四国と近畿は特定できない――となりました。梅雨入りの日が特定できなかったのはこの年だけです。また,沖縄の梅雨入りが6月になったのも東北地方(南部)より遅かったのもこの年だけです。

これだけ早いとどこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には気違い梅雨前線という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。だから昔の新聞の社会面は面白い(笑)

気違い梅雨前線

1963年7月1日付朝日新聞朝刊より:

“気違い梅雨前線”
抜打ち豪雨
死者は16人に 九州北部

記事を読んでもどこが“気違い”なのかわかりません。

ただ,同日の読売新聞朝刊の見出しにも

狂った天候
二時間に一一四ミリ降った北九州の豪雨
16人死に,23人が不明
福岡の浸水,三万戸を越《ママ》える

とあるので,当時の感覚で何か狂った感じがしたのかもしれません。あるいは気象庁の記者発表にそのような表現が使われたのかもしれません。

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今日の土曜ワイド劇場は「検事・朝日奈耀子」

今日の土曜ワイド劇場は検事・朝日奈耀子(15)「医師&検事~2つの顔を持つ女!蕎麦を食べたら3億円!?財産狙いの妻達を襲うヒマワリ発火トリック!!女の嘘を隠した心拍数の謎」です。

2003年からはじまったこのシリーズも15作目ですか。でもこのシリーズ,なぜか印象がうすいんですよね。どうしてだろう?

私的に眞野あずささんは,女弁護士高林鮎子とはぐれ刑事純情派のバー「さくら」のママ片桐由美の印象が強いです。

ちなみに,本題とは直接関係ないですが,今日5月24日は安浦刑事夫人志津枝さんの命日みたいです。

検事・朝日奈耀子(15)のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より一部引用:

東京地検の朝日奈耀子(眞野あずさ)は、医師免許を持つ異色の女検事。よき相棒である検察事務官・大山聡(内藤剛志)らとともに連日、多くの事件を担当している。
耀子のもとに、葬儀会社で働く滝口夏美(酒井美紀)が放火殺人容疑で送致されてきた。夏美は2週間ほど前、医師の明久(岩永洋昭)と入籍したばかりだったが、その3日後に事故で夫が他界。2人の結婚に反対し続けていた姑の道代(芦川よしみ)を鉄パイプで殴って殺し、現場の倉庫に火をつけた容疑がかかっていた。
実は、明久には病院長の娘との縁談が持ち上がっており、夏美との結婚には道代だけでなく、明久の父で総合商社社長の信夫(河西健司)も強く反対していたという。明久の姉・千賀(大路恵美)もその夫・悟朗(村杉蝉之介)もまた、夏美は財産目当てに明久と結婚したものと勘ぐっていた。そして、夏美の育ての親である葬儀会社経営者・岩村健一郎(深水三章)もまた、セレブな滝口家とは不釣合いすぎるとして、2人の結婚に猛反対していた。
耀子の取り調べに対し、夏美は犯行を否認。しかし、現場に焼け焦げたビーズの塊が落ちていたことを知ると一転、犯行を自供する。
不審に思った耀子が調べたところ、夏美はビーズでマスコットを作るのが趣味で、育ての親である岩村にも、ひまわりをモチーフにしたマスコットを手作りしてプレゼントしていたことがわかる。
耀子は夏美が岩村をかばって供述を変えたのではないかとにらむが、取り調べ中、夏美が胸を押さえて息苦しそうな表情を浮かべるのを見て、精密検査を命じる。すると夏美は23年前、アメリカで心臓移植手術を受けていたことが判明。現場の状況から、心臓移植を経験している夏美に犯行は不可能だと耀子は考える。
その後、道代が岩村に対し、「あなたのヒミツを知っている」と脅していた事実が浮上。さらに夏美と明久の新居から、23年前に茨城県潮来市で起きた強盗事件の新聞記事が見つかる。事件の鍵は、夏美が心臓移植を受けた23年前にあるのか…!? その謎を耀子が探りはじめた矢先、今度は岩村が何者かに襲われる事件が起きて…!?

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数寄屋橋での出会い (1945年)

1945年5月24日の夜,米軍による爆撃の最中の数寄屋橋で後宮春樹と氏家真知子が出会い,半年後の11月24日の夜にこの橋の上での再会を約束するというのが,映画君の名はの冒頭のシーンです。放送時間中は女湯が空になったという都市伝説のあるラジオの連続放送劇も同様なんだと思いますが,聞いたことはありません。

しかし,実際には5月24日の夜には空襲はなく,このころ東京に空襲があったのは24日未明と25日夜~26日未明でした。

このうち数寄屋橋付近に空襲があったのは25日夜~26日未明です。

奥住喜重・早乙女勝元『新版東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る』によると,この作戦命令は第21爆撃機集団野戦命令79号で,発令は25日02時00分(日本時間),爆撃は25日22時38分にはじまりました。

原作者が日にちを間違えたのか,そうでないとすればなんらかの理由で変えたのでしょう。

ちなみに,1991年にNHKの連続テレビ小説で「君の名は」(ヒロイン鈴木京香)が放送されたときは“5月のある日の夜”にボカされていました。

さて,半年後の11月24日,下心いっぱいの春樹は約束どおり数寄屋橋のたもとの交番の前に行きますが,真知子にスッポカされます。それもそのはず,この交番は1944年6月から1946年6月まで閉鎖されていたため行きたくても行けなかったのです。ではなくて,確か四ツ谷の家が空襲で焼けたため佐渡の親戚宅に身を寄せていたのではなかったかな。

あきらめのつかない春樹は,未練がましく1年後の1946年11月24日にその場所に行ってみると,なんとそこに真知子があらわれるというつくられたような展開。再会を約束したときに今年会えなかったら来年,来年会えなかったら再来年……と春樹がいっているので,まあ不自然ではないですが。

春樹がシメシメと思ったのつかの間,真知子から重大発表が!!

……私,明日……明日……結婚するんです。

ここから春樹の人妻追っかけ人生がはじまります。

次の写真は現在の……ではなくて(笑)5年前の数寄屋橋。

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それにしても,この君の名はにしても愛染かつらにしても独身男が人妻を追っかけるという話なのはどうしてなんでしょうねえ? しかも「愛染かつら」の高石かつ枝は子持ちだし……。真知子もどこかで妊娠するんですよね,確か。

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大仏の頭が落ちる

斉衡二年五月二十三日(ユリウス暦で855年7月10日),東大寺から都に,大仏の頭が落ちた,との報告がありました。

この前,五月十日,十一日に地震の記録があることもあり(六月二十一日,二十五日にも地震の記録がある。ついでに六月一日には日食の記録がある),地震によって落ちたとされることがありますが,『文徳実録』には

毘盧舍那大佛頭自落在地

とあるだけで,地震で落ちたとは書いてありません。

誰かが故意にやったのだとしても,もうとっくの昔に時効が成立していますね(笑) 奈良県警というと,2時間サスペンスでは誰だろう?

直接関係ないですが,5月23日というと,1960年5月22日のチリ沖地震(M9.5)によって発生した津波は太平洋を渡っている最中で,まだ日本には到達していません。すでに到達したハワイでは最大波高10.5mを記録しています。

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稲村ヶ崎の奇跡?! (1333年)

鎌倉」と題する唱歌があります(芳賀矢一作詞)。鎌倉の観光ガイドのような長い歌で,次の歌詞ではじまっています。

♪七里ヶ浜の いそ伝い
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場

ここに歌われている名将とは,もちろん新田義貞です。元弘三(1333)年五月,分倍河原での一時的な退却あったものの稲村ヶ崎まで順調に攻めのぼってきた新田義貞も,天然の要害,鎌倉への侵入路を捜しあぐねていました。五月二十一日の夜半過ぎ,意を決して稲村ヶ崎の浜で数万の自軍を背にしてひとり馬から降り,兜を脱いで沖合いを伏し拝み,龍神に祈りを捧げます。

……仰願ハ内海外海ノ竜神八部,臣ガ忠義ヲ鑒テ,潮ヲ万里ノ外ニ退ケ,道ヲ三軍ノ陣ニ令開給ヘ

祈りおわって,黄金づくりの太刀を海中に投じると,なんと不思議なことに,今まで潮の干いたことがない稲村ヶ崎の海が二十余町にわたって干いたではありませんか。

どうでもいいですが,TBSの世紀のワイドショー! ザ・今夜はヒストリーでこの場面を再現したときはなぜか真っ昼間に太刀を投げ入れていました。

いずれにしても,こうして生じた干潟から義貞軍は一気に鎌倉に攻め入り,鎌倉幕府の要人はもはやこれまでとほとんどが自害。ここに鎌倉幕府は滅びるのです。

以上は太平記に載っている話です。果たして潮が干いたのはほんとうなのか? 真実や如何に?

これについては諸説あり,いちばんもっともらしい(と私が以前思っていた)のは,義貞は潮の満ち干を知っていて,士気を鼓舞するためにひとり芝居を演じたという説です。

ところが,この説には致命的な欠点があります。この日は旧暦の五月二十二日ですから,稲村ヶ崎あたりの干潮は午前2時から3時ごろです。したがって潮が干いたのは事実でしょうが,これはいつでも起こっていることで,“今まで潮の干いたことがない”稲村ヶ崎が干上がったことを説明できません。それに上州育ちの義貞が潮の満ち干についてそれほど詳しかったとも思えません。

さらに潮が干いたあとは歩きにくく,海というものに慣れていない上州の軍勢がスムーズに通れたかどうか疑問です。江戸時代の詠史川柳に

義貞の勢はアサリを踏みつぶし

というのがあります。

ということで,ドラえも~ん,なんとかしてよ~とタイムマシンでも借りない限りほんとうのところはわかりませんが,私的にはこの話は作り話で,義貞軍の本軍は稲村ヶ崎を通ったのではなく,別のところを通って鎌倉に攻め込んだのだと思います。

ただ,義貞軍本隊が化粧坂路を進んでいたころ,大館宗氏率いる右翼軍の一隊が由比ヶ浜を突破しており(ただし,大館宗氏はその後の戦いで討死),このときにひょっとして潮が干いたのを利用したのが,話を面白くするためか軍記物にありがちな針小棒大癖のためか誤ってか義貞軍本隊の話として伝えられたのでは……と思えないことはありません(根拠はないです)。

ところで,鎌倉といえば,大仏です。唱歌「鎌倉」にもあります。

♪極楽寺坂 越え行けば
長谷観音の 堂近く
露座の大仏 おわします

ここに歌われているように,奈良の大仏さんと違って鎌倉の大仏さんは露座,早い話が雨ざらしです。

もちろん,つくられた当時は大仏殿のようなものがそれなりにあったようです。ところが,3回の大風(そのうちの1回は『吾妻鏡』に載っている台風と思われますが,他は確認していません)によって倒壊,追い撃ちをかけるように1495年の津波によって流され,それ以来露座となったのでした。

この津波は,1498年の明応東海地震によるものとされてきました。しかし,最近の研究では1495年の相模湾を震源とする地震に伴う津波と考えられるようになっているようです。

それにしても,大仏殿が流されたのに大仏さんはよく踏みとどまったものです。

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