長篠の合戦 (天正三年)

桶狭間(山)の合戦から15年後,天正三年五月二十一日(グレゴリオ暦で1575年7月9日),織田信長が徳川家康と連合して設楽原で武田勝頼を破った戦いです。

名だたる武者から組織された武田の騎馬軍団を織田の名無しさん足軽鉄砲隊が三段撃ちという新戦法で壊滅させた戦術革命ともいえる画期的な戦い……と最近までいわれてきた戦いです。実際には,武田の“騎馬軍団”も織田鉄砲隊の“三段撃ち”もなかったし,まして“戦術革命”をもたらしたといえるような戦いではありませんでした。

ちょっと馬の歴史を調べればわかるように,当時の日本の馬はかなり小さく,平均すると120~140cm程度の体高で,現在ではポニーとよばれる大きさでした。有名なところでは,宇治川の先陣争いで名を馳せた佐々木四郎高綱の生喰《いけずき》は145cm,源義経が乗ったと伝えられる青海波《せいがいは》は142cmでかなり大柄な部類ですが,それでも160~165cm程度である現在のサラブレッドとは比べるのもかわいそうなくらいです。しかも体重は220~260kg程度で,今のサラブレッドのせいぜい半分です。さらに当時まだ蹄鉄は使われていませんでした。

このような“ポニー”が蹄鉄なしで重武装の武者を乗せたりしたら,そもそも戦場を駆け回れるかどうかわかりませんし,かりに戦場を駆け回れたとしても,すぐにバテてしまってとても“いくさ”にならなかったのは火を見るより明らかです。しかも当時は去勢の習慣がなかったため(なぜか日本だけらしい)気性の激しい馬が多く,整然と隊伍を組んで命令一下突撃などできたのか,はなはだ疑問です。

戦国時代になると,馬に乗って戦場にやってきても,馬から降りて戦うことが多くなっていました。武田軍の中に馬に乗って織田陣に切り込もうした武者はもしかしていたかもしれませんが,とても“騎馬軍団”などといえる集団ではなかったはずです。

話が馬のほうにヨレてしまいましたが(ブリンカーをしたほうがいいかな(笑)),合戦の前日は一日中雨が降っていました。戦いの舞台となった設楽原は水田地帯で,この雨のため泥沼と化して足場がたいへん悪くなっていました。合戦の当日は朝から雨が上がりましたが,足場が悪いのには変わりなく,20kgにもおよぶ甲冑を着込んで,5kgほどもある鉄砲を撃ち,撃ったらその鉄砲をかついで最後方に下がって弾を込め……なんて三段撃ちを続けざまに2~3回もやったらすぐにバテてしまいます。かりにこんなことができたとすれば,それは名無しさん足軽の寄せ集めなどではなく,サイボーグのような超人的な精鋭部隊だったでしょう。別の意味で“戦術革命”だったに違いありません。

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桶狭間(山)の合戦

永禄三年五月十九日(現行のグレゴリオ暦に換算すると1560年6月22日)正午過ぎ,織田信長は

敵は疲れとるぎゃ~! この一戦に勝てば末代までの功名だぎゃ~!! 一心に励めだぎゃ~!!!

ニコチャン大王弁を話したかどうかは知りませんが,桶狭間山に陣取る今川軍の本陣を目指し進軍を開始します。その数およそ2000ですが選りすぐりの精鋭部隊。一方,桶狭間山の今川義元の本隊は,その数不明(笑) 諸説あるようですが,全軍の数もホントのところ15000から20000くらいだったそうですから,本隊には5000くらいがいたものと思われます。しかし戦闘員がどのくらいいたかは不明です。

すると突然,一天にわかにかき曇り,突風とともに猛烈な雨が降り出しました。突風によって沓掛峠のふた抱えもあるくすのきが音をたてて倒れました。信長軍では

これぞ熱田明神のお力だぎゃ~!!

とささやき合ったそうです。

この突風はダウンバーストガストフロントだったのかもしれません。ダウンバーストについて,『気象科学事典』による説明を見ておきましょう。

ダウンバーストは,積雲や積乱雲から生じる,冷やされて重くなった強い下降気流のこと。地面に到達後激しく発散し,突風となって周囲に吹き出していく。突風の風速は,10m/s 程度のものから強いものでは 75m/s に達する。 吹き出しの水平的な広がりは,数 km 以下と小さく,寿命は10分程度と短いことが多い。

どっちにしろ,気象庁の機動調査班が現地調査を行なっても,物証が残ってないため今となっては確認できないでしょう。

突風が文字どおりの追い風になったかどうかはわかりませんが,熱田明神云々からもわかるように,精神的な追い風にはなったことでしょう。今川軍にも何らかの影響を与えたかもしれません。

信長は自軍の行動を今川軍に隠すつもりはなかったようですし,天候の急変を利用しようとする意図もなかったようですが,突然の強雨と突風によって今川軍に気づかれにくくなったことは確かです。

信長軍は雨が止むのをみはからって,今川軍本陣に攻めかかりました。今川軍は大混乱におちいり,混乱の中で偶然にも今川義元が討ち取られたことは広く知られているところです。

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今日の土曜ワイド劇場は「デパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7」

今日の土曜ワイド劇場はデパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7~和菓子の老舗で連続殺人!美人店長は見た!!一族経営の罠と野望に隠れた儚き復讐~です。

このシリーズの丸越デパート青葉支店の舞台になっているのはあついぞ!熊谷にある八木橋百貨店です。八木橋百貨店といえばこれ↓

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そうです,巨大手動温度計。今年も13日に設置されたそうです。熊谷の夏を象徴「大温度計」 今年も暑いまちをPRより一部引用:

熊谷の夏を象徴「大温度計」 今年も暑いまちをPR

熊谷の夏を象徴する大温度計型の看板が13日、熊谷市仲町の八木橋百貨店にお目見えした。八木橋と地元のなおざね商店街の企画で、暑いまちを全国にPRする。

大温度計は縦4メートル、横65センチのアルミ製。午前11時と午後2時に熊谷地方気象台が発表する熊谷の気温を表示する。今回は2月の大雪を受け、熊谷で観測された積雪62センチの目盛りも追加。同店東口と西口に8月末まで設置する。

熊谷は2007年、岐阜県多治見市とともに当時の国内最高気温40・9度を記録。暑さを逆手にとったまちおこしで知名度を上げたが、昨年8月、41・0度を観測した高知県四万十市に暑さ日本一の座を奪われた。

デパート仕掛け人!天王寺珠美の殺人推理7のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より:

丸越デパートの販売員、天王寺珠美(泉ピン子)が企画した、老舗和菓子店『とうのや』のフェアが大反響を呼ぶ。人気商品は限定品の『いちじく大福』。売り場には行列ができ、山岡柊平(村田雄浩)は顧客の整理に大忙しだ。そこへ、一人の男が現れ、大福に画鋲が混入していたといちゃもんを付け始める。持ってきた画鋲を見た珠美は、男を一刀両断。その形状から、新商品として画鋲が発売された日付と、大福を購入した日付が合致しないことを即座に見破ったのだ。これに男が逆上。乱闘騒ぎとなるが、とうのやの会長、海老沢時子(星由里子)の秘書で、柔道経験のある藤原亮祐(池内万作)の活躍で一見落着する。
珠美には、フェアの成功と同時に、達成しなければならない大事な業務があった。それは、時子の次男でとうのやの商品開発を手掛ける雄二(小林健)と、丸越デパート内のとうのやで店長を務める長峰朝子(中山忍)との婚礼の引き出物を準備すること。会長の時子からは、とうのやの名に恥じないものをと厳しい注文が付けられている。その手伝いに販売課の石井久子(小林きな子)が名乗りを上げる。聞けば、一月前に知り合った客と、結婚を前提に付き合っているという。かわいい部下のめでたい話に、珠美は一層やる気をみなぎらせ、引き出物の選定に取りかかる。
その甲斐あって、珠美のセレクトは時子のお眼鏡にかない、大量500個の注文を受ける。ところが、時子が支払に使おうとしたクレジットカードは、なぜか使用停止状態に。その時、秘書の藤原から急の知らせが入る。長男で社長の一志(佐藤一平)が行方不明になったというのだ!
失踪した一志のデスクには、借用書の山と二種類の帳簿が隠されていた。一志のせいなのか、長女の仁美(中原果南)のカードも使えなくなっているという。
翌朝、一志は山中で、首を吊った状態で発見される。マスコミは、一志が会社の金を流用してカジノに8億円をつぎ込んでいたとし、自殺説を報道。丸越デパートのとうのやフェアの客足は、ぱったりと止まってしまう。
そんな中、警察は一志の死は他殺と発表。その直後から、仁美や朝子ら関係者への聞き込みが始まる。
当初、仁美は、一志のカジノ通いを知ったのは死後だと告げるが、実は、一志を最初にカジノに誘ったのは、仁美の別れた夫・堺田将彦(萩野崇)だったことが発覚。警察は朝子にも、仁美と一志の兄弟仲について執拗に聞いてくる。仁美は自分がとうのやを継ぎたかったばかりに、一志や、一志を社長に選んだ時子を恨んでいたらしいのだ。
一方の丸越デパートでは、とうのやのお菓子のキャンセルが相次ぎ、フェアも中止に追い込まれてしまう。また、雄二と朝子の結婚延期も決まり、時子はショックを隠しきれない。しかし、そんな時子を珠美は叱咤激励。勇気づけられた時子は、堂々と報道陣の前に立ち、今回の騒動を詫びるとともに、自らの社長就任を発表する。
ところが、その翌日、時子と総会屋の男が握手をしている写真がでっち上げられ、ネットや新聞に掲載されてしまう。一志が殺され、その疑いが仁美に向く中、さらに時子のスキャンダルとなれば、とうのやの社会的地位は失墜したも同じ。専務の上杉孝司(徳井優)は、海老沢一家の退陣を要求する。
その晩、力を落とした時子が、藤原に付き添われて珠美の自宅を訪ねてくる。上杉の反乱にショックを受けた時子は、行き場がなく、珠美を頼ってきたのだ。そんな時子を珠美は快く受け入れ、騒ぎが治まるまで匿うことにする。また、上杉の豹変が気になった珠美は、山岡に一志殺害時の上杉のアリバイを調べるよう指示。ところが、その矢先に山岡が何者かに襲われ…!?

そういえば,今週は月曜,昨日,今日と2時間サスペンスレギュラー放送に3回も泉ピン子が出ています。やめてほしいです。ハッキリいって,泉ピン子と菊川怜は2時間サスペンスにイラネ!!

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チェーンメールで放射線のデマ拡大?!

チェーンメールで放射線のデマ拡大

という見出しの記事が,2011年5月16日付の読売新聞朝刊に載りました。

福島第一原発の事故に関連して,千葉県の柏,松戸,流山と,埼玉県の三郷の計4市で,飛び地のように放射線の観測数値が高くなる「ホットスポット」が発生しているといううわさがチェーンメールやツイッター,ネット掲示板などで広がっている。

文部科学省原子力災害対策支援本部は「千葉と埼玉で測定されている数値は平常値と変わらない」としており,日本データ通信協会迷惑メール相談センターは「公的機関や報道機関などの根拠のある情報を確認してほしい」と注意を呼びかけている。(以下略)

これこそが悪質なデマ記事だったことは今さらいうまでもないでしょう。

読売新聞は次のようないい訳にもならない“いい訳”はしましたが,“お詫びと訂正”はしていません。

 東大が公開していた柏キャンパスの空間放射線量(地上1メートル)は、3月21日に毎時0・80マイクロ・シーベルトに達していた。後に国が定めた除染基準の毎時0・23マイクロ・シーベルト以上(同)よりは高いが、原発事故との関係が不明確で、紙面化は見送った。

 市民や研究者が測定した線量をインターネットで発信し始めると、住民に不安が広がった。本紙は県や市に取材したが、行政は東葛地域で測定しておらず、情報はなかった。

 こうした中、本紙5月16日付朝刊「震災掲示板」に、「チェーンメールで放射線のデマ拡大」との記事が載った。文部科学省の指摘などを引用し、柏市などで放射線量が高いといううわさは根拠がないとして警鐘を鳴らす内容だった。ただ、デマと決めつけられる根拠は乏しかった。
(2012年3月11日 読売新聞のWebニュースより)

最近では,『美味しんぼ』のせいで数百人の団体客が飯坂温泉の宿泊をキャンセルした,との福島テレビの報道にデマ疑惑が起こっています(【美味しんぼ】飯坂温泉大量キャンセルはデマだった可能性が – NAVER まとめ)。これがデマなら悪質どころの騒ぎではなく,もう立派な犯罪でしょう。

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雷雨の中の日本ダービー(1967年)

1967年5月14日の東京地方は朝から絶好の“ダービー日和”でした。ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出しました。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによる,いわゆる熱界雷 です。

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬か“静”ら“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念!
(5月15日付サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなりました。最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。ただ, 当時のハロンタイムは数字どおりには信用しないほうがいいようです。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりますが,そこから先,馬の識別ができません。私の場合は質の悪いビデオ画面で見ているせいもありますが,フジテレビで実況していた鳥居アナウンサーも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったそうです。

リユウズキはちょっとわかりませんが……

人気馬のポジションを正確に伝えていた鳥居アナにしては珍しい実況だと思います。

激しい雨をついて馬群が向こう正面から3コーナーへと進んだところでマイクがかなり大きな雷鳴を拾っています。

4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウに,ヤマニンカツプが外から,シバフジが内から並びかけて激しい叩き合いが300mほど続きましたが,アサデンコウが凌ぎきりました。

アサデンコウはレース中に左前肢第一指骨を骨折しており,しばらくして馬運車で運ばれていった――ともいわれていますが,次の日の新聞に口取り写真が載っています。これはどういうわけなんでしょう?

その後(それ以前も?),日本ダービーが雷雨の中で行なわれたことはありません。

なお,5月14日の日本ダービーは東京優駿大競走として創設されたころはともかくとして,5月下旬~6月上旬に定着して以降は異常に早い日程です。とくに調べてはいませんが,東京競馬場の改修によるものと思われます。

ところで,この日は東北地方南部から関東地方にかけてのやや広い範囲で積乱雲が発生しました。落雷により千葉県と福島県で5人が死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害がありました。5月15日付読売新聞より:

熱界雷大あばれ
四人感電死,降ヒョウ被害
十四日午後“五月の雷”が関東・東北をあばれまわり,千葉,福島両県で計四人が落雷のために死んだ。初夏の日ざしで気温が上がったところへ,北から冷たい空気がもぐりこんで起こした熱界雷というあばれん坊。

同日の毎日新聞:

雷雨,ヒョウ,大暴れ
四人感電死 農作物にも被害
十四日の日曜日午後,東北南部から関東一円にかけて各地で雷雨やヒョウが降り,感電死や農作物の被害を出した。これは同日朝からのむし暑い陽気で地表の空気があたたまったところへ,北から寒冷前線が早いスピードで南下してきたため各地で雷雲が発生,雷雨やヒョウを降らせたもので,群馬,栃木,茨城,埼玉,東京などでは,ことしはじめての雷雨注意報が発令された。気象庁は毎年五月の十五日から雷雨予報を出しているが,ことしは予報を待たずに一日早く“夏の訪れ”をふれ回った。

ついでにこの日の天気図を載せておきます(日本時間21時)。

  • 地上天気図

  • 500mb天気図

  • 850mb天気図

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メイストーム・デーとメイストーム

メイストーム・デー

昨日も書いたとおり,きょう5月13日はメイストーム・デーです。

この日に何かきっかけになるような事件があったわけではなく,2月14日のバレンタインデーから88日後にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとくそろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期ということです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。たとえきょうは乗り切れたとしても,次なるXデーに備えて今から準備しておきましょう。

メイストーム・デーの嵐を乗り切ると,6月12日は恋人の日,そのあとには7月7日のラブスターズデー(サマーラバーズデー,サマーバレンタインデーともいう。早い話が七夕)も控えています。

ちなみに,メイストーム・デーの翌日の5月14日はグリーン・デーですが,ほとんど広まっていないようです。ついでに4月14日のオレンジ・デーもほとんど知られていませんね。

なお,八十八夜は立春から数えて88日目,つまり87日後で,バレンタインデーから数えて88日目は前日の5月12日です。メイストーム・デーを考えた人はあまり深くは考えなかったのでしょうねぇ。閏年もとくに考えられていないようです。

メイストーム

というわけでメイストームです。May Stormなのでしょうが[ついでにドイツ語ではMaisturm],もちろん和製英語[和製独語?!]です。モノによって多少意味するところが違うのですが,比較的新しい『気象科学事典』には

4月後半から5月にかけて,日本海や北日本方面で発達する低気圧,またはそれに伴う暴風雨。

とあります。4月のメイストームってのは違和感ありありですが。

きっかけとなったのは,1954年5月8日09時に黄海に発生した1008mbの低気圧です。この低気圧は9日09時に朝鮮半島の東に進み 988mb。その後,北海道を横断し,10日09時にエトロフ島の北に進んだときは950mbまで発達しました。北海道を通過した低気圧としては,1934年3月に函館大火を引き起こした函館颴風と並んで観測史上もっとも強いもののひとつでした。

この低気圧によって海難事故が相次ぎ,数字は資料によって異なりますが,『理科年表』によると,死者31,不明330,住家全半壊12359,船舶の沈没・流失・破損348などの大惨事となりました。

当時の新聞から見出しをひろってみましょう。

暴風雨全道を襲う
家屋の倒壊続出
通信,交通施設も被害甚大
白老で五十戸全壊
(1954年5月11日付北海道新聞夕刊)

海陸に被害増大 全道を襲った暴風雨禍
六百九十戸全半壊 死傷十九,行方不明一
沈没三十八消息不明十六
遭難漁船二百六十九隻に達す
ひしひしと飢え,寒さ 壊滅的被害の御影村
(1954年5月11日付北海道新聞朝刊)

当時は日本で数値予報の研究がスタートしたばかりのころでした。その研究グループがモデルとして研究したのがこの1954年5月の低気圧で,これに「メイストーム」と名づけたのがメイストームの起源とされています。

この低気圧については宮澤清治『近・現代日本気象災害史』(イカロス出版)が詳しいです。

メイストーム・デーのメイストーム

以前メルマガを発行していたとき,メイストーム・デーに低気圧が日本付近を通過したことはないか調べたことがあります。

1968年,1976年,1980年,1988年,1995年,2004年などがめぼしいところですが, 1968年と1988年以外は低気圧がそれほど発達したわけではなく,メイストームといえるほどではありません。なお,最近のことには興味がないため,その後については調べていません。

調べてわかったことですが,なぜかこの日は移動性高気圧におおおわれることが多いです。そのせいで 東京では特異日というほどではないにしても晴れが多いです。別れ話を切り出すなら, メイストームのドサクサまぎれより,さわやかな五月晴れのもとでのほうがカラッとしていいかもしれませんね。

どうでもいいですが,“さわやかな五月晴れ”に文句をつける化石のようなヤカラって今でもいるんでしょうかね?

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メイストーム・イブ

1961年5月12日付読売新聞夕刊より:

五月のアラシ けさ最大風速20メートル

○…けさ出勤間ぎわの午前9時ごろから東京地方では横なぐりの強風とともにはげしいにわか雨があり,サラリーマン,BGなどがズブぬれになった。これは一昨日から記録破りのむし暑さをつづける“天候異変”とつながる現象。
○…日本海から北海道にかけて大きな低気圧があり,この谷間に向かってしめっぽい南の風が吹き込んでいるためだ。強風はけさ五時には瞬間二十・一メートルにもなる“メー・ストーム”(五月のアラシ)となった。

これが私が調べた範囲でのメイストームの新聞初出です。

というわけで,あす5月13日はメイストーム・デーです。したがって今日はメイストーム・イブ(ホントか?)。

5月13日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期(ホントか?)。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

別れを告げるにせよ告げられるにせよ,備えあれば憂いなしです(ホントか?)。明日に備えて今日のうちから準備しておきましょう。それが防災の心得です(ホントか?)。

でも,いくら備えてもダメなときはダメです。

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九十九里で津波被害(1877年)

1877年5月11日,九十九里に津波が襲来し,犠牲者が出たもようです。

この津波は1877年5月10日にチリ沖で発生したM9.0のイキケ地震による津波がはるばる太平洋を越えて到達したものです。

『日本被害津波総覧[第2版]』によると,太平洋沿岸各地で津波が観測され,チリ北部で死者多数,ハワイでは死者5人,家屋破壊37棟などの被害がありました。日本でも函館2.4m,釜石3m,東京湾0.7mなどの津波が観測されています。

14日付の読売新聞には次のようにあります。

午後四時過ぎ滿潮で凡そ一尺あまりも引汐になると又だんだんと二尺ほども揚て來たゆゑ海邊や川筋の者は膽をつぶし大地震でも有はしまひか何だか氣味の惡い變亊だと云てゐるうちに引てしまいひました・・・・

15日付の読売新聞には九十九里での被害のようすが次のように書かれています。

・・・・午後四時ごろに再び冲の方から大波を打よせ老若男女の周章は大たならず見る間に海岸が平ら一面の浪になり其内老人子供は泣々浪に引込まれ其きり命を捨たもあり九死をのがれて小高い所へ逃のびたも有て村々は死人怪我人が餘ほど有ツた樣子で實に眼も當られぬ憐れな亊なほ委しくハ跡よりと?して來ました

北上川で12日から洪水が起こり,13日には水位が“一丈”も上がったようですが,これについては11日の大雨による影響もあるかもしれません。

具体的な被害については『日本被害津波総覧[第2版]』にも

函館と三陸沿岸で被害があった。また房総半島で死者を含む被害があった。

とあるだけです。おそらく自治体編纂の地域誌にも記述がないのでしょう。

ちなみに,当時の新聞の同じ面には

二月十七日ハ西郷隆盛が鹿児島出立にて・・・・

などという記事があり,歴史を感じます。

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濃霧の紫雲丸沈没事故(1955年)

今年の4月16日に韓国のクヮンメド沖で起こったセウォル号の沈没事故は記憶に新しいところです。船長をはじめとする多くの船員のすさまじいまでのモラルの低さとともに,たくさんの修学旅行生が犠牲になった痛ましさが印象に残る事故です。

さて,59年前の今日,濃霧の瀬戸内海で国鉄宇高連絡船の客貨船紫雲丸が同貨物船第三宇高丸と衝突,紫雲丸が沈没し168人が犠牲となる事故が起こりました。犠牲者のうち100人が修学旅行生でした。

瀬戸内海は平均的に見ればそれほど霧の発生しやすいところではありませんが,5月から梅雨の時期にかけては温かく湿った空気と冷たい空気とが混ざり合ってできる混合霧が発生しやすくなります。

1955年5月11日,濃霧の中,紫雲丸が乗客781人と乗組員63人を乗せて高松港鉄道第一岸壁を出港したのは06時40分でした。そして16分後の06時56分に第三宇高丸と衝突,わずか5分後に横転・沈没しました。

事故の原因は紫雲丸の船長がやってはいけない左転をやったためとされていますが,船長が死亡したため本当の原因は不明になっています。

既述のように,犠牲者168人のうちの100人は修学旅行の生徒,さらにその中の81人が女生徒でした。ほとんどは衝突後に自分の荷物を取りに船室に戻って犠牲になったようです。

当時はまだ物質的に貧しかった時代,子どもを修学旅行に行かせることは多くの家庭にとって大きな経済的負担でした。子どもたちはそのことをよく理解しており,この日のために揃えてもらった旅行用の荷物や家族のために自分で買ったおみやげは大切なものだったのでしょう。修学旅行生の中でも女の子の犠牲が多かったのは,体力的な問題,水泳教育の問題のほかにも,こんなところにも原因があったのではないでしょうか。

衝突から沈没までわずか5分間だったにもかかわらず多くの人が救出されたのは,第三宇高丸の乗組員の救助活動によるところが大きかったようです。

また,1艘の小さな漁船が救助に大活躍し,50人近くの命を救ったそうです。

紫雲丸の中村正雄船長は退船を拒否してブリッジに残り,船と運命をともにしました。ただ,このことが事故の原因をわからずじまいに終わらせる結果になりました。

ところで,当時の天気図を見ると,中国の気象データがすべて空白になっています。

19550511-09

中国(中共)が気象管制を敷いていたためで,解除されたのは1956年6月になってからです。ちなみにその直後,のちの日本ダービーに大きな影響を及ぼすことになるあの事故が起こります。詳しくはダービーはなぜ5月下旬か[再] | Notenki Express 2014をご覧ください。

ブリンカーをしていないので話がそれました。西のほうの正確な気象情況がわからないというのはいってみれば見えないところから石が飛んでくるようなもので,このような条件下で天気図を解析して予報を組み立てなければならなかった当時の予報官の苦労が偲ばれます。

参考文献: 萩原 幹生. 宇高連絡船紫雲丸はなぜ沈んだか. 成山堂書店, 2000.

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今日の土曜ワイド劇場は「監察官・羽生宗一」

今日の土曜ワイド劇場は監察官・羽生宗一,サブタイトルは“毒ハブと呼ばれる男,殺意の銃弾!!交番巡査発砲事件に疑惑あり!!迷子の子ネコちゃんの秘密…”でいいのかな?

もともと捜査畑ではない監察官がメインになる2時間サスペンスは珍しく,最近では2013年12月18日に放送された水曜ミステリー9「嫌われ監察官 音無一六~警察内部調査の鬼~」くらいではないでしょうか。

その監察官・羽生宗一を演じるのは中村梅雀さん。梅雀さん主演の土曜ワイド劇場といえば弁護士森江春策の事件シリーズ(第1作のみ“弁護士・森江春策の裁判員法廷”)がありましたが,第3作が2011年10月29日に放送されたっきりです。もう終わってしまったのでしょうか。

「監察官・羽生宗一」のあらすじ

テレビ朝日|土曜ワイド劇場より:

警察庁キャリア組採用の上原和也(渡辺大)は、警視庁警務部監察官補佐に配属された。監察官とは、警察内部を監視する、いわば警察の中の警察。「かなりのエリートコースだ」と意気込んで監察官室に向かったところ、突然、部屋にいた女性警察官に怒鳴られてビックリする。彼女によると、昨夜、東京・世田谷で交番巡査による発砲事案があり、すでに上原の上司である監察官は負傷した巡査の入院先に向かっているという。監察官の名前をたずねる上原に、女性は「毒ハブだ」と答える。

急いで病院に向かい、監察官を探し出した上原。その監察官こそ羽生宗一(中村梅雀)、陰で“毒ハブ”とよばれる、アクの強い人物だった。そして先ほど監察官室にいた女性は、デスクの戸川良子警部(戸田恵子)とわかる。警察官として輝かしいスタートを切ったはずが、個性の強い上司たちを前に、暗澹たる気持ちになる上原…。
羽生と上原は、入院中の武藤正彦巡査(蟹江一平)に発砲の様子を聴取する。武藤は―昨日深夜、地下駐車場で車上荒らしをする男を発見。ナイフで向かってきたその男・渡辺昇一(吉川拳生)に、2度の警告を発した上で発砲したという。1発目は空に向けて、そして2発目は手首を狙ったが、ナイフで腕を切りつけられていたため手元が固定できず、心臓を直撃してしまったようだった。結果、渡辺は即死していた。
話を聴き終わった上原は適正な発砲だと感じるが、どうやら羽生は疑いを持ったようだ。「狙いが外れたか、あるいは心臓を狙ったか、だ」。

その後、武藤の所属する世田谷中央署で、彼の上司から話を聴く、羽生たち。署長の今井純(東根作寿英)はキャリア組で、福岡県警の次期部長職が内定しており、副署長の野崎三郎(石丸謙二郎)はなんとか今井を無事に送り出そうとしているのが見え見えだった。
さらに、羽生と上原は、車の持ち主であるデザイナー・原田祐介(河相我聞)にも話を聴く。羽生は、渡辺の名前を聞いた瞬間、原田が仕事の手を止めたのが気にかかる…。

そんな中、今井から武藤に対して“警視総監賞”が申請された。武藤は、身体を張って車上荒らし事件を解決し、地域の安全を守ったというのだ。だが、羽生は調査はまだ終わっていない、と納得しない…。そこへ、羽生を名指しした謎の電話がかかってきた。その男は、「武藤は、男を狙って撃ったんだ」と羽生に告げる。この発砲事案には裏がある――。そう確信した羽生たちは、本格的な捜査を開始するが…!?

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