山に初雪降るころに…

「小さな日記」という歌があります。

1968年にフォー・セインツというフォークグループが出したなかなかいい曲です。いかにも1960年代という感じのする曲で,1970年代にはやり出すいわゆるニューミュージックのわけのわからなさや,同じく1970年代に忽然と現われて消えた四畳半フォークの貧乏くささがありません。ちなみに,四畳半フォークの代表とされる「神田川」の舞台は三畳ひと間の小さな下宿で,四畳半の広さすらありませんけれど(笑)

さて,「小さな日記」の中で,彼はどうして死んだのでしょう? 詞では「山に初雪ふる頃に」つまり季節的には広い意味でちょうど今ごろ,「帰らぬ人となった彼」とあるだけで,山で死んだとは書いてありません。そこの交差点で飲酒運転の車に轢かれたのかも知れないし(当時は“交通戦争”ということばがありましたし),通り魔に襲われたのかもしれません。

でも,ふつうに考えれば,山に行って帰ってこなかったのでしょうね。もちろん家出ではなく,帰ってはきたけれどいわゆる無言の帰宅。おそらく“雪”で滑って転落死したか,天気の急変を読めずに軽装で行って凍死したかということなのでしょう。いずれにしても無謀登山による自業自得の死,ということになりますが……。だから彼とのことは思い出したくもない過去なのかも知れません。元も子もないですけど(笑)

それともうひとつ。何をやっているときに小さな過去がつづられた「小さな日記」を見つけたのでしょう? おそらく押し入れか物置の奥の奥にしまってあったと思われるのですが。引っ越し作業の途中だったのでしょうか。

ちなみに,この曲を歌っていたフォー・セインツはのちにフォー・クローバーズという名前で「冬物語」を歌うことになります。同名のドラマ「冬物語」の主題歌ですが,「冬物語」をパクってつくられたのがあのキムチの悪臭漂うドラマ「冬のソナタです。

木枯らし1号

その年の秋から冬にかけてはじめて吹く木枯らしを「木枯らし1号」とよぶことがあります。

「木枯らし1号」を公式に発表しているのは東京(関東)と大阪(近畿)だけですが,基準が微妙に違います。“冬型の気圧配置のときにその年はじめて吹く(瞬間)風速8m/s以上の北~西北西の風”というのは共通なんですが,期間は関東では“10月半ばから11月末まで”,近畿では“おおむね二十四節気の霜降から冬至まで”となっています。

「木枯らし1号」の平年日は現在は発表されていません。要するに,平年日に科学的な根拠がないから,ということらしいです。

ただ,科学的な根拠云々を別にして平均をとると,だいたい二十四節気の立冬前後,11月7日ごろになるようです(私が計算したわけではありません)。これは偶然というよりは,そのようになるように規準を定めたからでしょう。

1号があれば当然2号,3号,……もあると考えるのがふつうの感覚です(ヤッターマンには1号と2号しかいませんが)。ところが,木枯らしに関するかぎり,2号,3号,……は聞いたことがありません。かなり不自然です。「木枯らし1号」なんて,そもそもからしてセンスのかけらもないネーミングですし。

「木枯らし1号」がいつごろから使われたのかわかりませんが,新聞記事の見出しとしての初登場は,σ(^^;)が調べた範囲では1975年11月11日付朝日新聞夕刊です。ただ,1973年11月2日付朝日新聞夕刊掲載の倉嶋厚さんのコラム「お天気衛星」のタイトルが「木枯らし1号」なので,このころにはすでにぼちぼち使われていたのでしょう。

今はなき月刊誌「気象」に掲載されていた「天気図日記」では意外に早く,1957年10月17日に登場しているように見えますが,「天気図集成」に収録する際に編集でつけ加えられたものかも知れません(未確認)。前年の1956年11月16日には「木枯らしNo.1」ということばも見えます。

「天気図日記」で「木枯らし2号」が使われた例がひとつだけあります。1966年10月29日に「きょうは関東にも木枯らし2号が吹くとみられたが云々」とあります。ただ,まだ木枯らし1号も吹いていない時期だけに(この年の発現日は11月15日),意味不明です。

東京の木枯らし1号の最早日は10月13日(1988年),2番目は10月17日(1957年),3番目は今日10月18日で,1986年と2000年に観測されています。(気象庁天気相談所調べ)

 全国的に西高東低の冬型の気圧配置になった18日、気象庁は「東京地方で木枯らし1号が吹いた」と発表した。昨年(11月16日)より29日早い。東京・大手町では午前10時40分に、最大瞬間風速18・4メートルの北西の風を記録。冷たい季節風が吹いているという。

 「木枯らし1号」は、冬型の気圧配置で10月半ばから11月末までの間に吹く、最大風速8メートル以上の西北西―北の風をいう。これまでに最も早く吹いたのは1988年の10月13日、逆に遅かったのは69年と81年の11月28日だった。

 同庁によると、18日夕方からは気温が下がり、19日朝にかけての最低気温は14度を予想。この秋一番の寒い朝になりそうだという。 [毎日新聞 2000年10月18日]

秋清し。街に野に行楽客

「10月17日」でハードディスク内を検索したらヒットした1954年10月17日付毎日新聞夕刊の見出しです。この日は日曜日ですが,以前は日曜日も夕刊がありました。

運動会でにぎわう豊島園
熱海の散財一億円?

「“雨具が入り用”との気象台の予報が見事に外れた十六,七日は,東京都内はじめ東海地方まですごい人出」だったそうです。

この当時は,10月の中旬が秋の行楽シーズンだったんですね(「体育の日」がまだないので)。熱海もまだメジャーな行楽地だったようです。ここで運動会というのは企業か組合主催の社員リクレーションのための運動会です。今だったらこんなのをやってもほとんど誰も参加しないでしょう。

“悪夢”の相模湖へも

8日に修学旅行の麻布中学の生徒を乗せた定員オーバーの観光船が転覆して22人が死亡するという事故が起こったばかりの相模湖も,この年最高の人出となりましたが,“おいでおいで”が怖いとみえて,さすがにボートに乗る客はいなかったそうです。

真説 10月10日のなぞ

まだ先ですが,10月10日の話です。さまようよろいとなる前はこの日が「体育の日」で,
1964年の東京五輪の開会式を記念した日だということも,もう忘れられつつあります。

東京五輪の開会式が10月10日に決まった理由についてキチンと調べた人はほとんどいないようで,
10月10日が晴れの特異日だからとする俗説がいまだにはびこっていますが,ちょっと調べるだけで面白いことがわかります。
開会式が10月10日になったのは,きわめて簡単にいうと,単に9日の次の日だったからです(爆)

まず,1961年6月のアテネでのIOC総会で,東京五輪の日程は大枠として10/11開会式,10/12休み,
10/13競技開始と決まります。

そして,1962年5月,日本の東京オリンピック組織委員会は具体的な競技の日程などと照らし合わせて,日程を10/09開会式,
10/10休み,10/11競技開始と決定し,6月にモスクワで開かれるIOC総会に提出します。

このように,10月10日開会式という案はもともと存在しなかったのです。
したがって,晴れの特異日だから10月10日になったという話はまったくのデタラメであることがわかります。

東京五輪の日程は1962年6月のモスクワでのIOC総会で最終的に決まるのですが,そのとき10日の休みは要らないという話になり,
10日が開会式と決定したのです。

ちなみに,東京五輪の開催が10月に決まるまではすったもんだの連続で,なかったのは9月案くらいで,5月案,6月案,7月案,
8月案が出ては消え出ては消えしてなかなか面白いのですが,長くなるので別の機会に。

なお,最近では10月10日は晴れることが多いのは事実ですが(ただし,
アンハッピーマンデー化で体育の日の座を奪われてからはスネたのか,晴れが少なくなっています),
東京五輪が計画された1960年代前半まではそれほど晴れは多くはありませんでした。

海をまもる36人の天使

海をまもる36人の天使』は昨日のhttp://blog.notenki.net/2006/07/post_8e2c.htmlの事故を扱った少女マンガです。丘けい子作。1967年に週刊「マーガレット」に連載された作品で,1968年にコミックスになっています。

作品を読めるサイトがあります。

http://okworld.sakura.ne.jp/rensai/index.shtml

この作品はあくまでフィクションで設定はかなり変えてあり,事故に遭ったのは臨海学校に来ていた市立第一小学校の6年生ということになっています。さらに,犠牲者の人数は同じですが,その中になぜか男子生徒1人が含まれています。

主人公は,臨海学校の事実上の現場責任者だった菅原進一という体育主任。バタフライの選手だったそうです。律子という(苗字は不明。σ(^^;)の読み落としか?)フィアンセがいます。

律子の妹・博子はかおる(苗字は不明。これもσ(^^;)の読み落としか?),高橋美樹・輝美の双子の姉妹と仲良し4人組で,この臨海学校に参加していました。

臨海学校最後の日,安全なはずの海岸を突然高波が襲い,35人の女子生徒となぜか1人の男子生徒が犠牲になります。その中には博子と高橋美樹が含まれていました。ちなみに,かおるは母親の形見のロケットを預けるために海から上がっていて,難を逃れました。

事実上の現場責任者だった菅原進一は業務上(重)過失致死を問われ,裁判にかけられます。一審では弁護人の未熟もあり懲役11年(上のサイトで読める版は懲役11年になっていますが,σ(^^;)が国会図書館で見た版は禁固3年になっていました。版によって異なる理由は不明です)の実刑判決がいいわたされますが,8年に及ぶ裁判の末,無罪を勝ち取ることになります。

進一はかなり生徒に慕われていて人望もあり,もともと表向きにはそれほど非難されておらず(かなり現実離れしていますが),激しく非難していたのは唯一犠牲となった男子生徒の母親くらいでした。しかし,この母親も最後には味方とまではいかなくても,理解を示すようになります。

長い裁判の間,進一を支援していたのは,フィアンセの律子と受け持っていた生徒たち,とくに仲良し4人組の輝美,かおるたちでした。律子は進一と両親の板挟みになっていましたが,両親も途中からは折れる形になります。事故当時小学生だった生徒たちは,やがて中学生となり,裁判が終わるころにはいい若者,ロマンスも生まれはじめていました。

実際の事故の現場には教師が23人いたそうですが,このマンガのモデルになった教師がいたかどうかは知りません。逆に,体育主任と教頭が8月9日,証拠隠滅のおそれありとして逮捕されています。体育主任というところが皮肉です。

魔海の恐怖?

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1955年7月28日の午前10時過ぎ,三重県の津市立橋北中学校が市内の中河原海岸で水泳講習を行なっていたところ,女子生徒47人が潮に流され,そのうち36人が死亡するという事故が起こりました。

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当日09時の天気図を見ると,東日本以西は太平洋高気圧(というより小笠原高気圧のほうがピッタリ)におおわれています。四国の南に台風13号がありますが,中心気圧が995mbで,大きな影響があるとは思えません。実際,津測候所によると,南東の風2~3m/s前後,海上は穏やかで風も弱く,海水浴には絶好の日和でした。ただ,このあたりの海は潮流や安濃川の流れなどによって特有の地形ができ,またその地形が潮流に作用して,とくに潮が満ちるときと引くときには強い潮流が起こるところだったようです。29日付の伊勢新聞によると,

現場付近は漁師,付近の人々の話を総合すると「魔のミオ(深み)」といつて恐れられていたところである。安濃川河口が伊勢湾に向かつてカツと口をあけ,ここから南方へ海岸線が贄崎方面へと伸びている。「魔のミオ」は河口右岸から約百五十米,波打ちぎわから二―三米の地点にあり,潮の満干によつてミオの大きさは多少異るが最大時は最長径約百五十米,幅約五十米,深さは二米以上に及ぶという。これは河口の旧突堤につき当つてまき返す潮流で掘られ,既に戦前から存在していたという。・・・(中略)・・・当日はほとんど波ひとつない海水浴日和だった。しかも波打ちぎわに,三十米の地点の惨事である。「突然恐ろしい早さ《ママ》の潮流に流されたという」―付近の古老や漁師の経験と説明を総合すると,この付近は,潮がみちて来る時と引く時には海岸線に沿つて早い《ママ》潮流が走るという。しかもこの潮流は満ち潮の時には北へ,引き潮の時には南へ流れるという。事故の起こつた時は丁度満ちて来る時であつたという。(二十八日干潮午前午前四時二十五分。満潮十時五十五分)

また,同紙は次のようなエピソードを伝えています。

津署では津海岸一帯に六カ所,危険箇所のあることを指摘,直ちにブイなどの標識設備を施こすよう市観光課,学務課へ申入れたところ,早急には出来難いとの返事に,津署では止むなく二十八日竹を買いこみ,応急施設を施そうしていたところ,事故の連絡を受けたという。

後の裁判では,原因を特定できないまま和解が成立しましたが(もっとも,ほとんどの裁判官は自然科学にはトーシロであり(ついでに世間知らずな連中も多そう),原因を判断しろというのが土台無理な話),細かいことはともかく,特有の地形と潮流によって起こった……と考えるのが妥当でしょう。

この事故は,いわゆる心霊現象としておもしろ半分に取り上げられることがよくあります。“中河原海岸”でググるとその手のサイトがいっぱい引っかかります。何年か前にはフジテレビの番組で「魔海の恐怖」として放送されました。

元ネタは週刊「女性自身」の1963年7月27日号です。この事故に遭って助かったHさんの投稿が「恐怖の手記シリーズ③私は死霊の手から逃れたが… ある水難事件・被害者の恐ろしい体験」として載っています。Hさんは実名で掲載されていますが,いちおう伏せておきます。ちなみに,Hさんの名前は事件当時の新聞に見えるので,少なくとも同姓同名の生徒が事故に遭ったのは事実のようです。

Hさんは同級生Sさんと2人で泳いでいました。

私のすぐそばを泳いでいた同級生のSさんが,とつぜん私の右腕にしがみつくと,沖をじっと見つめたまま,真っ青になって,わなわなとふるえています。


……私たちがいる場所から,20~30メートル沖のほうで泳いでいた友だちが一人一人,吸いこまれるように,波間に姿を消していくのです。


すると,水面をひたひたとゆすりながら,黒いかたまりが,こちらに向かって泳いでくるではありませんか。私とSさんは,ハッと息をのみながらも,その正体をじっと見つめました。


黒いかたまりは,間違いなく何十人という女の姿です。しかも頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶりモンペをはいておりました。


……私も魔の手にひかれるまま,海中に沈んでいきました。


しだいにうすれていく意識の中でも,私は自分の足にまとわりついてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を,はっきりと見つづけていました。

なんでも,1945年7月,津市は空爆しか能のない米軍の空襲を受け,多くの犠牲者が出ました。そのとき,火葬しきれなかった遺体の一部を油をかけて焼き,残りの遺体を中河原海岸に埋めたのだそうです。このような非人道的処置を受けた遺体は250体にのぼりました。

この日が7月28日。それからちょうど10年目,その犠牲者の霊が……?!

この話,どこまで本当なんでしょうか。

火葬しきれなかった犠牲者を28日に海岸に埋めたというのは,日本人の倫理観からは考えられず,かりに一時的に埋めたのであればあとで埋葬しなおすはずです。そうでなければ,もう10年も経っているんだし,その間に遺族から抗議があるはずです。

それに,本格的な空襲があったのは28~29日なので,そもそも日付が合いません。28日に埋めたのだとすると,B29の爆撃を受ける前か,受けている最中に遺体を埋めたり焼いたりしたことになります。

1955年7月29日付の伊勢新聞に「現地に観音像を」という見出しの次のような記事があります。

今を去る十年前この日二十八日はB29の焼夷弾爆撃をうけ,津市は焼土と化し多くの犠牲者を出した。……奇しくも火の雨が降つた十年前のこの日この海辺に避難して命拾いをした人々も多かつたその思い出の海が魔の海と化し,悲劇の海になろうとは!

遺体を埋めたり焼いたりしたというのはためにする誰かのデッチ上げでしょう。

ちなみに,心霊スポットを扱った一部のサイトにはこの事故の数年前の同じ日,ところも同じ海岸で幼稚園児十数人が水死する事故があった,と書かれていたりしますが,調べた限りではそのような事故の記録はありません。何年の7月28日とハッキリ書かれたサイトはありませんし,明らかにこれもためにする誰かのデッチ上げでしょう。

5月の“五月雨”

●五月晴れとなりは何をする人ぞ

話の順序として“五月晴れ”から。

“さつきばれ”を『スーパー大辞林』で引くと次のように載っています。

(1) 新暦五月頃のよく晴れた天気。
(2) 陰暦五月の,梅雨の晴れ間。梅雨晴れ。[季]夏。《男より女いそがし―/也有》

もともとは(2)の意味で,いつのころからか(1)の意味に変わったといわれています。

それがいつごろのことなのかはハッキリとはわかりませんが,倉嶋厚さんの『季節ほのぼの事典』によると,1961年発行の『広辞苑』に「[1] さみだれの晴れ間 [2] 転じて五月の空の晴れわたること」とあるそうなので,1960年代のはじめにはすでに一般化していたものと思われます。

σ(^^;)自身は『スーパー大辞林』の(2)の意味で使われた例を見たことがありません(上に挙げられている例句を除く(笑))。お天気番組などの「今日は五月晴れの一日でした」というような表現に文句をいっている人も,(2)の意味で使われた例を実際に見たことがあっていっているのか,はなはだ疑問です。そもそも,(2)の意味の“五月晴れ”っていったいどのくらい一般的に使われたことばなんでしょう? かりにホントによく使われたことばなら,そう簡単に意味が変わるとも思えませんが,そのあたりはどうなんでしょうねえ。

ちなみに,今の時期に「さわやかな“五月晴れ”」というのは(今年の5月はそんな日は少ないですが),俳句的にいえば二重の間違いになっているようです。

まず,“五月晴れ”は,俳句では今もって(2)の意味でしか使われない(らしい)から×。次に“さわやか”は本来,どういうわけか秋の季語なので×。まあ,σ(^^;)は俳句には興味がないのでどうでもいいですが。

●五月雨をあつめて早し××川

意味を変えて生き残っている(再生した!?)“五月晴れ”に対し,ほとんど死語になっているのが“五月雨《さみだれ》”です。

旧暦は平均的に見れば今の暦よりも30日あまり遅いですから,旧暦の五月は今の暦の6月くらいに相当し,ちょうど梅雨の時期です。だから,五月雨《さみだれ》は梅雨どきの雨,あるいは梅雨そのものです。ただ,今は“さみだれ式××”という表現を除いて,めったに使われなくなりました。

ついでですが,五月雨といえば,蕪村の

さみだれや大河を前に家二軒

には,俳句の好きでないσ(^^;)も圧倒される迫力を感じます。同じ蕪村の句でも

さみだれや名もなき川のおそろしき

だから何なの? と反応したくなります。

なお,五月雨で増水した川を“五月川《さつきがわ》”とよぶそうです。

●5月の“五月雨”

沖縄や奄美地方では5月の梅雨は当たり前です。しかしそれより北では,もっとも早い九州南部でも梅雨入りの平年日は5月29日ですから,梅雨といえばふつうは6~7月です。5月に梅雨のような状態になったときは通常“梅雨のはしり”あるいは“はしり梅雨”とよばれます。

ところが,5月がほとんどまるまる梅雨にはいってしまった年があります。

1963年の5月は,4日に移動性高気圧が三陸沖に去って東シナ海に前線を伴った低気圧が現われてから,早くも“はしり梅雨もよう”になりました。10日には気象庁が「例年より約十日早く〝はしり梅雨〟にはいった。とくに,下旬から六月はじめにかけては全国的に曇雨天が多く,しかも,低温が予報される」という向こう1か月の予報を発表しています。

その後も前線が日本付近に貼りつき,気象庁は28日,“梅雨入り”を発表しました。ただ,当時の発表は今とは違っていたようで,新聞には取り上げられていません。今だったら必要以上に大騒ぎするでしょうね。まあ,号外が出るほどのバカ騒ぎにはならないでしょうけれど。

梅雨入りの時期はのちに修正され,東海が4日,関東甲信が6日,中国が8日,九州と北陸は28~30日,四国と近畿は特定できない――となりました。

こうなると,どこまでがはしり梅雨でどこからがホンモノの梅雨なのか区別できません。もともと自然現象に明確な境界などあろうはずはなく,はしり梅雨とホンモノの梅雨の区別もあくまで便宜的,人為的なものです。

ちなみに,この年の梅雨の時期の新聞には,“気違い梅雨前線”という,今ではまずお目にかかれない表現が出てきます。

メイストーム・デー

まだ先ですが,5月13日はメイストーム・デーです。とはいっても,この日にメイストームに関係のある何かが起こったというわけではありません。

聞くところによると,この日は2月14日のバレンタインデーから88日目にあたり,“八十八夜の別れ霜”のごとく,そろそろ別れ話が出てくるころ,裏を返せば別れ話を切り出すには手ごろな時期――というような意味合いのようです。誰が考え出したのか知りませんが,よくできていると思います。

メイストーム・デーの嵐を乗り切ると,6月12日は「恋人の日」,そのあとには7月7日の「ラブスターズデー」(サマーラバーズデー,サマーバレンタインデーともいう)も控えています。ちなみに,メイストーム・デーの翌日の5月14日はグリーン・デーだそうですが,ほとんど広まってはいないようです。ついでに,4月14日のオレンジ・デーもほとんど知られていませんね。

というわけでメイストームです。May Storm なのでしょうが[ついでにドイツ語では Maisturm],もちろん和製英語[和製独語?!]です。モノによって多少意味するところが違うのですが,比較的新しい『気象科学事典』には「4月後半から5月にかけて,日本海や北日本方面で発達する低気圧,またはそれに伴う暴風雨」とあります。

きっかけとなったのは,1954年5月8日09時に黄海に発生した1008mbの低気圧です。この低気圧は9日09時に朝鮮半島の東に進み 988mb。その後,北海道を横断し,10日09時にエトロフ島の北に進んだときは 950mb まで発達しました。北海道を通過した低気圧としては,1934年3月の「函館風」と並んで観測史上もっとも強いもののひとつでした。

この低気圧によって海難事故が相次ぎ,数字は資料によって異なりますが,『理科年表』によると,死者31,不明330,住家全半壊12359,船舶の沈没・流失・破損348などの大惨事となりました。

当時は日本で数値予報の研究がスタートしたばかりのころでした。その研究グループがモデルとして研究したのがこの1954年5月の低気圧で,これに「メイストーム」と名づけたのがメイストームの起源とされています。

メイストームが新聞に初登場したのは,σ(^^;)が調べた限りでは1961年5月29日付朝日新聞夕刊の天気図の解説欄です。これはいわゆる “台風くずれ”(死語)の低気圧が再発達しながら日本海を進んだもので,このとき強風とフェーン現象による乾燥によって「三陸大火」が発生し,1万人以上が被災しました。

ちなみに,この“台風くずれ”(死語)の低気圧が東シナ海にあってまだ台風4号だった5月28日には東京競馬場で第28回日本ダービーが行なわれました。好天に恵まれ,甲州街道は午前中から車の列でマヒ状態。入場者は8万4千人の新記録となりました。

勝ったのはハクシヨウ,2着はハナ差でメジロオー。ダービー史上もっとも僅差の決着といわれています。

一般の記事としては,1970年5月26日付朝日新聞夕刊に「“特急低気圧”が通過 東日本にメイストーム」とあるのが最初だと思います。ただし,朝日以外は調べていません。

1979年5月10日付朝日新聞朝刊には次のような変則?!メイストームも登場します。

記録のメイストーム 王,快気祝いアーチ 一気に3打席連続

なお,メイストームは賞味期限つきの現象なので,毎年発生するとは限りません。どこまでの低気圧をメイストームとするかにもよりますが,発生しない年のほうが多いです。

隅田川にもどった早慶レガッタ

春のうららといえば今は高知競馬場が有名ですが(というのは2年前までの話で,今では完全に忘れられた存在(笑)),大昔は隅田川でした。その隅田川の春の風物詩といえばやはり「早慶レガッタ」。

早慶レガッタは1905年に隅田川ではじまり,敗戦後,1947年に復活したときも隅田川でした。1957年の“あらしのボートレース”も隅田川。このように隅田川で多く行なわれていましたが,川の汚染や首都高の向島線の架設工事などによって,隅田川はボートレースのできる環境ではなくなり,1961年を最後に隅田川を離れました。江戸時代から続く夏の風物詩「両国花火大会」も1961年で廃止になっています。

時は過ぎ,1970年代の後半になると,汚染対策も若干進んで隅田川にも魚が戻るようになり,関係者の努力もあって早慶レガッタは隅田川に帰ってきました。

その隅田川復活の早慶レガッタは1978年4月16日に行なわれました。コース設定などの苦労話については公式ページhttp://www.the-regatta.com/ に詳しいです。

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この日は,関東の南東海上の高気圧と日本海の低気圧の間で気圧の傾きが急な領域が関東南部にかかっており,東京では朝から南~南南西の風が吹き荒れていました。大手町の最大風速は14.8m/s,最大瞬間風速は24.5m/sでしたが,隅田川の川面ではもっと強かったかもしれません。

レースは予定より遅れて15時17分に永代橋をスタート。スタート直後こそ早稲田が出たものの,早稲田の「韋駄天号」にはスタート前から水がたまっており,スピードが乗らないばかりかコントロールを失っていました。その後も清洲橋(615m地点)で2艇身ほどリードした慶應艇の水しぶきを受け,ますます浸水が進むという悪循環。結局,なんとか沈めないようにゴールまでもたせるのが精一杯,レースは慶應が55ストローク,距離にして500mもの大差で圧勝しました。

勝った慶應クルーはコックスを水に“投げ込んだ”後,われ先にと隅田川に飛び込みましたが,水はとくに汚くはなかったそうです。

このレースを見に隅田川に集まった観衆は18000人。ただし,川岸のマンションやビルの屋上の見物人,通りすがりの通行人を含めると10万人になるとか。

早慶レガッタの隅田川復帰大成功も呼び水となり,7月29日,両国の花火大会が17年ぶりに開かれることになります。ただ,当初の予定は7月22日だったようですが,1週間のびたのはなぜなんでしょう……?

あらしのボートレース

隅田川で16日,今年で第75回目を迎える「早慶レガッタ」が行なわれます。隅田川ではじまり,敗戦後隅田川で復活し,汚染などの影響で荒川や相模湖で行なわれた時期もありましたが,1978年に戻ってきてからはすっかり隅田川の春の風物詩として定着しています。

午前中からいろいろなレースが行なわれる中で,メインは対校エイト。今年は14時50分両国橋スタート予定です。

過去,いろいろなドラマが展開されてきました。第55回(1986年)では4000mを漕いで同着!!ということもありました。

その中で最も有名なのは,教科書にも載った1957年のレースでしょう。

昭和三十二年五月十二日,伝統の第二十六回早慶ボートレースが行われました。前夜からの雨は,まだやまず,さらに,春特有の強風に加えて,隅田川の水面には,かなり大きな波が立っていました。……

1961年から1970年まで使われた学校図書発行の教科書「小学校国語六年上」の中の「あらしのボートレース」の書き出しです。比較的マイナーな教科書ですが(小学校用の国語のメジャーな教科書はやっぱり光○とかT書とかでしょう),約300万人が読んだといわれています。

この日,二ツ玉低気圧が日本列島を通過していました。その影響で,東京でも前日の夜から雨が降りはじめ,風が出ていました。レースの当日も雨が断続的に降り続き,昼過ぎから風が南西に変わって強まりました。13時15分に大手町で最大瞬間風速15.8m/sを観測しています。さらにレース前には北西~北北西に変わり,ボートの進行方向に対して逆風になりました。

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当時,対校エイトは6000mで行なわれていました(現在は菊花賞と同じ?!3000m)。スタート地点は永代橋。スタートと相前後して降り出した激しい雨の中,慶應がダッシュを決め,リードして行きます。早稲田は艇を安定させるためにスタート時点から6人で漕いでいた(シックスワーク)こともあり,置かれていきます。

土手評では,前年のメルボルン五輪に出場した選手が5人残っている慶應が有利という見かたでおおかた一致していました。その土手評どおり,清洲橋で1艇身,中洲カーブで2艇身,新大橋で3艇身と慶應は順調に差を広げていきました。

このあたりから雨足がさらに強くなり,早稲田はエイトサイドの2人があらかじめ積んでおいたアルミ製の食器を使って水の汲み出しをはじめました。そのせいもあり,両国橋にかかるころには両艇の差は5艇身に広がっていました。

厩橋を通過するころにはさらに6艇身差まで広がり,一見快調のように見えた慶應でしたが,当初使うつもりであった「ケンブリッジ号」のかわりに荒れたコンディションを考慮して使用した「フィレンツェ号」にも水が溜まってきて,2人が水を汲み出しはじめました。しかし,早稲田と違ってあらかじめ排水用具を準備していなかったため,シャツをぞうきんがわりにして,汲み出すというより絞り出さざるを得ませんでした。

早稲田があらかじめ排水用のアルミ食器を積んでおいたのに対し,慶應は排水用具の準備をしていなかった……ここのところは,ボートを沈めてはならないという考えの早稲田に対し,8人で漕ぐからエイトだという考えの慶應という,両校の違いがハッキリと現われたところといわれています。しかし,この考えからすると,慶應は2人が一時的にせよ水を汲み出すために手からオールを離した時点でレースを放棄したことになるとシロウトには思えるんですが,どうなんでしょう。一時的ならいいのでしょうか。もっとも,当時の新聞によると,慶應OBの水ノ江審判長は慶應クルーにカン詰めの空きカンでもいいから持って乗るように勧めていたということなので,何が何でもオールから手を離してはいけないというわけではなさそうです。

さて,慶應のシックスワークを見た早稲田は,チャンスとばかり漕ぎ手を8人に戻して追撃を開始,あわてた慶應も8人に戻しますが,排水が不十分で艇は水面すれすれの状態,なかなかスピードが上がりません。差はたちまち2艇身,1艇身と縮まり,その上浸水はますます激しくなり,駒形橋付近でついに沈没しました。スタート地点から3800mでのできごとでした。

ひとり残った早稲田は,その後も悪戦苦闘しながら,24分02秒0でゴールしました。このタイムは6000mで行なわれた歴代の対校エイトの中で最も遅く,1艇になったせいもあるでしょうが,いずれにしてもこの日のレースがいかに苦しいものであったのかを物語っています。

「あらしのボートレース」は,次のように結んでいます。

岸に上がった早稲田の選手は,しんぱん長に,試合のやり直しを申し出ました。「これは真の勝利ではない。この悪天候では,ほんとうの力は出せない」というのです。しかし,しんぱん員の相談の結果,申し出は採用されず,早稲田の勝利と認められました。
慶応の選手たちは,「試合に対する準備が足りなかったのだから,早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って,早稲田の勝利に,心からの拍手を送りました。