七里ヶ浜DQNボート沈没事件

眞白き富士の根緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみ霊に
捧げまつる胸と心

1910年1月23日,七里ヶ浜沖で第二開成中(現・逗子開成中高)のボートが転覆して生徒12人(1人は小学生)が全員死亡するという事故が起こりました。直接の原因は,行合川にそって吹き降ろしてくる強風帯に定員オーバーのボートが遭遇したためのようです。

この「七里ヶ浜の哀歌」は,12人の生徒の追悼式で鎌倉女学校の生徒によって歌われた歌です。本来“富士の根”が正しく,“富士の嶺”はあとで誰かが勝手に書き換えたものだそうです。作詞は三角錫子・同校教諭ですが,実は当時女学生の間で歌われていた「夢の外」という歌の替え歌で,さらに「夢の外」が聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌でした。

大正期にバイオリン演歌師たちによって広められ全国区の歌になりましたが,なぜか曲調は短調になっていました。短調にして歌ってみるとわかりますが,せっかくの美しいメロディーがいかにもお涙頂戴的な品のないメロディーになってしまいます。

ところで,σ(^^;)も最近まで知りませんでしたが,死亡した12人のうち6人は20歳以上の屈強な若者でした。この点,2番の

風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶなは父母

はかなり現実にそぐいません。

しかもこの連中,今流にいえばかなりのDQNでした。一部ではこの若者たちは病気の女教師を見舞うためにボートを乗り出したということになっていますが,それは1935年公開の映画の作り話で,実際には蛮食会に供するための鳥を撃ちにいったのでした。しかも,ボートを使うときには2人の教師の許可を得なければならない決まりだったのに,教師が2人とも外出していることをいいことに無断で漕ぎ出したのでした。さらに,12人というのはかなりの定員オーバーでした(定員は7人)。

蛮食会というのは,一種の闇鍋パーティーみたいなもので,アヤシげな肉――そう,さしずめ吉野家の狂牛丼用の牛肉など米国産の生ゴミ牛肉を鍋で煮て食するようなパーティーだったそうです。

ところで,若者たちが乗ったボートはもともとは巡洋艦松島に装備されていたものでした。

松島は日清戦争時の連合艦隊の旗艦でしたが,船体に比べて装備が重すぎ,黄海海戦のときは清の艦隊の目標になっただけで攻撃には役に立たなかったそうです。しかも松島はかなりの損傷を受けて旗艦機能を喪失したため,お荷物となって,敗走する清の艦隊を追撃することができなくなりました。さらにはのちに少尉候補生を乗せた遠洋航海で寄港した台湾で爆発事故を起こし,乗組員370人中207人が死亡しました。

ちなみに,黄海海戦といえば思い出す

♪まだ沈まずや定遠は

で有名(?)な軍歌「勇敢なる水兵」はこの松島が舞台です。

※参考文献: 上田 信道. 謎とき名作童謡の誕生 (平凡社新書). 平凡社, 2002.

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新潟-上野112時間列車の旅

1963年1月23日16時05分,急行越路が新潟駅を発車していきました。このときはまさか上野駅まで112時間もかかる道中になるとは誰も思ってはいなかったでしょう。

当時の新聞からこの列車の足取りを拾いながら,三八豪雪の一端を見てみることにしましょう。はっきりした資料に基づいているわけではないので,不明な点が多いです。

1月23日16時05分 新潟駅を出発

大雪警報をついての発車でした。定刻に出たかどうかはわかりませんが,多少遅れたとしてもこれからの遅れに比べれば大した問題ではないでしょう。

新潟県下越地方は19時半ごろから最大瞬間風速30m/sの暴風雪となりました。この影響で新潟-長岡間の信越線などが22時過ぎまでストップ,その後ようすを見ながらゆっくり運転を再開しましたが,「越路」は23時ごろ保内駅構内で雪の吹きだまりに突っ込んで身動きが取れなくなり,そのまま保内駅で滞留することになります。

一方,前日から18年ぶりという大雪に見舞われていた北陸本線は,夜から全面運休となりました。

1月24日 押切駅で立ち往生

どうやって押切駅まで動いたのか不明です。

暖房が切れたために列車内に火鉢が差し入れられましたが,乗客約400人のうち311人が一酸化炭素による中毒症状を起こしました。うち重症だった3人がラッセル車で長岡まで運ばれて入院しました。のちに乗客のひとりは「(国鉄は火鉢を差し入れてくれたが)おかげで中毒が起こった。ほんとは暖房に必要な水を補給すべきだった。その機会もあったのに」と語っています。

12時30分ごろ,福井県勝山市の横倉地区で大規模な表層なだれ(俗にアワとよばれます)が発生,住宅4棟と公民館,神社などをのみ込み,16人が犠牲になりました。

このころから富山・石川・福井の北陸3県では,外部との交通が途絶して孤立状態となり,物資が不足する市町村が出はじめました。

一方,最低湿度6%とカラカラに乾いた東京の深川で早朝,ガス漏れによる爆発・火災が起こり,一家6人が焼死(爆死?),17棟が全焼しました。

また,鹿児島では前夜からの積雪が17cmに達しました。

1月25日~27日 長岡駅から動けず

どうやって押切駅から長岡駅まで動いたのか不明です。

開通のめどが立たないため,25日の夜から乗客は近所の旅館に泊まることになりましたが,その扱いたるや「囚人の収容所なみの扱い」(ある乗客)。

27日の朝,“除雪協力隊”を乗せた“救援列車”が上野から東北本線・磐越西線経由で長岡駅に到着しました。レールにこびりついた雪はラッセル車を脱線させるほどかたまっていて,ツルハシでたたき割るしか方法がなかったということです。

一方,26日14時30分ごろ,福井県美山村芦見地区で下校中の児童8人と引率の教師1人が“アワ”に巻き込まれて生き埋めになり,児童3人と教師が死亡するという事故が起こりました。この前後にアワ=表層なだれが各地で頻発しています。

1月28日01時45分 長岡駅を発車

自衛隊,除雪協力隊など約1000人を動員して,27日夜にようやく開通のめどが立ちました。

当初は27日22時過ぎに発車の予定でしたが,除雪作業が長引いたため,28日01時45分,ラッセル車2台を先導させての強行発車に踏み切りました。

1月28日08時29分 上野駅に到着

106時間21分遅れで,やっと上野駅に到着しました。もちろん国鉄史上第1位の遅れの記録です。屋根には雪が1m以上積もり,連結器や車輪のまわりには氷が貼りつき,悪戦苦闘ぶりを物語っていました。雪に閉じこめられていたときの乗客は約350人でしたが,到着したときにはなぜか650人になっていました。

小出駅に足止めされていた下り急行「佐渡」も,08時03分に88時間48分遅れで新潟駅に到着しました。

このようにしてある意味で三八豪雪の象徴となった「越路」と「佐渡」は多くの人の協力によって終着駅にたどり着きましたが,もちろん三八豪雪はこれで終わったわけではありません。

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雪と入試(1)

明日,明後日,大学入試センター試験が行なわれます。首都圏では去年のセンター試験は雪に見舞われました。

ひとくちに入試といってもいろいろあり,幼稚園や小学校の“お受験”は10月くらいにはじまるらしいですが,それにはまったく興味がありません。東京都下に住んでいる元“受験屋”の感覚では,2月1日の中学入試が入試シーズンのはじまりです。そして2月1~3日の中学入試が第1のピーク,2月18~20日の私立高校が第2のピークでした。現在はσ(^^;)が受験屋だったころよりも高校入試が早くなっているので,第2のピークは2月10日~12日ごろでしょうか。いずれにしても,暦の上の話はともかく,気候的には冬のまっただ中に入試は行なわれます。

一方で,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月です。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると,2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もることがあります。

東京で10cm以上の積雪があるとどういう事態になるか……電車が止まる,首都高は全線通行止めになる,ノーマルタイヤの車のノロノロ運転やスリップ事故で道路は渋滞する,それだけならまだしも自力走行が不能になって路上に放置するバカがあらわれる,人は滑ってころぶ……。たかが10数cm程度の雪でのこのありさまは,雪の多い地方に住んでいる人にはおよそデキの悪いドタバタ喜劇にしか見えないと思います。

そしてこのような時期に入試が行なわれるわけです。当然,雪が降ったら上へ下への大騒ぎです。

実際,中学入試,私立高校入試が雪にたたられたことが過去に何度かあります。大昔のことはおいて最近20年程度に限ると,1984年,1986年,1990年,1992年です。ここ10年間はありません。1994年2月12日に25年ぶりとなる最深積雪23cmを観測していますが,当時の私立高校の入試日程からはズレていました(ただし,国立高校の入試はこの前後だったはず)。もちろん大学入試は予定されていたはずで,かなりの影響があったと思いますが,大学入試についてはよくわからないので(というか,興味がなかったので)ここでは触れません。

以下では,もっとも印象に残っている1992年の東京での状況について書き,雪が入試に与える影響の一端を紹介します。

1992年2月1日

1992年1月31日09時に四国沖にあった1004mbの低気圧が猛発達しながら東進し,2月1日09時に房総沖に達したときには980mbにまで発達しました。この低気圧により各地で大雪・強風となりました。

気象庁の観測原簿によると,東京(大手町)では31日の02時55分に降りはじめた雨が断続的に降り続き,14時20分に凍雨,14時45分にみぞれ,18時30分に雪となり,1日の09時50分まで降り続きました。そして07時に17cmの最深積雪を観測しています。一方,低気圧の接近とともに風も強まり,04時から05時にかけて最大風速12.8m/s,最大瞬間風速26.4m/sが観測されています。

同じ東京都内でも多摩方面では雪の降りはじめは早く,当時σ(^^;)が常連だったパソコン通信のとあるローカルネットで31日の13時59分に「雪だ~」という書き込みがあるので,そのころには降りはじめていたと思われます。

ちなみに,σ(^^;)はその日の22時12分に次のような書き込みをしています。

★FREE‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
★773\    01/31 SG186:雪だ 334

    雪はかまわないけど、明日から中学入試がはじまるんで、受験生や家

    族は大変でしょうね。

    そういえば、2月1日は2年に1回ぐらいの割りで雪に見舞われてい

    るような気がする。

    なんて言って、私はこんな時刻にどうしてまだ会社にいるんだろう?

                                                   [22:12]Kink

いくらなんでも2月1日が2年に1回雪ということは当時もなかったのですが,2年前の1990年の記憶もあったのでしょう。

なお,委託観測による1日09時の積雪深は,練馬22cm,世田谷21cm,青梅と新木場14cm,八王子11cm,府中8cmなど。また,横浜の最深積雪は15cmでした。

この大雪で交通機関は大きな影響を受けました。東武伊勢崎線,京成線が始発から間もなく全面運休となり,JRも中央線,山手線などが時間運休したほか,他の路線でもダイヤが大幅に乱れました。ただ,この日は土曜日だったので,大きな混乱は少なかったようです。道路でも,首都高速が例によって一時交通止めになったのをはじめ,あちこちでスリップ事故が相次ぎました。

さて,この日は生徒募集している東京都内の159校の私立中学のうち,73校が入試を予定していました。ところがこの交通機関の乱れのあおりをモロに受けて,予定通り入試を行なったのは6校に過ぎず,入試を延期させたのが3校,他のほとんどの中学校でも試験開始時刻を遅らせるなどの措置をとりました。

例えば,文京区にあるA学園中(女子中)では,試験開始の8時20分になっても受験生の4分の1が間に合わなかったため,開始を急遽30分繰り下げました。また,港区にあるA中学(男子中)では,9時の開始時刻を10時に繰り下げ,これにも間に合わなかった約10人を別室で受験させました。

ところで,先に「入試を延期させたのが3校云々」と書きましたが,そのうちの1校は御三家筆頭の開成中でした(ちなみに残り2校のうちの1校はプロテスタント系のミッション女子中で,掟破りの日曜入試になりました)。ただし,当時は開成中の入試日は1日と2日の2日間にわたって行なわれており,正確にいえば1日目が中止になっただけで,延期ではありませんでした。

しかし,これは中学入試史上,特筆すべきできごとでした。雪のせいでもなんでも,とにかく開成中が2日校になってしまったのです。ということは,あらかじめ願書を提出しておけば御三家を2校受けられたわけです。

女子御三家は,1日が日曜日のときは長老会系のプロテスタント校である女子学院が2日校になるので2校受けられる年がありますが,♂御三家を2校受けられた年が他にあったかどうか,σ(^^;)は寡聞にして知りません。

ついでですが,雪による混乱に輪をかけるように翌日の2日未明,東京で震度5(当時の震度階級)の地震が発生しました。被害は大したことはありませんでしたが,またもや交通機関が影響を受けました。このため,「2日校」になった開成中が試験開始を30分繰り下げたほか,面接を中止した中学校もありました。

大雪のパターン

東京に大雪が降るパターンはだいたい決まっており,高気圧が北日本方面に張り出しているときに太平洋岸を低気圧が発達しながら通る場合です。

このような低気圧については,現在では発生の初期の段階からかなり正確に予報できます。そして大雪や暴風などによる災害が予想されるときは,「低気圧に関する全般気象情報」などという形で気象庁から発表され,ニュースでも報道されます(マスコミが持ち上げた青年虚業家が逮捕されたり,空爆大好きのアメリカがどこかにバクダンを落とした,というような大騒ぎがなければ)。

ただ,問題は雨になるか雪になるかで社会に与える影響が大きく違うにもかかわらず,それが直前になってもわからないことが多い点です。これは簡単にいうと,雪になるか雨になるかの判断が難しいうえに,関東南部の降雪が特異な現象で(珍しい現象という意味ではありません),他の地域では雪にならない条件下でも雪になることがあるからです。

入試日に雪が降りそうだという情報を耳にしたら,実際に降ることを覚悟して準備したほうがいいでしょう。もし降らなかったら運がよかったとσ(^^;)に感謝しましょう(爆)

あと,最後にひとつだけ。雪の多い地方から都内の,あるいは周辺の大学などを受けに来る受験生もいると思いますが,自分は雪に慣れているから大丈夫だよん,などと思ってはダメです。確かに自分は大丈夫で,入試でスベることはあっても雪で滑って転ぶことはないかもしれませんが((^_^;)\ヲイヲイ),まわりがこのとおりですから,否応なしに巻き込まれる可能性が大です。とくに交通手段がメチャメチャになってはどうしようもありません。得意のスキーで移動するわけにもいきません。

※この文章は以前どっかに書いたほとんどそのまんまです(笑) もともとは1996年だったか1997年だったかにある教育雑誌に書いたものです。

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赤壁の戦いと東南の風

建安十三年十一月二十日,曹操率いる魏の主催者側発表80万の大軍と周瑜率いる数万の呉の軍勢が長江の赤壁(現在の湖北省)でぶつかりました。赤壁の戦いです。

赤壁の戦いといえば東南の風です。周瑜はこの東南の風のおかげで曹操の大船団を焼き討ちにすることができたとされています。十一月二十日はもちろん太陰太陽暦での日付で,ユリウス暦では208年12月15日となり(グレゴリオ暦でも同じ),季節は冬。データがないので確認はできませんが,天気図類から推察すると,この時期は赤壁付近でも西~北の風が卓越し,“東南の風”はほとんど吹かないようです。

『三國志演義』では,諸葛孔明が七星壇を築いて祈祷を行ない,3日3晩“東南の風”を吹かせたことになっています。三国志ファンにはおなじみの場面です。

一方,正史の『三国志』では,この“東南の風”がどういう状況で吹いたのか記述がありません。しかも,強風が吹いたという記述はありますが,向きまでは書いてありません1。いずれにしても,この風を利用して猛将の黄蓋が投降と称して魏の大船団に接近し,決死の活躍で火をかけることになっています。ただ,周瑜ほどの知将ならばある程度観天望気はできたはずで(少なくともブレインはいたはず),風が変わりそうだという読みがあってこの計を使ったのだと考えるのが妥当でしょう。

『演義』では,赤壁の戦いは前半のクライマックスだけあって,孔明の祈祷以外にも話を盛り上げるいろいろな脚色がなされてます。例えば,黄蓋は“投降”する前に周瑜と示し合わせて苦肉の計という芝居を打ったことになっています。また,曹操は大決戦を前にして戦勝の前祝いの宴会を開き,槊を横たえて「短歌行」を賦すことになっています。曹操ファンのσ(^^;)の好きなシーンだったりするのですが。

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
・・・・・・

酒に対して当に歌うべし
人生 幾何ぞ
譬えば 朝露の如し
・・・・・・・

この詩の中の「月明らかに星稀に (烏鵲南に飛ぶ)」のフレーズは高校の漢文の教科書に載っていました。っていうかそれで知りました。

しかし,実はこの詩は制作年が不明だったりします。さらに,不吉だと「短歌行」にケチをつけて突き殺される劉馥という人物は,このころ孫権の10万の大軍から合肥の城を死守していました。ただしこのときはすでに病死していたようです。

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  1. かなり前に中華書局発行の標点本で見たため,見落としの可能性もあります。 

雨のF1日本GP

雨の中,鈴鹿での最後のF1日本GPのフリー走行がはじまりました。

雨のF1日本GPと聞いて1976年を思い出す人は,そうとう年期のはいった人だと思います(早い話が年寄り)。珍しもの好きのσ(^^;)はテレビでは見ていたはずですが,当時自動車レースにそれほど興味があったわけではないので,ほとんど記憶にありません。歴史で学んだクチです。

この年はJ.ハント(マクラーレン)と“不死身”のN.ラウダ(フェラーリ)がチャンピオンの座を争っており,ラウダが3点リードして最終戦の日本GP(富士スピードウェイ)を迎えました。

10月24日の決勝レースは雨ともやのため1時間40分遅れのスタート。2周目にラウダが早くもリタイア。「こんな危険な状態の中では走れない」と自らレースを辞めたもので,“勇気あるリタイア”ともいわれていますが,ホントのところはハントの自滅待ちか,この年雨のニュルブルクリンクで瀕死の重傷を負っていたので雨が恐くて逃げ出した……といったところでしょう。まあ,真実を知るのは本人のみ。

レースはM.アンドレッティ(ロータス)が優勝,ハントは3位にはいって4点を獲得し,逆転でチャンピオンになりました。

この日の天気図は次のとおりです。

翌1977年も富士スピードウェイでF1日本GPが開催されましたが,G.ビルヌーブが観客席に突っ込んで2人死亡するという事故が起こったこともあり,日本での次のF1開催まで10年待つことになります。そしてこの事故からちょうど30年の2007年,富士にF1が戻ってくることになっています。

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藤原効果と足尾台風

藤原効果とは

今年の8月に現われた台風10号と11号の間にも見られましたが,2個の台風が存在する場合に,中間のある点(重心)のまわりを反時計まわりに回転する相対運動を藤原効果といいます。経験的には台風間の距離が800km以内になるとはたらくといわれています。台風間ばかりではなく,例えば台風と上層寒冷低気圧(UCL)との間でも同じような現象が起こります。

藤原効果の“藤原”というのは,かつて中央気象台の台長(今の気象庁長官にあたるらしい)を勤めた藤原咲平博士のことです。ちょっと古い本には“お天気博士として有名な”とか書いてあったりしますけれど,確かに昔は有名人だったようですが,今となっては過去の人にすぎません。

島田守家『暴風・台風びっくり小事典』によると,藤原効果あるいは藤原の効果あるいはFujihwara effectということばをはじめて使ったのは,敗戦直後に日本に来ていた米軍の気象技術者ではないか,ということです。

また,同書によると,このことばが日本に広まったのは,1964年の台風14号と16号がきっかけだったようです。

1902年9月27日~29日の台風

記録上,藤原効果のもっとも古いと思われる例です。

「気象要覧」から引用します。なお,諸般の事情により原文中の旧漢字の一部が今の漢字になっている場合があります。

二十一日馬尼刺氣象臺ヨリ呂宋ノ東方ニ低氣壓發生スル旨通報シ來リシカ……然ルニ二十四日ニ至リ琉球以南ニ於テハ風向北東乃至東トナリ風力稍加ハリ一般ニ雨天トナリテ呂宋低氣壓ノ漸次接近スヘキ前兆ヲ示セリ仍テ二十五日午前七時五十分九州南部以西ニ警報ヲ發セリ

このように,はじめは呂宋(=ルソン島)方面から北上してくる台風が警戒されていました。ちなみに,当時はまだ颱風=台風ということばは登場していません。

ところが,本州東部で著しい気圧の減少が観測され,

葢シ夲州東部ニ斯ノ如キ變化ヲ及ホセシハ呂宋ヨリ北上シタル低氣壓ノ所爲ニ非スシテ當時房總ノ遙カ南方ナル海上ニ現ハレタル別個深厚ナル低氣壓ノ影響ナルニ似タリ

呂宋方面から北上してくる台風は動きが遅かったのに対し,

房總ノ南海ヨリ襲來セシモノハ其深度ノ大ナリシト且其進行甚タ迅速ナリシ

というように,やはり東側の台風は“鉄砲玉”でした。これは呂宋方面から北上してくる台風との間にはたらく藤原効果によるものと思われます。

この台風は28日08時ごろ安房南端布良付近を通過,このときの最低気圧は「七百十七粍一」(≒956.1hPa)で,中心が通過する前は「晴雨計」(≒気圧計)が1 時間に「十二粍七」(≒17hPa)低下,通過後は1時間に「十六粍」(≒21hPa)上昇しました。台風はその後横須賀の西を通過し,進路を北北東に変え,東京北部,足尾付近を経て,11時30分に新潟から日本海に抜けました。この間,東京は08時55分から約10分間,眼の中にはいったようです。

中心が本州を通過したときの速さは「毎時約二十五里」で,“1里≒4km”だとすると,
100km/hというとんでもない速さだったことになります。

銚子では09時30分までの10分間の平均風速として「毎秒六十四米」を観測していますが,これは64m/sではなく44.9m/sです。現在でも歴代2位の風速です。また,筑波山頂の09時20分までの20分間の平均風速は「毎秒百三米」でしたが,これも72m/sになります。

この台風による茨城県の住家の全壊・流出は20164で,他の災害と比べて1ケタ以上違います。また,小田原や国府津の沿岸では高潮(新聞には“海嘯”とあります)による大きな被害がありました。さらに,新聞によると,各地で強風によるとみられる列車の転覆が起こっています。

足尾台風と足尾銅山鉱毒事件

中心がすぐ近くを通過した足尾では315mmの雨が降り,周辺に土砂崩れなどを引き起こしました。そのためこの台風は足尾台風ともよばれます。

当時鉱毒を渡良瀬川にタレ流し続けていた足尾銅山も大きな被害を受けましたが,この台風が足尾銅山鉱毒事件の展開に与えた影響については,σ(^^;)の調査不足もあってよくわかりません。ちなみに,有名な田中正造前代議士による明治天皇への直訴事件は,前年1901年12月10日のことです。

ただ,政府による鉱毒問題の治水問題へのすり替えはすでにはじまっており,その手段として,決壊した堤防を放置して住民を追い出しそこを遊水池化する計画も実行に移されていました。最初に計画された利島村と川辺村の遊水池化は失敗しましたが,のちに谷中村が徹底的な破壊のあと,足尾銅山がタレ流した鉱毒とともに渡良瀬川の川底に沈むことになります。

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暴風雨の中の惨劇その後

1949年9月3日朝8時半ごろ,隅田川に男の死体が浮かびました。男は荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅在住斎藤作次(61)。

どこかで見た名前。そう,台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される | Notenki Express 2014の事件のあと姿を消していた被害者の父親です。

以下,当時の新聞より。

去る一日荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅内露天商斎藤作次(六一)長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で絞殺されていた事件につき警視庁捜査一課では南千住署と協力,前夜から姿を消している父親作次の行方を探していたが三日朝八時半ごろ同都営住宅裏の隅田川に水死体となって発見された検視の結果死後卅時間以上を経過しており,死体の首にはこぶし大の石三個を入れたズツクの鞄が細ひもで縛りつけてあつたので娘を絞殺し無理心中をとげたものとみられる。生活苦から前途を悲観したものらしい(9月4日付読売)

首に娘を絞め殺したのと同じ麻ひもを二重に巻き,その先にズックの手提げカバンに子供の頭大の石三つ,鉄ビンのふたなどを入れてつるし河に飛び込んだらしく遺書はないが最近商売不振のうえ妻を戦災で失くし息子が未復員で父娘の二人暮らしでさびしがつていた点などからあらしの夜発作的に無理心中したものと見られる(9月4日付毎日)

ということで,暴風雨の中の惨事は無理心中ということで幕が引かれました。

ただ,どうも腑に落ちない点があります。作次はどこから隅田川に飛び込んだのでしょうか。少なくとも新聞記事からではわかりません。家のすぐ裏から飛び込んだのだとすると,いくら滑走斜面側とはいえかなり下流に流されるはずです(何かに引っかかったというのなら別ですが)。増水していたことも考えに入れると,かなり上流から飛び込んだと考えざるを得ません。でも,かりに岩淵水門より上流に飛び込んだとすると,荒川放水路(現,荒川)から東京湾に出たはずです。

まあ,今さら考えてもどうにもなりませんが。しかもシロウトの考えることですし。ただ,捜査が尽くされたかどうかは疑問です。

と,2時間サスペンスファンのただの野次馬として書いてみました(笑)

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(2015/08/31(Mon)一部修正)

稲村ジェーン

1950年8月30日09時に小笠原の西方海上で確認された熱帯性低気圧(当時の用語)が西北西に進み,9月1日15時に台風となりました。これがジェーン台風です。このときの中心気圧は975mbと推定されています。 台風は発達しながら北西~北北西に進み,2日15時に四国の南方海上に達したときには940mbまで発達しました。

このあたりで進路を北に変え,3日の午前中には室戸岬をかすめ,速度を速めながら正午ごろ神戸市垂水付近に上陸しました。神戸では3日12時10分に964.3mb,最大風速33.4m/s,最大瞬間風速47.6m/sを観測しました。

気圧の低下と吹き寄せる風の影響で,大阪での潮位は満潮面上2.1mに達したと推定され,これに満潮が重なったために,西大阪から兵庫県南東部にかけては一面の海と化しました。

ジェーン台風による被害は,死者336,不明172,負傷10930,住家破損56131,浸水166605などとなっています。

稲村ジェーン(1990年)という映画は,ジェーン台風のときに稲村ヶ崎にやってきたという伝説のビッグウェーブ「稲村ジェーン」を待つ1960年代中ごろの若者たちの夏を描いた映画(らしい)です。私はサーフィンには何の興味もないので,ホントに「稲村ジェーン」なるビッグウェーブがやってきたかどうかは知りませんし,波にも詳しくありませんが,ジェーン台風の発生位置や進路から考えると,とくにいい波がやってきたとは思えません。いい波をもたらしそうな台風なら他にいくらでもあったと思います。伝説はあくまで伝説でしょう。

某著名ミュージシャンが監督を務めたこの映画は,今では伝説ともいえる駄作中の駄作で,やはり天は二物を与えなかったとか,本来ならタダで見せるべきプロモーション映画をカネを取って見せるとはとんでもないとかいわれていました。映画の評判はともかくサントラ盤はバカ売れしたそうなので,某著名ミュージシャンはウッシッシッだったことでしょう。

1953年から女性名は日本国内では使われなくなりましたが,米国では使われ続けていて,気象庁も海外に台風情報を発信するときはこの女性名も記載していました。

ところが,台風とは比べものにならない異次元(ヤプールか(笑))の恐ろしさを持つ女性団体の圧力で,1979年の台風3号から男女名が交互に使われるようになりました。その後,2000年からはわけのわからないアジア名が使われるようになって現在に至っています。

なお,ジェーン台風については次もご覧ください。

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※2015/09/03(Thu) リンク先追加

台風の暴風雨の中,若い女性が絞殺される

一昨年はハローキティ誕生30周年とのことで(http://kitty30.com/),各地で(?!)いろいろなイベントが行なわれたらしいです。見かけによらず意外と年とっているんですね(笑)

そのハローキティ,今でこそみんなに愛されるキャラクターになっていますが,その前世は恐ろしい台風だったという衝撃の事実(?!)をご存じでしょうか。

ハローキティが誕生する25年前の1949年8月28日,マーシャル群島北方のマーカス島近海で台風が発生し,キティと命名されました。

キティはその後西北西に進み,30日21時には鳥島の東方約200kmの海上に達し,ここで進路を北西に変え,31日10時ごろ八丈島を通過しました。このとき八丈島では約1時間にわたって眼を観測,また最低気圧957.3mb,最大風速33.2m/s,最大瞬間風速47.2m/sを記録しました。

そして17時ごろ針路を北に転じ,速度を速めながら19時すぎに小田原の西に上陸しました。このときの中心気圧は960mbと推定されています。その後東京の西部,熊谷付近を通過して,二百十日の9月1日00時には日本海に抜けて温帯低気圧になりました。

Image from Gyazo

キティの通過が満潮時と重なったため,東京の潮位は3.15mを記録するなど,東京湾では1917年以来の高潮に見舞われました。このため江東区の南砂町では約5000人が孤立,また横浜港では船舶の沈没・流出が134隻に達するなど,開港以来の惨状を呈しました。

雨は総量としては少なかったのですが,山間部の東および北東斜面で比較的短時間に多量に降ったところがありました。群馬県の勢多郡東村沢入地区では土石流によって31人が犠牲になりました。また桐生市では渡良瀬川の堤防が決壊し,30人が死亡または不明になりました。

キティ台風による被害は死者不明160,負傷479,破損住家17203,浸水144060,船舶2907に及びました。

ところで,翌2日の新聞に気になる事件の記事が載っています。

一日朝九時ごろ荒川区南千住一〇の一四〇都営住宅止宿,露天商斎藤作次(六一)さん長女登美子(二〇)さんが自宅四畳半で黒のモンペ姿のままうつ伏せとなり絞殺されているのを隣家の石井商二(五七)さんらが発見,南千住署汐路橋派出所に届け出た……犯行時刻は同地一帯が浸水のため付近の学校に避難した午後九時半過ぎらしく室内は台風準備がキチンとされ紛失物も暴行された形跡もないが卅一日夜まで登美子さんと一緒にいた父作次さんの姿が見えぬのでその行方を探している
(9月2日付読売)

現場の自宅は台風で水びたし,ガラス戸が壊れ家具も散乱していた。(9月2日付朝日)

要するに,荒川区南千住で1日09時ごろ,台風で水びたし,ガラス戸も壊れている住宅の中から,若い女性の絞殺死体が発見されたというのです。しかも父親は行方不明。犯行はキティ台風の暴風雨の最中に行なわれたらしい……。

被害者の女性は汐路小町とよばれる美人だったそうです。

この事件は解決したのでしょうか。気になります。気になるその後については暴風雨の中の惨劇その後 | Notenki Express 2014をご覧ください。

このキティ台風のように,敗戦直後のある時期,細かくいえば1947年から1952年にかけて,台風には英語の女性名がつけられていました。最初に女性名がついたのは1947年の3番目の台風で,キャロルCarolでした。そして,この年に東京の下町を水没させたカスリーン台風によって,この女性名シリーズが一般に認知されたようです。

カスリーン台風の後も,毎年のようにアイオン(1948),デラ(1949),上で紹介したキティ(1949),そしてジェーン(1950)などがやってきて大きな被害をもたらしました。

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[2015/08/31(Mon)] 一部修正
[2019/08/31(Sat)] 台風の経路図追加

キャンプ中の中州に濁流 9人死亡

川の中州でキャンプしていたところを増水によって流された……という事故としては,1999年8月14日に起こった玄倉川での事故がDQNの川流れとして有名です。しかし,いまからちょうど40年前の1966年8月14日,同じような事故が宮崎県の境川で起こりました。

宮崎市立青島中学校では8月12日から14日の予定で,地区ごとの生徒会がそれぞれ校外活動を行なうことになっており,青島七区会は山之口町営青井岳キャンプ場でキャンプを行なう予定を立てていました。メンバーは,生徒女子9人,男子2人,引率の教師2人の総勢13人。

12日にさっそくテントで泊まるつもりでしたが(キャンプに来たのだから当然といえば当然),貸しテントに余裕がなかったため(このあたりからすでに計画に齟齬が生じている?),この日は近くの山之口中学天神分校で1泊することになりました。

13日には貸しテントに余裕ができたのと,どうしてもテントで寝泊まりしたいという生徒の希望もあり,テントを張ることになりますが,なんと生徒が希望するまま川の中州に張ってしまったのでした。このとき,キャンプ場の管理人は悪天候を警告しましたが,教師は2人とも聞き入れませんでした。ちなみに,川の中州はキャンプ場の管理外でした。

このころ,“弱い熱帯低気圧”(死語)が沖縄付近をゆっくりと北上していて,14日未明には台風13号になりました。この影響で,紀伊半島から西の太平洋側と九州では断続的に強い雨が降っており,国鉄日豊線や日南線が不通になるなどの被害が出ていました。宮崎地方気象台では13日10時30分に大雨に関する情報を出しています。

14日6時半ごろ,教師の1人が目を覚ましたときにはテントの足もとまで水が来ていました。危険を察知したこの教師は,ロープを対岸に投げ,そのロープを伝って救援を求めに行きました1

救援隊が駆けつけ,中州の12人にロープを投げましたがうまくいかず,「ロープをつかんでからだに巻け」と叫んでも濁流にかき消されました。当時はレスキュー隊のような高度に訓練された組織はなかったので,救援隊といってもできることは限られていました。

9時30分ごろ,中州に残った12人はいよいよ危なくなり,テントを浮き袋がわりにして川を渡ろうとしましたが,すぐに濁流にもまれ,男子2人と教師1人は岸にたどり着き,女子1人が近くの岩にしがみつき,女子8人が流されました。

結局,岸に泳ぎ着いた男子2人と岩にしがみついた女子1人のみが助かり,流された女子8人と,いったんは岸にたどり着いたものの再び濁流に戻っていった教師1人の合わせて9人は帰らぬ人となりました。

1966年当時から川の中州でのキャンプは危ないという認識はあったようです。しかも大雨による各地の被害が報じられているのにキャンプを強行したというだけでなく,あろうことか中州にテントを張ったということがこの事故の原因であることは明らかであり,100%引率した教師の責任であるといっても過言ではないでしょう。

しかし,業務上過失致死を問われた裁判でなぜか無罪になりました。あまり信用できる資料ではないですが,「全く異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実に基因するものである」というのがその理由です。何をもって“異例の突発的局地的集中豪雨という偶然的、不可抗力的事実”とするのかこれだけではわかりませんが,仮に同じ事故がいま起こったとすると,おそらく有罪になります。当時よりも気象情報は簡単に入手できますし,安全に対して責任ある立場の人間が無知を理由に免罪されてはいけません。

それにしても,この事故から33年も経った1999年の同じ日に再び同じような事故が注目されるとは,一部のDQNな人間の所行とはいえ,つくづく人間って何の進歩もない存在だと知らされます。

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  1. 新聞によって救援要請への行きかたが違います。