津波警報と東京マラソン (2010年)

チリ沖の巨大地震

2010年2月27日,現地時刻で03時34分ごろ(日本時間では17時34分ごろ),南米のチリ沖でMw8.8の巨大地震が発生しました。

チリ沖で発生した巨大地震では,1960年のチリ地震津波や1877年のイキケ地震など日本沿岸にも津波が押し寄せてきました。イキケ地震については九十九里で津波被害(1877年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

今回も日本沿岸に津波が到達すると予想されたことから,気象庁は津波警報・津波注意報を発表しました。

津波警報・注意報
平成22年 2月28日09時33分 気象庁発表

************** 見出し ***************
大津波・津波の津波警報を発表しました
 東北地方太平洋沿岸、北海道太平洋沿岸、青森県日本海沿岸、関東地方、
 伊豆・小笠原諸島、東海地方、近畿四国太平洋沿岸、岡山県、
 有明・八代海、九州地方東部、鹿児島県、沖縄県地方
これらの沿岸では、直ちに安全な場所へ避難してください
なお、これ以外に津波注意報を発表している沿岸があります

************** 本文 ****************
津波警報を発表した沿岸は次のとおりです
<大津波>
 青森県太平洋沿岸、岩手県、宮城県
<津波>
 北海道太平洋沿岸東部、北海道太平洋沿岸中部、北海道太平洋沿岸西部、
 青森県日本海沿岸、福島県、茨城県、千葉県九十九里・外房、
 千葉県内房、東京湾内湾、伊豆諸島、小笠原諸島、相模湾・三浦半島、
 静岡県、愛知県外海、伊勢・三河湾、三重県南部、淡路島南部、
 和歌山県、岡山県、徳島県、愛媛県宇和海沿岸、高知県、有明・八代海、
 大分県瀬戸内海沿岸、大分県豊後水道沿岸、宮崎県、鹿児島県東部、
 種子島・屋久島地方、奄美諸島・トカラ列島、鹿児島県西部、
 沖縄本島地方、大東島地方、宮古島・八重山地方
これらの沿岸では、直ちに安全な場所へ避難してください

津波注意報を発表した沿岸は次のとおりです
<津波注意>
 北海道日本海沿岸南部、オホーツク海沿岸、陸奥湾、大阪府、
 兵庫県瀬戸内海沿岸、広島県、香川県、愛媛県瀬戸内海沿岸、
 山口県瀬戸内海沿岸、福岡県瀬戸内海沿岸、福岡県日本海沿岸、
 長崎県西方、熊本県天草灘沿岸

*************** 解説 ***************
<大津波の津波警報>
高いところで3m程度以上の津波が予想されますので、厳重に警戒してくだ
さい
<津波の津波警報>
高いところで2m程度の津波が予想されますので、警戒してください
<津波注意報>
高いところで0.5m程度の津波が予想されますので、注意してください

ついでですが,当時は大津波警報というものはなく,青森県太平洋沿岸,岩手県,宮城県に発表されたのは大津波警報ではなく大津波の津波警報です。大津波の津波警報をマスコミなどが勝手に大津波警報とよんでいただけです。3.11の際に発表されたのも大津波警報ではなく大津波の津波警報です。

“強行”された東京マラソン

地震の翌日の28日には東京マラソンが予定されていました。

大会を盛り上げるため,次のような白々しいイベントが事前に行なわれたりしていました。

因縁ライバル 瀬古&中山が“和解”の握手

1月27日7時1分配信 スポニチアネックス

 日本の男子マラソン界で一時代を築き、強烈なライバル関係にあった瀬古利彦氏(53)と中山竹通氏(50)が26日、都内でトークショーを開催し、ともに笑顔で現役時代はできなかったという“和解”の握手を交わした。

 2月28日の東京マラソンを盛り上げるイベントで実現したトークショーの冒頭で、瀬古氏が「オレは中山のことが好きだけど、中山は(オレのことが)嫌いだった」と先手を打つと、中山氏は「ずっと雲の上の存在。それと勝負とは違う」とやり返す場面も。

 中山氏は87年12月のソウル五輪代表選考会となった福岡国際で優勝した際、瀬古氏が故障で欠場したことについて「はってでも出てこい!」と発言したとされ、以後、両者は距離を置くようになっていた。

記事中にある1987年の福岡国際マラソンについては「這ってでも出てこい!!」 (1987年) | Notenki Express 2014をご覧ください。

28日朝,気象庁は津波警報または津波注意報を発表するという会見を開きました。ところが,そんなことはお構いなしに東京マラソンのスタートが切られました。

【東京マラソン】速報(1)3万5000人スタート
2010.2.28 09:15

 今年で4回目となるアジア最大級の市民マラソン「東京マラソン」(主催・日本陸上競技連盟、東京都、共催・産経新聞社など)は28日、号砲が鳴った。約3万5000人のランナーは都庁前をスタート。都心を駆け抜け、東京ビッグサイトのゴール地点を目指す42・195キロの長いレースが始まった。
 スタート地点では、今年も石原慎太郎知事が号砲を鳴らし、午前9時5分に車いすのランナーがスタート。同10分にはフルマラソンと10キロのランナーが都心へと走り出した。冷たい雨が降る悪天候の中、レインコートを着用してレースに臨む市民ランナーの姿が多くみられた。

http://sankei.jp.msn.com/sports/other/100228/oth1002280915001-n1.htm=リンク切れ

同じころ,三陸沿岸では行事を中止して避難に備える動きがありました。

大津波、半世紀前の教訓 三陸、行事中止し避難の備え

2010年2月28日10時6分

 1960年のチリ地震津波で大きな被害を受けた宮城県の三陸沿岸では、大津波警報が発令される前から災害対策本部を立ち上げるなどの動きが広がった。

 60年に死者41人、負傷者約500人の被害が出た旧志津川町を含む宮城県南三陸町では、午前8時45分に「津波警戒対策本部」を設置。町内で開かれる予定だった「南三陸志津川かきまつり」や防火イベントの中止を決め、防災無線などで町内に通達した。水門を閉鎖したり、避難を勧告するなどの対応をするという。

 気仙沼市では大津波警報の発令と同時に、沿岸部の6千世帯1万5千人に避難命令を出し、防災無線と消防の広報車を使って「高台に避難してください」などと周知した。
http://www.asahi.com/national/update/0228/TKY201002280082.html=リンク切れ

東京マラソンの“強行”については当然のことながら疑問の声が上がりました。

防災担当相が東京マラソン開催に疑問呈す

 中井洽防災担当相は2日の記者会見で、チリ大地震で津波警報が出た中で東京マラソンが行われたことについて「警報を出しても意味がないということになると、次回の警報が信用されなくなる」と発言、開催の判断に疑問を呈した。

 中井防災相は、東京マラソンについて「悠々とやっていた。東京都の判断なのだろう。都の担当者は(当時のマスコミ取材に)『1メートル以上は来ないので決行した』と言っていたが、津波警報は1メートル以上(の可能性があるとの予測)だ」と反論。

 「やったことに文句を言っているわけではない」としながらも、開催は警報の信用性に影響を及ぼしかねないとの見方を示した。

 その上で、中井防災相は「(国民や自治体などに)もう少しきちっと対応をお願いできるよう(津波予測は)さらに厳密なやり方を考えたらどうだろう」と述べ、一例として大津波警報と津波警報の間の警報レベルを設置するなどの考えを示した。

 東京マラソンは2月28日、約3万5000人の市民ランナーらが参加。コースには津波警報が出た東京湾内湾に近い部分も含まれていた。

 東京マラソン組織委員会事務局の早崎道晴事務次長は「津波警報は出ていたが、東京湾の予報は1メートル。ゴール地点の東京ビッグサイトは海抜約6メートルあり、安全と判断した。開催中も津波情報は収集し、不測の事態に備えていた」としている。

 [2010年3月2日12時41分]
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20100302-601781.html=リンク切れ

この記事によると,開催側には

  1. 東京湾の予報は1m
  2. ゴール地点の東京ビッグサイトは海抜約6m
  3. よって安全

という程度の認識しかなかったんですねぇ。想定外を想定していないどころか,遡上高を考慮に入れてないという……。

当時の津波認識

東京マラソンの担当者もそうでしたが,認識の甘い人は他にもいたようです。

津波、最大波到達前に帰宅 警報発令した釜石と尾鷲

2010年3月2日14時27分

 南米チリの大地震で発生した津波で、大津波警報や津波警報が出ていた沿岸部の住民の多くが、第1波の到達を確認したあとで、避難所から帰っていたことが専門家の調査で分かった。津波は第1波の到達後により大きくなっており、避難のあり方や行政からの情報提供をめぐって課題が浮かび上がった。

 災害時の住民避難の問題を研究している群馬大学の片田敏孝教授のグループが、大津波警報が出た岩手県釜石市と、津波警報が出た三重県尾鷲市で、避難所に来た住民の動きを調べた。

 釜石市では、28日の午後1時半に津波が到達すると予想され、その時間に合わせて住民の数は増えていった。この時刻に最も多い950人が集まった。避難指示が出た地区全体の人口の6%だった。

 しかし、午後2時過ぎ、20センチの第1波が観測されると住民は帰宅を始めた。津波は第2波以降大きくなり、午後3時39分の第4波と、午後6時24分の第5波で最大の50センチを観測したが、避難住民の数は午後6時過ぎには240人程度まで減っていた。

 尾鷲市では、避難所には午後3時の時点で238人が避難。高さ30センチの第1波が午後3時8分に到達。その後、午後4時までに41人減り、午後5時までにさらに55人が帰宅し、避難者数は142人になった。午後5時5分に最大の60センチの波を観測した。一方、避難住民は午後6時には99人になったという。

 片田教授は「テレビなどで津波の到達時間や高さはよく見ているが、第2波や第3波の方が大きいことへの警戒ができていない。津波に対する理解をもっと深める必要がある。日本近海で発生する地震津波では時間はない。揺れたらすぐ逃げるなど、自分で判断することが大切だ」と話している。
http://www.asahi.com/national/update/0302/TKY201003020243.html=リンク切れ

そしてアレの典型はこれ:

サーファー、津波警報無視 全国で1100人確認

2010年3月4日5時5分

 南米チリの大地震による津波が心配された2月28日、全国各地の海岸では、海上保安庁や警察などの避難指示にもかかわらず、波乗りを続ける人がいた。海に出ていたサーファーらは海保が確認しただけで全国で約1100人。津波はサーフィンに適した大波とは形や威力が違い、極めて危険だ。無謀な行為に、サーフィン愛好者からも非難の声があがる。

 千葉県館山市の平砂浦(へいさうら)海岸。当日の午後、上空を哨戒飛行していた第3管区海上保安本部のヘリコプターが、波乗りをしているサーファー約30人を確認した。拡声機で避難を呼びかけると、何人かは陸に上がったが、約1時間後に戻ったところ、サーファーは約50人に増えていた。拡声機で呼びかけても、反応はほとんどなかったという。

 館山市布良では、午後2時16分に20センチの津波の第1波を観測。気象庁は「津波は後の方が大きい可能性がある」として、引き続き高所への避難を呼びかけていた。

 ヘリはぎりぎりまで海面に近づき、潜水士2人が飛び込んだ。泳いでサーファーに近づき懸命に説得したが、波の音に打ち消されて声は届きにくかったという。

 陸上からは、地元の消防団員162人が消防車で海岸付近を巡回して避難を呼びかけた。千葉県警館山署も、サーファーの多かった平砂浦と同県南房総市の和田浦海岸に警察官を派遣して、午後2時ごろに、いったんほぼ全員を陸に呼び戻した。しかし、警官の姿が見えなくなると再び海に出るサーファーが相次ぎ、暗くなるまでいたちごっこが続いたという。館山市では午後5時52分に80センチの最大波を観測した。

 地元のサーフィン愛好家で会社員の宇田川公正さん(45)は「首都圏のサーファーは、時間と金をかけて来たのだから少しでも長く波乗りをしたいと、危険を無視して海に出がちだ」と話した。

 年間約6万人のサーファーが訪れる北海道厚真(あつま)町の浜厚真海岸にも、28日早朝から見物人も含めて100人ほどが訪れていた。

 苫小牧海上保安署は午前9時30分から正午すぎにかけ、浜辺からと海上からの二手に分かれ、避難を呼びかけた。警報を知らなかった人や、子ども連れの多くは素直に聞き入れたが、「ビッグウエーブに乗ってみたい」と無視するサーファーも少なくなかったという。浜厚真海岸から約2キロの苫小牧東港では午後4時45分に約30センチの津波を観測している。

 海上保安庁によると、神奈川県や福島県、愛知県、三重県、和歌山県、徳島県、沖縄県の海岸でも、海に出たサーファーが確認された。呼びかけに応じないケースも目立ったという。海保では「台風の際にも多くのサーファーが浜に集まる傾向がある。指示には必ず従って」と訴える。

 日本サーフィン連盟は、「津波はサーフィンに適した波とは質も力も全く異なるもので、非常に危険」と指摘。「海の危険性を学ばないまま、道具だけ買って何となく始めるサーファーが出てきている」として、ルールやマナー順守を呼びかけていく方針だ。

http://www.asahi.com/national/update/0304/TKY201003030535.html=リンク切れ

おまけ

この日(28日)の夜,日本地図入り龍馬伝が放送されました。

また,バンクーバー冬季五輪のカーリング中継では,日本地図に隠れてストーンが見えなかったり……。

兵庫県ではこんなミスも。

津波予想時刻を誤配信 県の防災ネット 

 チリ大地震で、兵庫県の淡路島南部、瀬戸内海沿岸に津波警報や注意報が出された28日、県の情報ネットワークシステム「ひょうご防災ネット」が、「28日午後4時」だった津波の到着予想時刻を「30日午後1時半」と誤って送信していたことが1日、分かった。約7分後に訂正した。

 県は2005年度から、携帯電話のメール機能を使って災害情報を県民に伝える同ネットを整備。最大で34万5千件に配信できる。

 県によると、28日午前11時21分、津波注意報が出ていた瀬戸内沿岸の津波到着予想時刻などについて、作成者が書き込みミスをした内容を、そのまま確認せずに送ったという。約13万件に配信されていた。津波警報が出ていた淡路島南部の情報は正確だった。

 県災害対策課は「今後は複数チェックを行い、正確な情報発信に努めたい」としている。

 (藤原 学)

(2010/03/01 20:16)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002751270.shtml=リンク切れ

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ドラゴンクエストⅣ第6章

1990年の今日,ドラゴンクエストⅣ(以下,ドラクエ4)が発売されました。当時は人気ゲームは徹夜して買う,徹夜しないまでも早くから並んで買う――というのが当たり前でした。とくにドラクエ3からドラクエ4あたりがピークだったように思います。

ドラクエ4といえばシンシアですが(そうなのか?),それよりも印象に残っているのが“第6章のウワサ”です。このウワサについては当時ドラクエ4をプレイした人でしかもパソコン通信(死語(笑))をやっていた人じゃないと実感がないと思います。

きっかけはあっけないエンディングでした。ドラクエ4にもドラクエ3の裏の世界のような仕掛けがあるのか……と思っていたら,デスピサロを倒したらそのまままさかまさか……。えっ,ウソ~ッ!!

雑誌記事やストーリーの中に腑に落ちない点もありました。例えば,

  • 強力なメンバーも仲間になるという雑誌記事
  • 馬車には10人まで乗れるという雑誌記事
  • デスピサロをラスボスにするにはストーリー的に矛盾がある

などなど。

かくして4月から5月にかけてドラクエ4には第6章があるらしいというウワサが流れたのです。中には第7章をプレイしているというのもありました。

例として,↓は当時の代表的なパソコン通信のひとつ,アスキーネットPCSに書き込まれたものです。

ドラクエ4に6章があるという話は、どうも本当のようで、
何人か6章をやっているとゆう話が入りました。
でもまだ見た事がないので、もし情報がありましたら、おしえてください。
5章で終わるとしたら、デスピサロが可愛そうだと思いませんか?

ただ,この手のウワサのパターンとして,誰かが第6章をプレイしているというだけで,私は第6章をプレイしている――というのはひとつもありませんでした。

どうやら在庫がはけない流通業者が流したのでは……という,これもウワサで決着がつきました。

ドラクエ4はもともとスーパーファミコン用に開発されていたのに,肝心のスーパーファミコンの発売が延期になっため,しょうがなく?ファミコン版にするときに第6章やそのほかのデータを削った……という話もありました。

第6章を彷彿とさせる雑誌記事などは,スーパーファミコン版のときのプレリリースかなにかの情報がそのまま使われたものでしょう。

PS版やDS版にはちゃんと第6章があります。幻の?スーパーファミコン版第6章にあったものと同じかどうかは知りません。

ちなみにいまドラクエ8をやっています。

この記事は2010年02月11日09:32に投稿したmixi日記の一部を書き換えだけのものです。

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2週続けて雪の日曜日 (1987年)

1987年12月,あの雪の日曜日から1週間後の13日の朝,目がさめたら窓の外でカサカサという先週も聞いたような変な音が。 まさかと思って窓を開けて外を見たら,なんと雪でした。ここから先の記憶がないところをみると,たぶんまた寝たんだと思います。いわゆる二度寝というやつ。

前週と同じように南岸の低気圧に北東から冷たい空気が流れ込み,東京都心で雨から雪に変わったのは09時30分ごろ,そして18時までに3cm積もりました。

例によって例のごとく,おきまりのすってんころりんねんころりんで滑って転ぶ人がまたまた続出,前週を上回る32人がケガをしました。また,翌14日の朝は冷え込んで路面が凍結したため,関東各地でスリップによる交通死亡事故が相次ぎました。

中山競馬は3レース以降が中止になり,2週続けて日曜日の開催が中止になりました。12月としてははじめてです。

延期されていたミホシンザンの引退式は雪の中で行なわれましたが,芝コースが閉鎖されていたためにダートコースでの最後の走りとなりました。

当時,12月の第2日曜に国立競技場で行なわれていたトヨタカップは,もちろん雪のためにコンディションは最悪。勝ったFCポルトのイビッチ監督が「何千試合もしてきたが,こんな悪条件ははじめて」と語っています。これは雪のためばかりでなく,前週の “雪の早明戦”によって芝がかなり剥がされた影響もあったでしょう。

試合は延長の末,FCポルトがCAペニャロールを2-1で破りました。

もともと評判の悪かった日本のグラウンドの評価がこの日のトヨタカップによって最悪になりました。トヨタのせいだということに注目しましょう(笑)

国立競技場の芝が見違えるようになったのは1991年からだったと思います。

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インディギルカ (1939年)

1939年12月12日,北東の風20m/sという暴風雪の中,北海道の猿払村浜鬼志別の沖合0.8マイルのトド島付近で,ソ連の貨客船インディギルカ号(4500トン)が座礁しました。その後,大シケの中で横転。

700人以上乗っていたことは確かなようですが,正確な数は不明です。というのも,政治犯輸送船だったからです。ソ連の秘密のベールに包まれていました。

猿払村などの人々の献身的な救助で400人あまりが救助されました。夏季に鹿児島港沖1.6マイルで座礁したくろーばー号とは違い1,大シケの中でのこの生存者数は奇跡に近いでしょう。当時は特殊救難隊も機動救難士もいませんでしたし。

いろんな意味でタイタニックより悲劇的な遭難事故ですが,国内でもあまり知られてこなかったようです。私が知ったのも10数年前です。NIFTYのFZENFというフォーラムででした。ググればいくつかのサイトがヒットするので,最近は情報が増えたようです。謎が多かったインディギルカ号の悲劇とは? | 北海道ファンマガジンがいちばんわかりやすいと思います。

ちなみに,インディギルカとは酷寒の東シベリアの中でももっとも寒いオイミャコンを流れている川の名前です。ただし船名をこの川の名前からとったのかどうかは不明です。

参考文献: 原暉之. インディギルカ号の悲劇 – 1930年代のロシア極東. 筑摩書房, 1993.

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  1. なんかの映画での話です(笑) 詳しくは当ブログの史上最大・最悪の海難事故発生!!くろーばー号船長の海難審判をご覧ください。 

「這ってでも出てこい!!」 (1987年)

前回伝説の雪の早明戦から引き続き1987年12月6日の話です。

12月の第1日曜には福岡国際マラソンもあります。

この日行なわれた福岡国際マラソンは,中山竹通が悪コンディションの中,5kmごとのスプリット14.35-14.30-14.35-14.57-15.11-15.14-15.23と,35kmまで当時の2.07.12の世界最高時の通過タイム1.45.40を上回るペースで快走,後半の冷たい雨(みぞれ?)でスタミナを奪われて記録更新はならなかったものの,2時間8分18秒でぶっちぎりで優勝しました。このタイムはシーズンの世界最高,歴代(当時)でも10位の好タイムで,ソウル五輪への切符を事実上手中にしました。

当初,ソウル五輪の男子マラソン代表は事実上この福岡国際での一発選考といわれていました。ところが, 瀬古利彦1が足をケガして出場できなくなった途端に,選考は翌年3月のびわ湖毎日マラソンまでと変更される始末。このとき中山は瀬古に対し

這ってでも出てこい!!

といったといわれています。実際には

ボクなら這ってでも出る!!

といった――という話もあります。真相はわかりませんが,本当は何といったかはどうでもよく,中山は怒りをこの福岡国際でぶっちぎって勝つことで示したのでしょう。

這ってでも出てこなかった瀬古は翌年3月13日,選考最後――というより瀬古のためにあとから選考レースとして設定されたびわ湖毎日マラソンに出場,優勝はしたもののレース内容はシロウト目にも評価に値しないレベルでした。タイムもごく平凡なら(2時間12分41秒), 35-40kmのスプリットが17分01秒というのは,いくら向かい風だったとはいえ女子マラソン並みです。もう瀬古の時代は終わっていたのでしょう。それでも昔の名前でソウル五輪に出ましたが,予想どおりの惨敗に終わりました。

ちなみに,今日行なわれる福岡国際マラソンの中継の解説のひとりがこのとき這って出てこなかった瀬古。民放のロードレース中継というとなぜかほとんど毎度毎度解説に出てくるので別に驚きはしませんが,這ってでも出てこなかった年と同じ12月6日にどのツラ下げて……。

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※この記事は「這ってでも出てこい」 | Notenki Express 2014を少し書き直したものです。


  1. いうまでもなく,日テレの箱根駅伝中継やその他のマラソン中継になぜか頻繁に出てきてはワセダの応援やピントはずれな発言でヒンシュクを買っている人物。いつぞやは“ビoコ”発言もありました。 

伝説の雪の早明戦 (1987年)

12月第1日曜の初雪

1987年12月の最初の日曜,すなわち1987年12月6日,低気圧が発達しながら鳥島付近を通過,この低気圧に向かって北東から冷たい空気がはいってきました。

このため東京は最低気温0.9℃と冷え込み,前夜からの雨が06時から雪に変わりました。

これがこのシーズンの初雪で,戦後では1962年に次いで2番目に早い初雪です(当時)。そして09時には積雪2cmを記録しました。東京以外の積雪は八王子2cm,宇都宮4cm,軽井沢25cm,日光23cm,秩父7cmなどとなっています。

この雪の影響で,奥多摩有料道路が09時から全面通行止めになったほか,東北,関越,常磐などの自動車道路でも一時チェーン規制や速度制限が行なわれました。

また,中山競馬は11日に順延になり,この日予定されていたミホシンザンの引退式も次週に延期になりました。

東京で雪が降ればおきまりの相次ぐおむすびコロリンスッテンコロリン。東京消防庁の調べでは,この日だけで28人が重軽傷を負いました。私は大のおとながこれしきの雪で滑って転ぶのがいまだに信じられないのですが。

神宮外苑では,ほどよい感じで雪が降り,「思わぬ都心の雪景色に若者たちはちょっぴり“ロマンチック気分”」(毎日新聞)

雪の早明戦

12月の第1日曜といえばラグビー早明戦です。

今では12月の第1日曜と決まっているようですが,以前は12月の第1日曜以外に行なわれたこともあり,例えば1957年と1973年などは12月の第2日曜に行なわれています。

この日,国立競技場でも朝から雪が降り,グラウンドには一面の雪――。しかし,何があろうと中止にならないタテマエのラグビー,中止にしてはなるまじと約200人が雪かきに動員され,なんとかキックオフができる状態にこぎつけました。ビデオで見ると,それでもグラウンドのあちこちに雪が残っています。

試合は,先制した早稲田が一時は逆転されたものの今泉の2つのペナルティーゴールで再逆転,最後の明治の重量フォワードの猛攻を必死のディフェンスで凌ぎ,10-7で逃げ切りました。

ロスタイムにはいってからゴール前に釘づけとなった早稲田がオフサイドの反則を犯しペナルティーキックで同点という場面が2回あったのですが,明治は引き分けを潔しとしませんでした。

コンディションがコンディションだけにミスも多かったことは確かですが,とにかく白熱した名勝負でした。とくに最後の10分などはいまビデオで見ても力がはいります。

早稲田はこのシーズン,大学選手権も制し,さらには日本選手権で東芝府中も破り,学生としては(おそらく)最後の日本チャンピオンになりました。ちなみにこのときのNo.8が清宮・現ヤマハ監督です。当時は大学2年でした。

なお,ラグビーが何があろうと中止にならないというのはあくまでタテマエです。それが証拠に1996年2月18日には雪のために日本選手権の決勝が順延,1998年1月には同じく雪のために日本選手権の1回戦が順延になっています。また,1989年1月にはおよそ説得力があるとは思えない理由で全国高校大会の決勝は中止,大学選手権の決勝は順延になりました。

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※この記事は伝説の雪の早明戦 | Notenki Express 2014を少し書き直したものです。

秩父夜祭殺人事件

12月2日と3日,埼玉県秩父市で秩父夜祭が行なわれます。

しばらく中止されていたネット中継も,有志の方々がボランティアで復活させるようです。

秩父にはときどき行っていますが,夜祭期間中には行ったことがありません。人混みがきらいということもありますが,そもそもホテルの部屋が簡単には取れません。夜祭期間中の部屋の予約は通常とは別扱いになっているところが多いようです。料金ももちろん特別料金(笑)

ところで,私の知る限り,秩父夜祭の夜に2件の殺人事件!?が起きています。

ひとつは,

2000/12/04 秩父夜祭が終わったこの日の朝,秩父市内の羊山公園で,ホームレス風の初老の男性の絞殺死体が発見される(内田康夫『鯨の哭く海』)

『鯨の哭く海』のロケ地探訪はhttp://www.notenki.net/location/uchida.html#id0003にあります。ただし,訪問したのは秩父のみで,しかも最重要箇所が抜けています(笑) 10年以上も前のものなので更新したいと思っていることはいます。

この作品は2006年10月13日に「金曜プレステージ」でドラマが放送されましたが,ハッキリいって駄作でした。

殺人事件のもうひとつは,2002年1月12日に土曜ワイド劇場で放送された「お祭り弁護士・澤田吾朗2 秩父夜祭りに消えた女~恋人に殺人容疑が!巨大笠鉾引き踊り,打ち上げ花火が暴いた真犯人」。あらすじを公式サイトから。

 澤田吾朗(高嶋政伸)は、お祭と聞けば全国どこにでも駆けつけてしまうほどの祭り好きの弁護士。現在、妻・恵(芳本美代子)の母である弁護士・神崎雅子(野際陽子)の事務所に籍を置いている。
 ある日吾朗は、足を捻挫した雅子の代わりに、仕事で秩父へと出かけて行く。折りしもその日は、日本三大曳山祭りの一つ、秩父夜祭りの当日、祭りの血が騒ぐ吾朗は早速参加してしまう。
 ところがそんな中、吾朗は若い女性が男の車に引きずり込まれようとしているのを目撃、女性を助けようとしたことから、周囲を巻き込んでの大乱闘になってしまう。
 所轄署に連行された吾朗は、仕事の依頼人で秩父織りの名人といわれる職人・佐久間大三郎(梅津栄)が保証人となって、ようやく釈放される。
 吾朗は、その直後に大三郎から、自分の孫だというやはり秩父織りの職人・佐久間雄一(西岡竜一朗)を紹介される。雄一は、神谷桐子(細川直美)という恋人を連れていたのだが、桐子こそ、吾朗が助けようとした女性だった。桐子を車に連れ込もうとしたのは、工藤(藤原習作)というチンピラだという。吾朗と桐子からこの一件を聞いた雄一は、「こうなったらあいつと決着をつけてやる」と叫ぶと、その場から駆け去っていき、あわてて桐子もあとを追っていったのだった。

ドラマの中で,今夜はどうぞうちにお泊まりくださいと勧められた澤田吾朗がホテルの部屋を取りましたからといって断わるシーンがあるのですが,当日ポッと部屋が取れるなんてあり得ないです。かりにホテルの部屋を取ったのが事実なら,かなり以前に予約していたものと思われます。

2時間サスペンスでは,「サントリーミステリー大賞スペシャル」で放送されたその名も「秩父夜祭殺人事件」もあるのですが,ストーリーが不明で(たぶん見たはずですが),そもそも秩父夜祭の夜に殺人事件があったかどうかわからないので,ここではスルーしておきます。

最後に,秩父夜祭は“り”を送らないのが正しいようですが,タイトルやサブタイトルや引用に関しては《ママ》にしています。

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豊橋市で竜巻 (1941年)

1941年11月28日06時40分ごろ,豊橋市を竜巻が襲い,郡是製糸工場の宿舎が倒壊して女子工員3人1が死亡したのをはじめ,全体で12人が死亡しました。12人というのは明治以降の竜巻による死者の数では2番目ですが,なぜかあまり知られていません。

1941年11月29日付名古屋新聞より:

今曉,豊橋に大旋風
死傷百五十名 倒壊三百七十戸

二十八日朝六時四十分ごろ豐橋市に秒速六十メートル(推定)の豪雨を伴ふ大旋風が襲來倒潰家屋四十四戸,半壞家屋三百三十戸,小破損家屋千餘戸を出し,下敷きとなった壓死者十二名,重傷三十名,輕傷百十三名を出した

“風速60メートル”が本当だとすれば,藤田スケールでF2クラスの竜巻だったことになります。同紙面の別の見出しでは“風の戦車”という表現が使われており,時代を感じます。

この竜巻は寒冷前線の前面の暖気内で発生したようで,同じ日,東京では“生暖かい雨”が強風を伴って豪雨となり,南部と江東方面で浸水が発生,“城東電車”が運転をストップしています。

やがて無謀な開戦とともに気象管制がはじまるので,これが敗戦前最後の気象災害報道となったと思われます。

ちなみに,豊橋はこのあとも1969年12月と1999年9月に強い竜巻に襲われています。とくに1999年の竜巻は日本で観測された4つのF3クラスの竜巻のひとつです。

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  1. 2人という資料もあります。 

井の頭公園玉川上水転落事故 (1919年)

太宰治の『乞食学生』に次のようにあります。

万助橋《まんすけばし》を過ぎ,もう,ここは井の頭公園の裏である。私は,なおも流れに沿うて,一心不乱に歩きつづける。この辺で,むかし松本訓導という優しい先生が,教え子を救おうとして,かえって自分が溺死《できし》なされた。川幅は,こんなに狭いが,ひどく深く,流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。

松本虎雄訓導が「教え子を救おうとして」玉川上水で殉職したのは1919年11月20日のことです。

21日付の東京朝日より:

昨日午前十一時頃麹町永田小學校の全校生徒五百名は府下井の頭方面へ遠足に向ひたるが一行中の三年生永田俊雄《ながたとしを》(十一)が誤つて附近の淨水に陷りたれば受持教師なる訓導松本虎雄(三二)は即座に後より飛込み救ひ上げんとせしに却て自分が流れ行方不明となりたるが俊雄は幸ひに岸に取縋り辛うじて助かりしも虎雄氏は水深一丈餘の塲所なれば搜索に大困難を爲し未だ判明せず橋本麹町區長等は自動車を驅つて現塲に急行して引續き搜査中なり

あんなところで溺れるなんて今では想像できませんが,上に引用した『乞食学生』にもあるようにかつてはかなり流れが速くしかも渦を巻いていたようで,さらに新聞によるとこの年の夏以降だけで5人の死者が出ていたとのことです1

今であれば,間違いなく管理者(校長など)の責任が問われますね。当時はそんな概念はおそらくなかったことでしょう。

この事故は小野さつき訓導にも大きく影響を与えたようです。3年後に起こった小野さつき訓導の殉職については七夕の白石川の惨事 | Notenki Express 2014をご覧下さい。

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  1. ホントかどうかは知りません。 

11月3日は晴れの特異日?

晴れの特異日とされる日で最も有名なのはおそらく11月3日でしょう。でもホントに晴れの“特異日”なのでしょうか。

シツコいですが特異日について『気象科学事典』から引用しておきます。

暦の上の特定の日に,ある特定の気象状態が現れる割合が前後の日に比べて高い日

“前後の日に比べて高い”というのがポイントです。これを念頭に11月3日前後数日間の過去の天気を調べます。

ここで問題になるのはこれもまたシツコいですが“x月x日が晴れか否かをどう決めるのか”です。ここでは10月10日は晴れの特異日ではなかった | Notenki Express 2014と同じく次の日を晴れということにしました。

天気概況(昼:06時~18時)で“晴”がある日。ただし“雨”のある日はカウントしない

方法によって比率は変わるでしょうが,傾向は変わらないと思います。ちなみに,東京管区気象台では“日平均雲量8.5未満”かつ“日降水量1.0㎜以上ではない”を“晴”とした日別天気出現率を公開しています。

データを気象庁HPからダウンロードしてきて10月29日~11月8日について1967年~2014年の東京の晴天率を調べると次のようになります。

月/日 晴天率(%)
10/29 50.0%
10/30 56.3%
10/31 68.8%
11/01 54.2%
11/02 66.7%
11/03 64.6%
11/04 64.6%
11/05 52.1%
11/06 39.6%
11/07 47.9%
11/08 72.9%

なんかビミョーな値ですね。しかもとくに“前後の日に比べて高い”わけではありません。10月10日は晴れの特異日ではなかった | Notenki Express 2014と同じように“非雨率”を出してみると次のようになります。

月/日 非雨率(%)
10/29 70.8%
10/30 72.9%
10/31 81.3%
11/01 68.8%
11/02 77.1%
11/03 87.5%
11/04 83.3%
11/05 81.3%
11/06 60.4%
11/07 66.7%
11/08 83.3%

期間を通して雨が降りにくいので程度問題ですが,その中でも“雨が降りにくい日”とはいえるかもしれません。

10年でまとめた晴天率の5年ごとの推移は次のようになります。

期間 晴天率(%)
1970-1979 60
1975-1984 90
1980-1989 80
1985-1994 80
1990-1999 80
1995-2004 60
2000-2009 50
2005-2014 60

1970年代後半から1990年代ごろにピークがあってそれから下がってきたように見えますが,それが傾向なのかどうかはわかりません。

ちなみに,1956年11月2日付毎日新聞によると(ただし方法は不明),1881-1955年の75年間の晴天率は2日が54%,4日が52%なのに対し,3日は67%でした。それでも67%だからとくに高いとはいえませんが,1921-1955年に限定すると晴天率は70%を超えていたとのことです。

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