あなたの知らない死語の世界

「MK5」「チョベリバー」などのように?! いつの間にやら使われなくなったお天気用語を少ないながら集めてみました。なお,「大陸せん風」や「颶風」などかなり昔に死に絶えたことばは入れてありません。

●台湾坊主

台湾付近で発生する低気圧です。急速に発達しながら日本の南岸沿いを通ると,強風などで大荒れの天気をもたらしたり,コースによっては太平洋側に“大雪”を降らせたりすることもあります。

最も有名な台湾坊主は「昭和45年1月低気圧」でしょう。当時の新聞には

“台湾坊主”ひとあばれ
“台湾坊主”各地で大暴れ

などの見出しが大きく躍っています。

「台湾坊主」がいつから使われなくなったかは定かではありません。ただ,『NHK最新気象用語ハンドブック』(1986年)には「「台湾坊主」は使わない」とあるので,1980年代までは使われることもあったのでしょう。『新版 NHK気象ハンドブック』(1995年)にはなんにも書いてないので,この時点までにほとんど死滅したと思われます。朝日新聞の見出しでは,1975年が最後です。

最近は「東シナ海低気圧」といわれることが多いです。また,日本の南岸を通る低気圧は「南岸低気圧」とよばれます。面白みのない名前です。

●弱い熱帯低気圧

今回取り上げた死語の中ではもっとも最近まで生きていたことばです。中心付近の最大風速が17m/s未満の熱帯低気圧のことでした。

1999年の夏,弱い熱帯低気圧のもたらした大雨によりDQNの川流れをはじめとする増水事故が頻発したのをきっかけに,翌2000年から廃止されました。同時に「弱い(台風)」「小型の(台風)」なども廃止されました。

それからというもの,たんに熱帯低気圧といった場合,総称なのか元“弱い熱帯低気圧”のことなのかわかりにくくなりました。また,やたらと“ただの台風”が増えることにもなりました。

ちなみに,σ(^^;)は元“弱い熱帯低気圧”を“ただの熱帯低気圧”,強さや大きさの表示がない台風を“ただの台風”とか“ノーブランド台風”とかよんでいます。

ついでに,気象の本は売れないので,ちょっと古い本がそのまま書店に並んでいたりすることも珍しくありません。それらの本には1999年までの台風分類表が載っていることもあるので,注意しましょう。

●暴風雨警報

1988年に廃止されました。替わって「暴風警報」が新設されました。それ以前は「暴風警報」はなく,雨に関係なく「暴風雨警報」でした。同時に「風雨注意報」も廃止されました。

なお,「暴風雪警報」「風雪注意報」は残っています。

●異常乾燥注意報・異常低温注意報・雷雨注意報

1988年から“異常”がつかなくなりました。また,「雷雨注意報」も「雷注意報」に短縮されました。

●暖冬異変

1970年代まではよく使われていました。最近は暖冬が当たり前になったので,いつの間にか死語になってしまいました。朝日新聞の見出しで見ると,1993年を最後に使われていません。

●地球の寒冷化

1980年代の前半くらいまでは,地球はだんだん寒くなるぞ~ゴルァ,といわれていました。いつの間にか温暖化教に主流の座を奪われました。いわゆる死語とは違うかもしれませんが,ついでに入れておきます。

冬のど真ん中,パウロ回心の日

昨日1月25日はキリスト教では「パウロ回心の日」になっています。伝道者パウロがキリスト教に改宗したのを記念する日ですが,1月25日に回心したという記録があるわけではなく,なぜこの日なのかは不明のようです。

イングランドには,この日のお天気でその年の天候や災害を占う次のような詩があります(八木谷涼子『キリスト教歳時記』より)。

聖パウロの日が明るく晴れたなら,この年,幸《さいわい》多かろう
雪や雨が降ったなら,穀物みんな不作だろう
曇や霧で暗ければ,鳥や家畜が死ぬだろう
風が空を吹くならば,国が戦《いくさ》で忙しい

また,この日は冬の真ん中とされています。

冬を短い単位でみれば,冬至または12/25のクリスマスからこの日までが冬の前半,この日から02/22の「聖ペテロの日」が冬の後半になります。冬を長い単位でみれば, 11/25の「聖カタリナの日」からこの日までが冬の前半,この日から03/25の「マリアの受胎告知日」または春分までが冬の後半になります。

これを考えると,パウロ回心の日は季節的にうまい時期に配置されていることがわかります。ドイツには「パウロの回心で大地の中で根は向き直る」ということわざもあるそうです。

パウロ回心の日については,フランスに次のようなことわざもあります。(堀田郷弘ほか『フランスことわざ歳時記』より)

聖ヴァンサンの祝日には,冬は牙をなくす。近親の聖ポール(=パウロ)に牙を譲るか,売り渡すから。

聖ヴァンサンとは聖ウィンケンティウスのことで(ちなみに,「焼き肉焼いても家焼くな!」はバンサンカン(笑))――といっても聖ウィンケンティウスなんてσ(^^;)も聞いたことがなかったのですが,聞くところによると,ぶどう栽培業者の守護聖人とされています。その聖ウィンケンティウスの日は01/22。その日に寒さがやわらいだとしても,パウロ回心の日にはまた寒さがぶり返すから油断するなと,このことわざはいっているようです。

高速道路を走る馬

1996年の今日,大井競馬場から逃げ出した1頭の競走馬が首都高1号線を爆走して話題になりました。スーパーオトメです。

スーパーオトメはそのあと2月3日にデビューしました。ダントツの1番人気に支持されましたが(入場者も普段よりかなり多かったらしい),大井のダートコースは走り慣れた高速路面と勝手が違ったのか,5着に敗れました。

しかし,首都高を事故もケガもなく3kmも爆走したことから,交通安全の象徴としてオトメちゃん人気はしばらく続き,スーパーオトメの単勝馬券は交通安全のお守りとして珍重されました。

スーパーオトメはデビューから約1年半後の1997年7月に初勝利をあげ,その年の10月に引退して故郷に帰りました。半兄にフェブラリーHを勝ったチアズアトムがおり,けっして悪い血統ではありません。

2004年に出産した牡馬はハシルコウソクドウと名づけられ,荒尾で走っています。4戦して着順は8-6-3-4。(2007/01/25(Thu)現在)

最近は珍しいのかも知れませんが,競走馬が逃げ出すことはたまにありました。実際,σ(^^;)は福島で2回ほど見たことがありますし,1964年の皐月賞(シンザンの一冠目)ではサツポロホマレがパドックから逃げ出して甲州街道を快走しました。1988年には川崎競馬場から逃げ出したイナズマライデンが堀之内のソープ街を爆走してちょっとした話題になったこともありました。

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チャララーン(2)

チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの続きです。長すぎるタイトルを端折って短くしました(笑)

第五連隊の雪中行軍とほぼ同じ時期,福島泰蔵大尉率いる同じく第八師団第四旅団の歩兵第三十一連隊の雪中行軍隊が逆のルートから第五連隊よりもはるかに長い234kmの踏破を12日かけて成功させました。

小説や映画では話を面白くするために,第五連隊と第三十一連隊が互いに競い合ったり(というより競い合うように仕向けられたり),神田大尉と徳島大尉が八甲田山中での再会を約束したりしていますが,そこは縦割り組織のこと,お互いのことはまったく知らなかったというのが真相のようです。

第三十一連隊の雪中行軍隊の成功は,道案内に立った民間人によるところが大でした。とくに増沢から八甲田山中を命がけで先導した大深内村の7人は,現在でも「七勇士」とよばれ称えられているそうです。

最大の功労者であるはずのこの7人は,用が済むとひとことの感謝のことばも受けなかったばかりか「過去2日間の事は絶対口外すべからず」と脅しをかけられ,雪の中に置き去りにされました。しょせん帝国陸軍とはその程度のものでしょう。ちなみに,映画「八甲田山」が上映されたときは,なぜかこのシーンがカットされていました(DVD版にはあります)。

それはともかくとして,隠さなければならないような何があったのか――謎に包まれています。第五連隊の雪中行軍隊の遭難死体を見てしまった……と考えるのがふつうでしょうが(軍の恥になることだから),ひょっとして第五連隊の生存者を見殺しにしたのではないか……と考える人もいます(川口泰英『雪の八甲田で何が起ったのか』)。

ついでに,第五連隊の大隊長の山口少佐は生還後ピストルで自殺したことになっていますが,重度の凍傷を負った指でピストルの引き金が引けるのかという疑問などがあり,発見時すでに死亡していたのに,当時の考えでは指揮官の死亡すなわち負けだから,体裁を繕うために生きていることにしたのでは……ともいわれています。

さて,八甲田の雪中行軍からちょうど3年後,第五連隊と第三十一連隊が所属する第八師団はいわゆる「黒溝台の会戦」ではじめてロシアとの戦闘に参加しました。

この戦いは厳冬期にはロシア軍は戦いを仕掛けてこないと勝手に思いこんでいた無能な陸軍首脳部の虚をついて手薄な左翼方面に大攻勢をかけてきたものです。戦いは激戦となり,第三十二連隊に移っていた福島大尉と第五連隊の雪中行軍隊の生存者のひとりだった倉石大尉はともに戦死しました。

ちなみに,映画「八甲田山」の最後のテロップでは全員が戦死したとなっていますが,生還した人もいます(伊東=伊藤中尉など)。映画や小説はあくまでフィクションです。

(完)

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チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン

1902年1月25日,旭川(当時は上川測候所)で日本の気象官署としては現在に至るももっとも低い-41.0℃を観測しました。

ちょうど同じころ,津軽海峡を挟んだ八甲田山中では,陸軍第八師団第四旅団歩兵第五連隊の雪中行軍隊が猛吹雪の中をさまよい,210名中生存者わずか11人という大惨事が発生していました(死者には救出後の死亡者・“自殺”者を含む)。新田次郎の小説のタイトルにもなっている八甲田山死の彷徨です。この記事の意味不明とも思えるタイトルは,映画「八甲田山」のテーマ(芥川也寸志作曲)の人間カラオケ版です(笑)

神成文吉大尉率いる第五連隊の雪中行軍隊210名(山口少佐をはじめとする臨時移動大隊本部14名を含む)が青森の連隊本部を出発したのは1月23日午前6時55分でした。この日の青森の最低気温は-8.7℃,風は西の微風,夜来の雪は降り続いていたものの,まず平穏な気象条件でした。ところが昼ごろ,小峠での大休止の最中に天気は急速に悪化,気温がみるみる低下し,風雪が強くなりました。このとき永井三等軍医は凍傷者の発生を恐れて帰還を具申しましたが,経緯はともかく雪中行軍を続行することになります。このころから本来編成外であるはずの山口少佐が指揮に口をはさむようになり,指揮系統が乱れ,遭難の要因のひとつになりました。

なお,雪中行軍隊の指揮官はあくまで階級がもっとも上の山口少佐だったという話もあっておそらくそのとおりだと思うのですが,ここでは通説どおりにしておきます。

そのころの気象状況について,「気象要覧」に次のようにあります。

……二十一日一箇ノ低氣壓琉球南部ヨリ南岸ニ沿フテ北東ニ走リ全國ノ天候又一變シタレトモ二十三日該低氣壓ハ極北東海ニ入リ高氣壓部ハ追及シテ天候恢復シ寒風旺盛トナリ日夲海沿岸ハ雨雪殆ト絶エス……

天気図を見ると,21~23日にかけて低気圧(とおぼしきもの(笑))が日本の南岸を進んでいます(今流にいえば南岸低気圧)。等圧線が粗い当時の天気図には描かれていませんが,もうひとつ日本海から津軽海峡付近に進んだ低気圧もあったような感じです(要するに二子玉低気圧)。23日の天気の急変は,津軽海峡付近に進んだ低気圧かそれに伴う寒冷前線の通過によるものだったのかも知れません。

ちなみに当時の新聞によると22日,降雪のために大相撲が中止(新聞には“休業”とある)になっています。この日東京で13.3mmの降水量が観測されており,降雪に換算すると数cm~10cmくらいになります。おそらく南岸の低気圧によるものでしょう。

2つの低気圧は23日には日本の東海上に出て西高東低の気圧配置になり,それと同時に猛烈な寒波が襲ってきました。青森大学雪国環境研究所の杉見良作氏は第五連隊の雪中行軍隊が通過した各地点の最高・最低気温を次のように推定しています。(2002年1月25日付東奥日報より)
http://www.toonippo.co.jp/rensai/ren2002/sechukougun/0125.html(リンク切れ)

平地と山間部で気象が違うことはある意味では常識ですが,青森市内と雪中行軍のルートとなった北八甲田山麓でも気象条件はまったく違うといってもよく,大休止中に天候が悪化した小峠付近までは青森市内とあまり変わらないものの,その先の大滝平付近からは様相が一変し,吹き上げる風と吹き降ろす風が複雑に絡み合い,気温もかなり低下します。さらに,のちに雪中行軍隊が迷いこむことになる鳴沢の峡谷は一段とひどく,雪の吹きだまりになっていました。

いずれにしても,比較的良好な天候下でも容易ではない雪中行軍であるのに,準備不足・装備不足・認識不足に加え,指揮系統の混乱,そのうえ猛烈な寒波に襲われては成功する道理はありませんでした。

(続く)

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七里ヶ浜DQNボート沈没事件

眞白き富士の根緑の江の島
仰ぎ見るも今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみ霊に
捧げまつる胸と心

1910年1月23日,七里ヶ浜沖で第二開成中(現・逗子開成中高)のボートが転覆して生徒12人(1人は小学生)が全員死亡するという事故が起こりました。直接の原因は,行合川にそって吹き降ろしてくる強風帯に定員オーバーのボートが遭遇したためのようです。

この「七里ヶ浜の哀歌」は,12人の生徒の追悼式で鎌倉女学校の生徒によって歌われた歌です。本来“富士の根”が正しく,“富士の嶺”はあとで誰かが勝手に書き換えたものだそうです。作詞は三角錫子・同校教諭ですが,実は当時女学生の間で歌われていた「夢の外」という歌の替え歌で,さらに「夢の外」が聖歌623番「いつかは知らねど」の替え歌でした。

大正期にバイオリン演歌師たちによって広められ全国区の歌になりましたが,なぜか曲調は短調になっていました。短調にして歌ってみるとわかりますが,せっかくの美しいメロディーがいかにもお涙頂戴的な品のないメロディーになってしまいます。

ところで,σ(^^;)も最近まで知りませんでしたが,死亡した12人のうち6人は20歳以上の屈強な若者でした。この点,2番の

風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶなは父母

はかなり現実にそぐいません。

しかもこの連中,今流にいえばかなりのDQNでした。一部ではこの若者たちは病気の女教師を見舞うためにボートを乗り出したということになっていますが,それは1935年公開の映画の作り話で,実際には蛮食会に供するための鳥を撃ちにいったのでした。しかも,ボートを使うときには2人の教師の許可を得なければならない決まりだったのに,教師が2人とも外出していることをいいことに無断で漕ぎ出したのでした。さらに,12人というのはかなりの定員オーバーでした(定員は7人)。

蛮食会というのは,一種の闇鍋パーティーみたいなもので,アヤシげな肉――そう,さしずめ吉野家の狂牛丼用の牛肉など米国産の生ゴミ牛肉を鍋で煮て食するようなパーティーだったそうです。

ところで,若者たちが乗ったボートはもともとは巡洋艦松島に装備されていたものでした。

松島は日清戦争時の連合艦隊の旗艦でしたが,船体に比べて装備が重すぎ,黄海海戦のときは清の艦隊の目標になっただけで攻撃には役に立たなかったそうです。しかも松島はかなりの損傷を受けて旗艦機能を喪失したため,お荷物となって,敗走する清の艦隊を追撃することができなくなりました。さらにはのちに少尉候補生を乗せた遠洋航海で寄港した台湾で爆発事故を起こし,乗組員370人中207人が死亡しました。

ちなみに,黄海海戦といえば思い出す

♪まだ沈まずや定遠は

で有名(?)な軍歌「勇敢なる水兵」はこの松島が舞台です。

※参考文献: 上田 信道. 謎とき名作童謡の誕生 (平凡社新書). 平凡社, 2002.

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新潟-上野112時間列車の旅

1963年1月23日16時05分,急行越路が新潟駅を発車していきました。このときはまさか上野駅まで112時間もかかる道中になるとは誰も思ってはいなかったでしょう。

当時の新聞からこの列車の足取りを拾いながら,三八豪雪の一端を見てみることにしましょう。はっきりした資料に基づいているわけではないので,不明な点が多いです。

1月23日16時05分 新潟駅を出発

大雪警報をついての発車でした。定刻に出たかどうかはわかりませんが,多少遅れたとしてもこれからの遅れに比べれば大した問題ではないでしょう。

新潟県下越地方は19時半ごろから最大瞬間風速30m/sの暴風雪となりました。この影響で新潟-長岡間の信越線などが22時過ぎまでストップ,その後ようすを見ながらゆっくり運転を再開しましたが,「越路」は23時ごろ保内駅構内で雪の吹きだまりに突っ込んで身動きが取れなくなり,そのまま保内駅で滞留することになります。

一方,前日から18年ぶりという大雪に見舞われていた北陸本線は,夜から全面運休となりました。

1月24日 押切駅で立ち往生

どうやって押切駅まで動いたのか不明です。

暖房が切れたために列車内に火鉢が差し入れられましたが,乗客約400人のうち311人が一酸化炭素による中毒症状を起こしました。うち重症だった3人がラッセル車で長岡まで運ばれて入院しました。のちに乗客のひとりは「(国鉄は火鉢を差し入れてくれたが)おかげで中毒が起こった。ほんとは暖房に必要な水を補給すべきだった。その機会もあったのに」と語っています。

12時30分ごろ,福井県勝山市の横倉地区で大規模な表層なだれ(俗にアワとよばれます)が発生,住宅4棟と公民館,神社などをのみ込み,16人が犠牲になりました。

このころから富山・石川・福井の北陸3県では,外部との交通が途絶して孤立状態となり,物資が不足する市町村が出はじめました。

一方,最低湿度6%とカラカラに乾いた東京の深川で早朝,ガス漏れによる爆発・火災が起こり,一家6人が焼死(爆死?),17棟が全焼しました。

また,鹿児島では前夜からの積雪が17cmに達しました。

1月25日~27日 長岡駅から動けず

どうやって押切駅から長岡駅まで動いたのか不明です。

開通のめどが立たないため,25日の夜から乗客は近所の旅館に泊まることになりましたが,その扱いたるや「囚人の収容所なみの扱い」(ある乗客)。

27日の朝,“除雪協力隊”を乗せた“救援列車”が上野から東北本線・磐越西線経由で長岡駅に到着しました。レールにこびりついた雪はラッセル車を脱線させるほどかたまっていて,ツルハシでたたき割るしか方法がなかったということです。

一方,26日14時30分ごろ,福井県美山村芦見地区で下校中の児童8人と引率の教師1人が“アワ”に巻き込まれて生き埋めになり,児童3人と教師が死亡するという事故が起こりました。この前後にアワ=表層なだれが各地で頻発しています。

1月28日01時45分 長岡駅を発車

自衛隊,除雪協力隊など約1000人を動員して,27日夜にようやく開通のめどが立ちました。

当初は27日22時過ぎに発車の予定でしたが,除雪作業が長引いたため,28日01時45分,ラッセル車2台を先導させての強行発車に踏み切りました。

1月28日08時29分 上野駅に到着

106時間21分遅れで,やっと上野駅に到着しました。もちろん国鉄史上第1位の遅れの記録です。屋根には雪が1m以上積もり,連結器や車輪のまわりには氷が貼りつき,悪戦苦闘ぶりを物語っていました。雪に閉じこめられていたときの乗客は約350人でしたが,到着したときにはなぜか650人になっていました。

小出駅に足止めされていた下り急行「佐渡」も,08時03分に88時間48分遅れで新潟駅に到着しました。

このようにしてある意味で三八豪雪の象徴となった「越路」と「佐渡」は多くの人の協力によって終着駅にたどり着きましたが,もちろん三八豪雪はこれで終わったわけではありません。

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今日は「バカは社会の迷惑の日」

今日1月21日はバカは社会の迷惑の日(笑)

ってσ(^^;)が勝手にそうよんでいるだけで,日本記念日協会とやらに登録されている日でもなんでもありません。

きっかけは次の事件です。

2003/01/21 16:00ごろ,市立中3年生♂が川崎市川崎区の古書店で漫画本6冊万引きして外に持ち出したところを店長に呼び止められ,店員が110番。万引き中3生は駆けつけた川崎署員に連絡先などを話さず,任意同行を求められた際,トンズラしようとし,遮断機の下をくぐって踏切にはいり,特急電車(快速特急かも)にはねられ死亡

この古書店の店長は当たり前のことをしただけなのに,事件のあと「人殺し!!」などと中傷するバカが現われ,その後紆余曲折はあるものの,閉店に追い込まれることになります。

この万引き中学生がDQNならその父親も輪をかけたDQNで,テレビのインタビューに次のように答えたそうです(直接見たわけではないので多少違うかもしれません)。

廃業していただければ本当にうれしい。あそこを通るのはつらいし,本屋さんの中で(あの子は)どんなつらい思いをしたか。きっと一生懸命,謝ったと思うんですよ

名前も連絡先もいわず,「自転車で来たので,鍵を掛けさせてほしい」などとウソをほざき,隙を見てトンズラしようとするような態度が“一生懸命,謝った”態度なのか? そもそも万引きは窃盗というれっきとした犯罪であり,謝ればすむというものではないはず。犯罪を犯したのだから“つらい”思いをするのはある意味当たり前。結果的に本当につらい思いをしたのは古書店の店長のほうでしょうし,轢いてしまった京浜急行の運転士もつらい思いをしたに違いありません。

いずれにしても,DQN中学生が万引きしたりトンズラしようとしたりしなかったらこんな事件に発展することはなかったわけで,まったくもってバカは社会の迷惑です。「人殺し!!」などと中傷するバカも社会の迷惑です。

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宇治川のマッチレース

元暦元年一月二十日(ユリウス暦で1184年3月4日),ところは宇治川仮設競馬場。

雪解け水で増水している宇治川を前にして出走取消または競走除外となる馬が続出,結局,佐々木四郎高綱が騎乗する生喰《いけづき》と梶原源太景季が騎乗する麿墨《するすみ》のマッチレースになりました。

天候は晴,馬場(?)コンディションは稍急流。

好レースが繰り広げられると予想されましたが,高綱の「やとの梶原殿,此河はやうある河ぞ,上も下も早くて馬の足いく程ならず,はるびのびたるとみゆるぞ,しめよかし」のひとことで景季が腹帯を締め直している間にスタートが切られてしまったため,レースは生喰が主導権を握る形で展開しました。途中,麿墨が川の流れに脚を取られて下流側にヨレるというアクシデントも手伝い,生喰の圧勝に終わりました。

いちおう

宇治川の先陣競走は,発走時,麿墨号が大きく出遅れた件について審議いたします。……

との審議放送が流れましたが,通過順どおりに確定しました。

勝ち馬の生喰の血統はというと……まったく不明(笑) どう間違ってもサラブレッドやアングロアラブでないことだけは確かでしょう(笑)

体高は約145cmと伝わっています。これはいまのサラブレッドの160~170cmと比べるとかなり小さくてポニーといわれるサイズですが,当時としてはこれでも大型馬だったそうです。

写真は宇治川と宇治川先陣之碑(撮影は2002年)

※2015/01/20(Tue) 画像復活など少し手を加えました。

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