雪と入試(2)

前回は1992年2月1日を中心に取り上げましたが,今回は,それ以外の入試が雪で大きな影響を受けた日について広く浅く紹介します。ただし,例によって首都圏の私立中学・高校入試に限らせていただきます。大雑把にいって,中学入試は2月1~3日,高校入試(当時)は2月18~20日です。

●1984年2月1日

とにかくこの冬は関東地方で雪が降りまくり,東京の冬季の雪日数は史上最多の29日に達しました(気象庁天気相談所調べ)。

西日本に大雪を降らせた南岸低気圧が1月31日午後,関東地方に年が明けてから3度目の大雪を降らせました。東京の最深積雪は16cmでした。このため,首都圏の鉄道は計317本が運休,また東海道・山陽新幹線が連日16日間の遅れとなり,最大で6時間のワースト記録を更新しました。

明けて2月1日は朝からの青空。交通機関の乱れなど雪の後遺症はほとんどなく,1日に試験を予定していた東京の私立中91校のうち4校が試験開始を遅らせた程度でした。

ただし,中には次のようなこともありました。女子中最難関のOIN中を目指していた受験生(Aさんとしておきます)の母親が交通機関の混乱を心配し,都内のホテルに泊まらせたまではよかったのですが,Aさんは不安と緊張と環境の変化のためにほとんど寝ることができず,まともに試験を受けることができなかったそうです。このあたり,降雪や,雪による交通の混乱は予想できたとしても,どのように対処したらいいのか,難しいところですね。

なお,この話は本人から直接聞いた話です。

●1984年2月18日

この年は中学入試に加えて高校入試も雪による影響を受けました。

17~18日にかけて南岸低気圧が通過,首都圏ではこの冬5度目の大雪になりました。東京では17日に降りはじめた雪が18日早朝まで降り続き,積雪は24cmに達しました。

例によって雪に弱い首都圏の国鉄(当時),各地でポイント凍結や車両故障が起こり,国電(当時)13線区などで運休や大幅な遅れを出しましたが,この日は土曜日だったため,大混乱は起こりませんでした。しかし,18日に試験を予定していた都内の私立高校154校のうち44校が,試験時間を30分~1 時間繰り下げるなどの措置をとりました。

●1986年2月19日

この日のことはよくおぼえています。18日,昼ごろからぱらついていた雪が,15時すぎ某国立高校の合格発表を見にいった帰りには本降りとなっていました。σ(^^;)は比較的方向感覚はいいほうなのですが,雪が降るとなぜか機能を停止します。最寄りの駅の遠かったこと遠かったこと……(^^;) どこからともなく♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの音楽が聞こえ,思わず「天は我々を見放した……」と叫びたくなりました(笑) 我々っていってもひとりなんですけどね(笑)

雪は翌19日の午前中まで降り続き,東京18cm,横浜37cm,八王子31cmなどの最深積雪を観測しました。

この日は当時の高校入試の2日目ですが,入試を予定していた都内の78校のうち1校が延期,33校が開始時間を10分~1時間繰り下げる措置をとりました。

バスが止まってしまった町田市の山の上にある高校へは,何百何千という受験生の列が延々と続いていたそうです。どこからともなく♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンの音楽が流れ,あの叫びが聞こえてきそう……「天は我々を見放した……。こうなったら露営地に引き返し,先に死んでいった者と一緒に,全員が死のうではないか……」(死んでどうするって)

どうでもいいですが,♪チャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーンは映画「八甲田山」のテーマです(笑) 詳しくはチャララーン,チャラララーン,チャラチャー,チャーラララーン | 能天気Express~新世界版~をどうぞ。

●1990年2月1日

なぜかこの日のことはまったく記憶にありません。

東京では30日の夜から降りはじめた断続的な雨が,31日未明から雪に変わりました。そして1日未明から本格的に降り出し,最深積雪は 11cm に達しました。

この日入試を行なった都内の私立中74校のうち,16校が試験開始時刻を繰り下げる措置をとりました。

●1970年2月1日(おまけ)

このブログでもいずれ紹介するであろう「昭和45年1月低気圧」がちょうど2月1日にぶつかったため,雪ではないにしても中学入試になんらかの影響があったのでは……と思い,新聞などを調べてみたところ,当時は学園紛争などという今となっては意味不明な嵐が吹き荒れていたためか,1行も記事を見つけることができませんでした。

※前回に引き続きこの文章は以前どっかに書いたほとんどそのまんまです(笑)

雪と入試(1)

明日,明後日,大学入試センター試験が行なわれます。首都圏では去年のセンター試験は雪に見舞われました。

ひとくちに入試といってもいろいろあり,幼稚園や小学校の“お受験”は10月くらいにはじまるらしいですが,それにはまったく興味がありません。東京都下に住んでいる元“受験屋”の感覚では,2月1日の中学入試が入試シーズンのはじまりです。そして2月1~3日の中学入試が第1のピーク,2月18~20日の私立高校が第2のピークでした。現在はσ(^^;)が受験屋だったころよりも高校入試が早くなっているので,第2のピークは2月10日~12日ごろでしょうか。いずれにしても,暦の上の話はともかく,気候的には冬のまっただ中に入試は行なわれます。

一方で,東京で雪が降ることがもっとも多い月は2月です。また,2月には最深積雪が10cm以上の日数が0.4日あります。ということは平均すると,2~3年に1日は10cm以上積もる日があるということです。そして10年に1日は20cm以上積もることがあります。

東京で10cm以上の積雪があるとどういう事態になるか……電車が止まる,首都高は全線通行止めになる,ノーマルタイヤの車のノロノロ運転やスリップ事故で道路は渋滞する,それだけならまだしも自力走行が不能になって路上に放置するバカがあらわれる,人は滑ってころぶ……。たかが10数cm程度の雪でのこのありさまは,雪の多い地方に住んでいる人にはおよそデキの悪いドタバタ喜劇にしか見えないと思います。

そしてこのような時期に入試が行なわれるわけです。当然,雪が降ったら上へ下への大騒ぎです。

実際,中学入試,私立高校入試が雪にたたられたことが過去に何度かあります。大昔のことはおいて最近20年程度に限ると,1984年,1986年,1990年,1992年です。ここ10年間はありません。1994年2月12日に25年ぶりとなる最深積雪23cmを観測していますが,当時の私立高校の入試日程からはズレていました(ただし,国立高校の入試はこの前後だったはず)。もちろん大学入試は予定されていたはずで,かなりの影響があったと思いますが,大学入試についてはよくわからないので(というか,興味がなかったので)ここでは触れません。

以下では,もっとも印象に残っている1992年の東京での状況について書き,雪が入試に与える影響の一端を紹介します。

1992年2月1日

1992年1月31日09時に四国沖にあった1004mbの低気圧が猛発達しながら東進し,2月1日09時に房総沖に達したときには980mbにまで発達しました。この低気圧により各地で大雪・強風となりました。

気象庁の観測原簿によると,東京(大手町)では31日の02時55分に降りはじめた雨が断続的に降り続き,14時20分に凍雨,14時45分にみぞれ,18時30分に雪となり,1日の09時50分まで降り続きました。そして07時に17cmの最深積雪を観測しています。一方,低気圧の接近とともに風も強まり,04時から05時にかけて最大風速12.8m/s,最大瞬間風速26.4m/sが観測されています。

同じ東京都内でも多摩方面では雪の降りはじめは早く,当時σ(^^;)が常連だったパソコン通信のとあるローカルネットで31日の13時59分に「雪だ~」という書き込みがあるので,そのころには降りはじめていたと思われます。

ちなみに,σ(^^;)はその日の22時12分に次のような書き込みをしています。

★FREE‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
★773\    01/31 SG186:雪だ 334

    雪はかまわないけど、明日から中学入試がはじまるんで、受験生や家

    族は大変でしょうね。

    そういえば、2月1日は2年に1回ぐらいの割りで雪に見舞われてい

    るような気がする。

    なんて言って、私はこんな時刻にどうしてまだ会社にいるんだろう?

                                                   [22:12]Kink

いくらなんでも2月1日が2年に1回雪ということは当時もなかったのですが,2年前の1990年の記憶もあったのでしょう。

なお,委託観測による1日09時の積雪深は,練馬22cm,世田谷21cm,青梅と新木場14cm,八王子11cm,府中8cmなど。また,横浜の最深積雪は15cmでした。

この大雪で交通機関は大きな影響を受けました。東武伊勢崎線,京成線が始発から間もなく全面運休となり,JRも中央線,山手線などが時間運休したほか,他の路線でもダイヤが大幅に乱れました。ただ,この日は土曜日だったので,大きな混乱は少なかったようです。道路でも,首都高速が例によって一時交通止めになったのをはじめ,あちこちでスリップ事故が相次ぎました。

さて,この日は生徒募集している東京都内の159校の私立中学のうち,73校が入試を予定していました。ところがこの交通機関の乱れのあおりをモロに受けて,予定通り入試を行なったのは6校に過ぎず,入試を延期させたのが3校,他のほとんどの中学校でも試験開始時刻を遅らせるなどの措置をとりました。

例えば,文京区にあるA学園中(女子中)では,試験開始の8時20分になっても受験生の4分の1が間に合わなかったため,開始を急遽30分繰り下げました。また,港区にあるA中学(男子中)では,9時の開始時刻を10時に繰り下げ,これにも間に合わなかった約10人を別室で受験させました。

ところで,先に「入試を延期させたのが3校云々」と書きましたが,そのうちの1校は御三家筆頭の開成中でした(ちなみに残り2校のうちの1校はプロテスタント系のミッション女子中で,掟破りの日曜入試になりました)。ただし,当時は開成中の入試日は1日と2日の2日間にわたって行なわれており,正確にいえば1日目が中止になっただけで,延期ではありませんでした。

しかし,これは中学入試史上,特筆すべきできごとでした。雪のせいでもなんでも,とにかく開成中が2日校になってしまったのです。ということは,あらかじめ願書を提出しておけば御三家を2校受けられたわけです。

女子御三家は,1日が日曜日のときは長老会系のプロテスタント校である女子学院が2日校になるので2校受けられる年がありますが,♂御三家を2校受けられた年が他にあったかどうか,σ(^^;)は寡聞にして知りません。

ついでですが,雪による混乱に輪をかけるように翌日の2日未明,東京で震度5(当時の震度階級)の地震が発生しました。被害は大したことはありませんでしたが,またもや交通機関が影響を受けました。このため,「2日校」になった開成中が試験開始を30分繰り下げたほか,面接を中止した中学校もありました。

大雪のパターン

東京に大雪が降るパターンはだいたい決まっており,高気圧が北日本方面に張り出しているときに太平洋岸を低気圧が発達しながら通る場合です。

このような低気圧については,現在では発生の初期の段階からかなり正確に予報できます。そして大雪や暴風などによる災害が予想されるときは,「低気圧に関する全般気象情報」などという形で気象庁から発表され,ニュースでも報道されます(マスコミが持ち上げた青年虚業家が逮捕されたり,空爆大好きのアメリカがどこかにバクダンを落とした,というような大騒ぎがなければ)。

ただ,問題は雨になるか雪になるかで社会に与える影響が大きく違うにもかかわらず,それが直前になってもわからないことが多い点です。これは簡単にいうと,雪になるか雨になるかの判断が難しいうえに,関東南部の降雪が特異な現象で(珍しい現象という意味ではありません),他の地域では雪にならない条件下でも雪になることがあるからです。

入試日に雪が降りそうだという情報を耳にしたら,実際に降ることを覚悟して準備したほうがいいでしょう。もし降らなかったら運がよかったとσ(^^;)に感謝しましょう(爆)

あと,最後にひとつだけ。雪の多い地方から都内の,あるいは周辺の大学などを受けに来る受験生もいると思いますが,自分は雪に慣れているから大丈夫だよん,などと思ってはダメです。確かに自分は大丈夫で,入試でスベることはあっても雪で滑って転ぶことはないかもしれませんが((^_^;)\ヲイヲイ),まわりがこのとおりですから,否応なしに巻き込まれる可能性が大です。とくに交通手段がメチャメチャになってはどうしようもありません。得意のスキーで移動するわけにもいきません。

※この文章は以前どっかに書いたほとんどそのまんまです(笑) もともとは1996年だったか1997年だったかにある教育雑誌に書いたものです。

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明暦の大火

麻布の質屋の娘・梅乃はお参りに行った本郷丸山の本妙寺でイケメン野郎に一目惚れ,そのイケメン野郎が着ていたのと同じ模様の振袖をつくらせて“夫婦遊び”をしたりしていましたが,ついに恋い焦がれて死んでしまいました。両親は本妙寺で葬儀を行ない,納棺の際その振袖を棺にかけてやりました。

お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。お寺では慣習に従いその振袖を古着屋に売りましたが,またまた翌年の同じ日,その振袖がかけられた棺がお寺に運ばれてきました。

お寺でもいくらなんでも気味が悪くなったのか,明暦三年正月十八日(1657年3月2日),娘たちの親を施主として施餓鬼を行ないました。そして供養のために振袖に火をつけたところ,一陣の怪風とともに火のついた振袖が舞い上がりました。火はみるみるうちに燃え広がり,江戸市中の6割を焼失し,10万人以上の犠牲者を出すという大火災になりました。

↑というのが「明暦の大火」,あるいは「振袖火事」に関するいい伝えで,江戸時代の怖い話を扱った本などにときどきのっています(文献によって多少異なっていたりします)。ただ,記録によるとこの日は朝から北西の風が吹き荒れており,こんな日に法要とはいえ振袖に火をつけるかという疑問があり,また,お寺で一目惚れするというのは八百屋お七の話に似通っており,おそらくお七の話を真似てつくられたのだろう……というのが定説になっています。そういえば,必殺シリーズのひとつ「必殺仕事人・激突」に「八百屋お七の振袖」というのがありました(1991年10月29日放送)。

いい伝えはともかくして,この冬シーズンの江戸では,十一月以来一滴の雨も降らない乾燥状態が続いていて,各地の井戸も涸れていました。そんな中,正月十八日の午後1時ごろ本妙寺から出火,折りからの北西風に煽られて南東方向の湯島,神田方面に燃え広がり,湯島天神神田明神を焼き,駿河台の大名屋敷を焼き尽くし,浅草から隅田川を越えて牛島新田(現在の墨田区)まで達し,翌十九日午前2時ごろにどうにか鎮火しました。ところがホッとした矢先のその十九日の午前11時ごろ,新鷹匠町(現在の文京区小石川)から再び出火,風向きが前日と変わったのか今度は東南東~南に燃え広がり,正午ごろ江戸城の天守閣が炎上,さらに増上寺付近まで焼いて,翌二十日の朝やっと鎮火しました。火はおさまりましたがこの夜から大雪となり(南岸低気圧によるものか),凍死者が続出しました。

出火元については実は本妙寺ではなく,となりの老中・阿部忠秋の下屋敷だったという話もあり,さらには浪人放火説,果ては老中・松平伊豆守黒幕説もあり,謎に包まれています。σ(^^;)的には阿部忠秋下屋敷出火説がしっくりします。

とはいうものの,かりに新しい証拠が見つかったとしても,もうとっくの昔に時効になっていますから,再捜査が行なわれることはないでしょう。

この時代の江戸に火災調査官紅蓮次郎がいれば,ちゃんと解決していたかもしれません。

火災現場は一期一会だ。はいつくばって灰の中から掘り起こせ。真実は必ず灰の中にある。

って土曜ワイド劇場の見過ぎですね……(^^;)

写真は,本妙寺跡付近(と思われます)。ちなみに,本妙寺はいまは巣鴨に移転しています。

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“今朝”の地震

気象庁 16日03時23分発表
●発震時刻: 1月16日03時18分
●震源:
  静岡県東部
  北緯35.0度
  東経138.9度
  深さ170km
●規模:
  M5.7
●震度3以上が観測された地域
 震度3
  茨城県北部
  栃木県南部
  千葉県北西部
  千葉県南部
  東京都23区
  神奈川県東部
  神奈川県西部
●震度3以上の市町村
 震度3
  水戸市
  常陸大宮市
  宇都宮市
  茂木町
  高根沢町
  市原市
  木更津市
  君津市
  富津市
  東京千代田区
  横浜神奈川区
  横浜西区
  横浜中区
  厚木市
この地震による津波の心配はありません。

来年の今月今夜のこの月は……

尾崎紅葉作のキンイロヨルマタ……ではなくて『金色夜叉』の有名な場面――とはいっても『金色夜叉』自体いまではかなり忘れられていますが(σ(^^;)も『金色夜叉』を通しで読んだことはないです),貫一が

吁《ああ》、宮《みい》さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処《どこ》でこの月を見るのだか! 再来年《さらいねん》の今月今夜……十年|後《のち》の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ

といって“不倫”をはたらいたお宮を足蹴にしたのは1月17日のことです。

この1月17日ですが,

打霞《うちかす》みたる空ながら、月の色の匂滴《にほひこぼ》るるやうにして、微白《ほのじろ》き海は縹渺《ひようびよう》として限を知らず、譬《たと》へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠《ねむ》げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙《しようよう》せるは貫一と宮となりけり。

などと春っぽい描写があるので,旧暦であることは明らかです(したがってこのブログ的な表記では“一月十七日”)。これがもし現在の暦(グレゴリオ暦)の日付なら,次の年の今月今夜,貫一が「ようし,僕の涙で月を曇らしてやるぞ……」と手ぐすね引いて待っていても,次の日(18日)の未明まで月は昇ってこないという,なんともおマヌケな話になってしまいます。

例えば,『金色夜叉』の新聞連載開始は1897年なので,1897年1月17日のお月さまを調べると,月齢は13.9,月の出は15時08分,南中は22時48分で,大昔turbo pascalでつくった自前のプログラムで調べたので多少の誤差があるにしても,熱海の海岸を散歩するにはいい月夜だったかもしれません。ところが翌年の1898年1月17日は月齢24.3で,11時36分に月はすでに沈んでおり,次の日(18日)の02時32分まで昇ってきません。

はたして貫一さんは無事に月を曇らすことができたのでしょうか……。

ちなみに,日本で太陽暦が採用されたのは『金色夜叉』の連載がはじまる20数年前の1873年でした。この時期になっても旧暦的な場面設定がされているということは,知識人の間でも“新暦”は普及していなかったんでしょうか……。

今年の一月十七日は3月6日です。

※『金色夜叉』の引用には青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)のファイルを使わせていただきました。ありがとうございました。

-67.8℃

1885年の今日,東シベリアのベルホヤンスクで-67.8℃が観測されました(ただし,この日付はロシア暦のもの。グレゴリオ暦では2月5日らしいが未確認)。当時としては地球上で観測された最低気温の記録でした。

当時,もちろん南極があることは知られていましたが,南極でもここまでは寒くないだろうと考えられていました。

現在の地球の最低気温は1983年7月21日に南極のヴォストーク基地で観測された-89.2℃,北半球の最低気温は1933年2月6日に同じく東シベリアのオイミャコンで観測された-71.2℃とされています。

しかし,これはヴォストーク基地,オイミャコンがそれぞれ南半球,北半球でもっとも寒いことを意味するものではありません。温度計が設置されていない,あるいは常時気象観測が行なわれていない場所でもっと気温が低いところが存在する可能性が否定できない(というよりむしろ高い)からです。

日経新春杯

第25回日経新春杯

◎◎◎◎◎ 1 1 テンポイント   66.5 鹿戸
▲×注○× 2 2 エリモジョージ  60  池添
×   △ 3 3 ジンクエイト   52  清水英
△△△△▲ 4 4 タニノチエスター 58  久保敏
      5 5 マチカネライコー 51  柴田光
 ××   6 6 ビクトリアシチー 50.5 福永洋
   ×  7 7 ヤマニンバリメラ 52  池江
      8 8 スリーファイヤー 49  小谷内
○○○▲○ 8 9 ホースメンホープ 57  小野

印はスポニチ(大阪版)のものです。

スポニチ(大阪版)には

世界へのステップ台! 負けられぬ
走れTポイント
酷量66・5キロに挑戦

などの見出しが第1面に躍っています。

雪の降る街を

雪の降る街をという古典的な名曲があります。

この歌は,もともとはNHKの連続放送劇「えり子と共に」の挿入歌としてラジオのスピーカーから流れた曲でした。「えり子と共に」については以前このブログにも書いたことがありますが,1949年10月5日から1952年4月3日まで放送された連続ラジオドラマです。ちなみに,あと番組として1952年4月10日から放送されたのが,女湯が空になったという伝説をもつ,忘却とは忘れ去ることなりのあの「君の名は」です。

「えり子と共に」がどのようなストーリーだったのか,ほとんどわかりません。最終回の最後の部分だけ何かの番組で聞いたことがありますが,えり子さんが結婚するところで終わっていました。「これからどういう生活になるのか,わかりません」というようなセリフがありました。

さて,「雪の降る街を」ですが,1952年1月,「えり子と共に」のリハーサル後にどうやら時間が余りそうだということで,急遽つくられた曲だそうです。どのような場面で流れたのかはわかりませんし,誰が歌ったのかもわかりません。

そういうわけで,はじめは1番の歌詞しかありませんでした。

ところが,急造の曲にしては意外に好評だったため,2番,3番をつけ足して,シャンソン歌手の高英男さんが歌い,1953年2月にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されました。

雪の降る街を」の歌詞は,「えり子と共に」の原作者でもある作詞者の内村直也さんがかつて訪れたことのあるいくつかの雪の降る街をイメージしてつくったもので,特定のモデルはないそうです。

作曲者の中田喜直さんは山形県鶴岡市の出身で,鶴岡市は「雪の降る街を」の“発祥の地”といわれることがありますが,発祥の地というのはハチ公が秋田犬だというようなもので(発祥の地はあくまでNHKのスタジオ(笑)),せいぜい“発想の地”でしょう。実際,鶴岡市のホームページでは“発想の地”となっています。

高英男さんはサハリン生まれ,11歳までサハリンに住んでいたそうで,雪のサハリンのイメージを重ねて歌ったと,いつだったかラジオで話していました。