与謝野晶子に「颱風」と題する随筆があります。
八月十三日。
昨夜は夜通し蒸暑くて寝苦しかつた。夕刊の新聞に台風が東京をも襲ふ筈だと書いてあつたが、夜の十時頃から果してそれらしい風が吹き出した。併し雨はまだ小降であつた。蚊遣線香が無くなつたので十一時で筆を止めて蚊帳の中に入つたが、寝苦しいままに何時しかうとうととすると、アウギュストが啼いたので目が覚めた、もう夜明である。白んだ戸の隙間から吹き込む風で蚊帳が凄《すさま》じい程煽《あふ》られて居る。
ではじまります(青空文庫より。新字旧仮名になっています)。
すぐにわき上がる疑問――これはいったいいつの台風なのか。もちろん調べてあります。
ヒントは次の部分にあります。
今日の新聞にある電報では独逸の大軍が仏蘭西と白耳義の国境へ集中され、カイゼル自身が国境戦の声援に出馬したやうである。リエイジュの一敗位に懲りる様な独逸ではないから、英仏の連合軍を相手に激しい大会戦が行はれるであらう。
これは第一次世界大戦のいわゆる「リエージュの攻城戦」のことで,このことから1914年であることがわかります。
リエージュの攻城戦というのは,ものの本によると,第一次世界大戦の初っ端,中立国ベルギーが侵入してきたドイツ軍をリエージュ要塞で迎え撃った戦いで,当時の新聞に
勇ましきリエジユ魂
婦女老幼悉く剱を拔いて
祖國の爲めに獨軍と鬪ふ
などとあります(8月13日付東京朝日)。はじめはドイツ軍を撃退しましたが,炸裂する42センチ砲の威力の前に徐々に形勢が不利になり,8月16日ついに陥落しました。
ちなみに,リエージュといえば,リエージュ風ワッフルがあります。丸い形とサクッとした食感が特徴だそうです。
さて,このときの台風について「気象要覧」には
此颱風ハ十日小笠原列島ノ南方海上ニ顯ハレ北北西ノ進路ヲ採リテ進行シ十一日ノ午後父島ノ西方ヲ通過シ十三日ノ朝駿河灣ニ殺到シ遂ニ沼津付近ヨリ上陸シテ北東ニ轉向シ熊谷前橋間ヲ經テ十四日ノ朝金華山ノ東方洋上ニ出テ十五日根室冲ニ去ル
とあります。台風が上陸し関東地方を通過しているちょうどそのころに「颱風」が書かれたことになります。
長津呂で08時に最低気圧720.4mmHg(≒960.5hPa)を観測したように,上陸時,この台風はおそらく今流にいえば“強い”台風でした。八丈島では05時に最大瞬間風速58.8m/sを観測しています。
東京都心では13日の朝から“暴風雨”が吹き荒れました。14日付の東京日日新聞には「十三日早暁から満都に荒れ廻つた暴風雨は日一杯其兇暴を肆《ほしいまま》にした……」とあります。この暴風により,銀座の柳が枝折れを起こし,各地で板塀,垣根,煙突の倒壊が相次ぎました。
ほかには,六郷橋が増水と上流からの流木によって流失,茅ヶ崎の沖合では22人乗りの漁船が転覆し,12人が行方不明になりました。
また,この台風との関係は不明ですが,富山県の神通川流域を中心に大きな水害が発生し,死者156,不明84,家屋流失250,全壊59,半壊56などの被害が出ています。
ところで,この随筆に「台風(原文おそらく“颱風”=引用者注)と云ふ新語が面白い」と書かれており,このころまだ颱風ということばが新しかったことがわかります。実際,“颱風”が使われはじめたのは明治も終わりの1908年で,広まりはじめたのは大正にはいってからです。詳しいことはそのうち書くかもしれません。
与謝野晶子には「颱風」という題の詩もあり,この年の9月22日付の読売新聞に載っています。これも青空文庫で読めます。
ついでに,与謝野晶子が実は“バーゲンおばさん”だった件については能天気Express~新世界版~ ある火災の都市伝説をご覧ください。